小笠原研究員の手記-1
長野県大町市 環境科学研究機構甲信研究所 千人塚研究室
皆さんこんばんは、私は甲信研千人塚研究室で主任研究員を務める小笠原富江です。
日々国内の事案の中でも特に危険度の高い特定管理事案に対応している私達甲信研の業務は多岐に渡ります。
今私が取り組んでいるのもその一つで、首都東京を危険な事案から守り、また危険な事案が東京から地方へ拡散流出することを防ぐための防衛施設『首都外郭防衛線』の分析業務を行っています。
「小笠原ちゃん…そんなに張り切らなくても大丈夫だよ?」
この人は研究室長の千人塚由紀恵主観研究員、私の尊敬する研究者です。
たまに悪のりが過ぎる所にさえ目を瞑ればとてもすごい方で、私達が使う超常関係の測定機器の約半数の開発に携わった機構でもトップクラスの研究者です。
「いえ、折角任せてもらったので!」
「うーん…その気持ちは買うけど…大分適当でも平気な仕事だからね?残業してまでやるようなことじゃ無いし…」
「大丈夫です!タイムカードは切ってあります!」
「いやいやいや!ダメだって!というかタイムカード切ったらPCログインできないでしょ?」
「あ、これメンテナンス用のアカウントなら入れるんですよ?」
「へぇ…って、いやサビ残なんてダメだってば!大河内くん、強制ログアウトよろしく!」
「ハイハイっと…というか小笠原主任、メンテアカのパスなんてどこで知ったんです?」
「え?技術部に聞いたら普通に教えてくれましたけど?」
中部研にいた頃に先輩から教わった裏技ですが、研究室所属の主任以上の研究員には教えなくてはならない決まりがあるそうです。
「…はぁ、とにかく今日はもう終わりにしな?」
「えー…でもそれなら大河内さんだって残業してるじゃないですか!」
「趣味の研究なら残業つけてあげるけど、仕事の事は定時のうちに済ませて時間が来たらプライベートに切り替えて?」
「えぇ…」
天才が故の『クセ』でしょうか?千人塚博士は労働というものを異常なほどに苦行と捉えているというか、部下が労働を苦痛に思っていると思い込んでいる節があります。
…私がやりたくてやっている事なんですが…
「というか、明日から三連休でしょ?あんまり残ってるとその分折角のお休みが短くなっちゃうんだよ?」
「明日から休みなんで多少残っても平気かなって」
「…もしかして、お金無いの?生活残業って事なら適当に勤怠弄って残業つくようにしとくから帰って平気だよ?」
しれっと犯罪&内規違反を仄めかして来ますが…いえ、千人塚博士ならやりかねません。
「いえ、お金は大分持ってます!」
幸いなことに機構のお給料はかなりの額なので態々残業してまで稼ぐ必要はありません。それこそよっぽどの浪費癖でも無い限り毎月余ってしまうくらいです。
「それじゃあなおのこと帰んなよ…自慢のランエボ乗って遊びにいったりした方が有意義だって」
「分かりました…でもなんか帰るの面倒なんで朝までこの辺でごろごろしててもいいですか?」
「それなら構わないけど…あ、折角だし後で三人でスマブラでもやる?」
「おー、いいですね!」
博士と大河内さんは基本的に家に帰らずに半分研究室に住んでいる様な状態です。
博士はお屋敷が上伊那の方で遠いので帰るのが億劫だから、大河内さんは研究室のスパコンを弄っていた方が家にいるよりQOLが高いからという理由かららしいです。
博士のオフィスも大河内さんの仕事場も、割と仕事に関係の無い物品が沢山置いてあります。ゲームやらマンガやら…
しばらく二人とスマブラに興じていると、不意に博士が時計を見てゲーム機を置きました。
「ん?あ、ちょっと私出てくるね」
「ああ、もうそんな時間ですか」
「なんか連絡あったら空携帯に電話して」
「分かりました。気をつけて」
空携帯というのは、機構が保有する低軌道衛星を利用した国内向け衛星通信システムの通称です。因みに構内用の無電池電話は中携帯、通常の通信サービスを利用する携帯電話は仕事携帯なんて呼ばれています。
…いったいどこにいったのでしょう?離島でしょうか?
「気になるなら後つけてみたらどうです?」
私の心を見透かしたように大河内さんが言ってきます。確かに今から追いかければ間に合うかも…
「あ、じゃあちょっと行ってきます」
「はいはい、お気をつけて」
なんというか、探偵みたいでワクワクする!そんなことを考えながら私は博士を追って研究室を後にしました。
甲信研究所 秘匿経路1号TN
甲信研究所の入り口にはかなりの規模のモータープールがあります。
置かれているのは自衛隊、警察、消防をはじめとする各種公共機関のものに偽装した車両や、一般車両風の各種トラック、普通車、二輪車です。
千人塚博士はその中からなれた手つきで消防仕様のSERROWを引き出すと、かなりの大荷物をこれまた手慣れた様子で後部のキャリアにくくりつけて出発しました。
トレイル車のSERROWということは恐らくオフロード…山に入っていくのでしょうか?
モータープールの車両は基本的に鍵が差しっぱなしなので、私も陸上自衛隊仕様のKLXにまたがって後を追うことにしました。
どちらかと言えば、白バイ仕様のCBやFJRの方が好みではありますが、流石に1300ccのオンロードバイクで山に入っていけるほどバイクの運転は得意では無いので仕方ありません。
気付かれないようにある程度の距離を開け、ヘッドライトでばれないように管制灯火にして後を追います。こう考えると自衛隊仕様のバイクにしたのは正解だったかも知れません。
しばらく進むと、博士は関電トンネル本線合流点から右に進路をとります。
確かあっちには黒部ダムがあったはず…
いったい何をしに行くのか益々分からなくなります。
黒部ダムの湖底の更に地下深くには確かに黒部特定管理収容所がありますが、地上からの直接のアクセスはできませんし、地上に対する影響の測定ということであれば、技術部の仕事です。
研究職の人間が態々黒部ダム方面に進路をとる理由が皆目けんとうもつきません。
その後も作業車のダイヤを避けるように進んだ博士は黒部ダムに到着しました。
しかし、そのまま止まることなく、右岸の鹿道にわけいって行きます。
月明かりしかない山の中、それもまだ雪の残る鹿道を迷うことなく博士は進んでいきます。
研究だけではなく、こんなことまで出来るなんて…すごい人だなぁ…
私がそう思った瞬間、博士がアクセル開度を誤ってスリップして転倒しました。弘法も筆の誤りというやつでしょう。
いや、呑気にそんなことを考えている場合じゃありません。
「博士!大丈夫ですか?!」
「おー…いてて…大丈夫大丈夫…ん?小笠原ちゃん…なんでここに?」
「天体観測…ですか?」
目的地だという山の稜線近くの小さな平地で、博士の思いがけない説明を聞きました。
「そう、私の数少ないライフワークの一つだね!コーヒーどうぞ」
「あ、どうも」
SERROWに括っていた荷物は望遠鏡やら何やらの天体観測用の道具だったそうです。
午前二時頃ではありますが、踏み切りではなくトンネル、ベルトに差しているのはラジオではなく無線電話ですが、空を見てみれば雨は降りそうもありません。
「意外です。博士にそんな趣味があったなんて」
「そう?でも私からするとこれが本職みたいなものなんだよ?」
「…あっ、そういえば」
「思い出してくれた?」
すっかり忘れていましたが、博士の専門は天文学やら地学やらだと言っていました。
しかし、それでも不思議です。
天体の観測データであれば離島部に数ヶ所所在する電波望遠鏡や、協力関係にある各種機関から取り寄せることができるというのに、態々アマチュア天文学者みたいな事をするなんて
「信号が青になったときに起きるトラックの追突事故の原因って知ってる?」
その疑問を博士に投げ掛けたところ、よく分からない返答が帰ってきました。
「いえ、居眠りとかですか?」
「残念、視界が高くて遠くまで見えるから、手前の普通車に気が付かずにぶつかっちゃうんだって」
「はぁ…」
いまいち何が言いたいのか分かりません。
「天体観測も同じだよ?望遠鏡で見える範囲、肉眼で見える範囲の事すら…ううん、それどころか太陽系の中の事すら分からないことだらけなのに、そんなに遠くのことまで手に負えないよ」
なるほど、と思いました。
自分の近くから筋道立てて着実に知識を拡げていく。
一段飛ばしの知識を求めるのではなく、しっかりと知識を積み重ねていく。
人類が歩んできた道を踏襲して進んでいくということ…気が遠くなるほどの時間をかけて歩む知識の道、博士はそこに立っている。きっとそういうことなのだろうと思います。
私と話ながらも望遠鏡を覗き込み、時折ノートにメモをとる博士はいつも以上に楽しげな表情をしています。
「たまに私もついてきていいですか?」
「うーん…冬以外なら」
「冬以外…ですか?」
「うん、泡があると危ないからね」
「ホウ?」
三日後…
「博士も冬は行っちゃダメですよ!!」
「どうしたの?藪から棒に…」
博士のデスクに私は大河内さんから借りた資料を叩きつけました。
「『高熱隧道』…ああ、泡の事?」
「はい!」
「小笠原ちゃん…学者さんが小説真に受けるとか…馬鹿だと思われちゃうよ?」
「茶化さないで下さい!ちゃんと実際の泡についても調べてきました!」
泡雪崩は豪雪地帯で発生する表層雪崩の一種です。建物すら吹き飛ばす程のエネルギーを持ち、場合によっては集落の大部分を飲み込む事もある雪崩が時速200kmで迫ってくるなど、自然災害にしたって危険すぎます。
「いや、私は大丈夫なんだけど…」
「アルプスで遭難するお年寄りは皆そう言うんです!信州の人なら分かってますよね!?」
「いや、お年寄りって…」
「いやいや、博士はお若いですよ」
「諏訪先生、それいっときゃいいって思ってない?」
「そんなことはありませんよ?」
「諏訪先生からも危険な事をしないように言ってくださいよ!」
研究室で一番の古株、諏訪先生の言葉なら博士もきっと聞いてくれるでしょう。
何しろ物腰が穏やかで常識的な絵に書いたような紳士ですから!
「ふむ、まあ博士なら平気でしょう」
あれ?
「まあ、色々事情があるんですよ」
諏訪先生と大河内さんにそう言われたものの、いまいち納得いきません。
「そういうこと、ほら朝からカリカリしてるのもよくないからこれでも食べて落ち着いてよ」
「これは…?」
「ロールちゃん、知らない?」
「コンビニスイーツ…でしたっけ?」
パッケージに書かれたかわいらしいウサギのキャラクターが言う通り細長いロールケーキの様なお菓子みたいです。
最近はアン・マリーのケーキばかり食べていたので、こういう量産品は久し振りです。
なんだか騒がしい子供に対するみたいなあしらい方をされている様な気がしますが、まあいいでしょう。
優しい甘さのスイーツを食べたら、細かいことがどうでも良くなっていくのでした。