記憶-case.2 諏訪昭恵
その出逢いを運命だなどと言えば彼は笑うだろうか?
奇跡だと言えば--
諏訪昭恵、旧姓北坂昭恵
埼玉県出身の医学博士で超常生理学分野の研究者である。
通常、超常の両面における著名な研究は幾つかあるが、彼女について最もよく知られているのは諏訪光司の妻という部分であろう。
かつてUNPCCの公式声明の中で『人類史上最悪の狂人』とまで言われた彼女の夫ではあるが、意外にも二人の出逢いはごく平凡な、少なくとも傍目にはそう映るものであった。
超常生理学研究者として彼女が赴任した研究所の若き所長
その才能と情熱は、それは眩いばかりのものであっただろう。
夫婦となった二人は日々の研究の悍ましさとは対極の暖かな日々を送る。
諏訪光司もその成したるものに似つかわしく無いほどに穏やかで洗練された人柄をしているし、そもそも同じ様な目的を持って同じ職場で働いている二人である。
仕事と生活ですれ違う様な事も無く、互いが互いを尊重し合う様は正に比翼連理の喩えのそのままであったとさえ言って良いだろう。
少なくとも傍目にはそう映っていた。
もちろん夫婦仲の良さは真実であるし、互いを想い合う気持ちは本物である。
ただそれ以上に昭恵は夫の才能に惚れ込んでいた。
自らも高名と言って差し支えないほどの研究者である彼女は、しかし諏訪光司の研究を支える道を選んだ。
その心持ちが如何なるものであったのかは当人にしか分からないものの、それでも周囲はまるでシューマンにおけるクララの成したる姿の様であると評したものであった。
そんな彼女の満ち足りた日々はある日突然奪われた。
その日、珍しく彼女は仕事を休んでいた。
不調を感じ、医師の診察を受けるためだ。
幸いな事に彼女の属する会社は通常・超常両面において広範な医療知識を有する企業であり、その社員である彼女は優先的に精密検査を受ける事ができる。
なんらかの有害な超常事物に曝露したことが原因の体調不良かとも懸念されたが、結果としてそのような有害なものの兆候はなく、代わりに彼女にとって喜ばしい知らせを受ける事になった。
さりとて夫にはどのように説明したものかとも思う。
もちろん彼の性格を思えば喜んでくれる事は間違いないだろうが、反面として研究の妨げになってしまいはしないだろうかとの懸念もある。
(これだけ生命について学んでも、所詮私は本能の奴隷だ)
心中の自嘲とは裏腹に彼女の足取りは軽い。
己がことながら実に道化ているとは思いつつも思考と身体は感情に引っ張られている。
どのみち慶事であることに変わりはない。それを思えば無粋な不安など抱くべきではないだろうと、思考を切り替えた彼女のすぐ目の前に一台のバンが停まった--
黒いスーツに身を包んだ集団に車の中に押し込められた彼女は薄暗い部屋の中で尋問を受けていた。
いや、今の所尋問とも呼べない程度の事情聴取程度のものである。
「ではあなたのお名前を教えてください」
「す……北坂昭恵」
諏訪光司と昭恵は夫婦であるとはいうものの、正式に入籍はしていない。それは諏訪光司が世界中から追われる身であり、詳細な人間関係については伏せておくべきという判断によるものだ。
「北坂? 諏訪ではなく?」
しかし尋問をしている女はそんなことお見通しとばかりに聞いてくる。
「諏訪? 一体誰の話をしているのですか?」
「あなたの話、そしてあなたの旦那さんである諏訪光司博士についての話です」
その言葉に昭恵は背筋が凍りつくような感覚を覚えた。
夫に関してはその行為以外のあらゆる個人情報が伏せられているはずなのだ。
それを探り出しうる者達は国内においてたった一つしかない。
環境科学研究機構
焼き尽くされ荒廃した国土より生まれ出でた歪み
太古より連綿と続く人々の営みが文明の悪意によって醜く歪んだいわば世界の自己矛盾がそのまま形を成したかの様な者達である。
世界中に同様の超常管理団体は数多あれど、その中にあってすら異質にして異端
自らの信ずる正義を為すためには一切の躊躇なく滅びの、全面超常戦の引き金さえも引きかねない偏執狂の集団である。
「人違いではないでしょうか? えっと……皆さんは警察の方、ですよね? 戸籍を調べていただければ私が独身であるということも分かると思うのですけど……」
上擦りそうになる声を必死で押し留め、飽くまで哀れな一般人を装う。
相手がどの程度の確証を持っているか分からない以上、こうしておくのが最も効果的であろう。
そんな彼女の姿に目の前の女は呆れたように溜息を吐いた。
「そうですか、それであれば構いません。元々あなたの協力を得るというのは私の我儘で進めていた話です。協力が得られないのならば本来の方針に戻るだけです」
そう言って女は席を立った。
「……さようなら」
情報収集のための拷問は至短時間でかつ非常に効果的な手法を複合的に行う。
彼女の夫や会社が異常に勘付く前に全ての工程を終えねばならないからだが、その分直視できない程に凄惨なものになってしまう。
「……情報は取れそうに無いね」
「そ、そうですね……」
「羽場くんも無理しないで大丈夫だよ? 向こうで休んでな?」
「いえ……じ、自分は問題ありません」
最近まで真っ当な自衛官だった彼だ。このような人道に悖る行いへの耐性が低いだろうことは容易に想像がつく。
その事を責めるつもりは毛の先ほどもないし、そういう反応は当然あって然るべきだとも思う。
徐々に慣れていって欲しいとは思うが今のような心の運動を忘れて欲しくないというのも私の偽らざる本音である。
人の道に外れる事の多い仕事ではあるが、それも全ては人類存立の為である。
であればこそ、人としての心を失うべきでは無いだろう。それが果てしなく困難な道だというのは理解しているが……
「そういえば守矢主任はどちらに?」
「久ちゃんなら開始5分でリタイアだね、多分まだトイレで吐いてるんじゃないかな?」
今回の拷問を含む準備行程は東京医療研究所の職員によって行われている。
適切で効果的な苦痛、傍目に見て取れるほど痛々しい裂傷、打撲……全て私のオーダーの通りではあるが、正確なその仕事は正に地獄絵図と呼ぶに相応しい。
「小作先生、そのくらいにしておきましょう」
「よろしいのですか?」
「ええ、この後の予定もありますから」
「ああ、もうこんなに時間が経ってしまっていましたか! いやはや楽しい時間というのは過ぎるのが早いものです」
「そうですか……」
小作先生とて悪意があるわけではない。
むしろ自分の職務に熱中してしまうのは『機構』職員としてはごく普通の姿だ。彼の職務が少しばかり猟奇的であるだけで本質的には私や久ちゃんが研究を行ったり、羽場くん達調査員のみんなが訓練に打ち込むのと何ら変わらない。
「では次の行程に進みましょうか」
「……ええ、お願いします」
諏訪光司の逮捕、もしくは無力化などという畑違いも甚だしい仕事を任されたのは仕方がないにしても正攻法でそれを成し得る能力がうちの研究室に無いのは明らかだ。
業務内容としては敵対的な超常研究者の確保であり、恒常業務の一つに過ぎないことは間違いない。それ故に東京支部からの要請を単なる恒常業務と誤認して丁度手隙の私たちに命令が下ったのだろうと想像がつくし、日々の煩雑な業務の中でそれを成した理事会を責めてばかりもいられない。
世界最悪のマッドサイエンティストとはいえ、所詮は個人である。
今までその正体を掴むことさえできなかったのは偏に彼の所属する会社による妨害があったためだろう。
確かに個人の能力だけで『機構』を出し抜き続けた人間がいないわけではない。
十数年前に『機構』に帰順した『マーシー教授』こと自称『セントジョージ』本名篠崎藤十郎がまさにそれだが、彼のような不世出の天才がこんな短いスパンで出現するなど早々あることではないのだ。
現況を確認した私からの要請を受けて警察と本部の要員が諏訪光司の所属する企業『笹塚製薬』に強制捜査を行う手筈になっているし、それと同時に私たちが彼の身柄確保に挑むのだ。
その上で確実に職務を遂行するための保険として諏訪昭恵を利用する。
『笹塚製薬』に浸透したGS調査員によれば二人は仲睦まじいおしどり夫婦として社内でも評判とのことで、そんな部分を利用した罠であれば確実性は高かろうし、仮に無力化に至らなかったとしても彼の精神に多大なダメージを与えることは可能だろう。
如何に抜け目なく才気溢れる人物であろうとも精神の平衡を失えば付け入る隙などいくらでも生まれるものだ。
事実『機構』は多くの敵対的な人物をそうやって葬り去ってきたし、私自身そういった現場に立ち会うのも初めてではない。
「できればその前にもう一度彼女と話をしたいのですが……可能ですか?」
「ええ、まだ時間にも余裕があるので構いませんが……まともに話せる状態ではないと思いますよ?」
それでも私がその道を選んだのは完全な気まぐれだ。
ただ最後に一度だけ言葉を交わしてみたいと思った。信心深いものであれば何某かの意図の様なものを感じるところであろうが、生憎と私は運命やら神意やらと言うものとは距離を置く様にしている。
なのでこれは私自身の、一個人としての単なる我儘だ。
外傷がもたらす痛みと薬物によって朦朧とした意識の中でも、彼女の心の芯は未だ萎えていなかった。
会社で受けた対尋問訓練の効果もあるだろうが、悪趣味な拷問において世界最高峰の実力を誇る『機構』のそれに対してここまで持ち堪えたのは偏に彼女の精神力の成せる業といっていいだろう。
脱出は不可能にしても、目前に迫った危機をどうにかして夫に伝える方策は無いものかと
この状況下においてそれがどれほど困難なことであるか、そこに意識を向ける余裕は彼女にはない。
ただ、執念……夫婦の情愛などと生易しい言葉では表現しきれない程のそれのみが彼女の思考と精神を保っている。
「少し、いいですか?」
いつの間にやら彼女の前に簡素なパイプ椅子を置き、静かに語りかけてきたのは先にも見た女だった。
「……」
何を企んでいるのか分からない相手である。彼女は沈黙をもって答える。
「答えたくないことには答えていただかなくて結構です。何を知ったところで私たちがこれから行う事に変更はありませんし、貴方も旦那さんもどちらの助命も行う段階にはありませんから……」
女の言葉は即ち情報収集の段階は終わったことを示している。
その上でのこれである。自分がこの後どの様に用いられる事になるのか……今まで伝え聞いた『機構』のやり方を思い起こせばそれがなんであれ悪趣味を煮詰めたようなものであることは容易に想像がつく。
「貴方には……貴方と貴方のお子さんには助かる道があった……いえ、少なくともその可能性を感じて縋れる道があった。それでも貴方はその道に見向きもしなかった」
随分と正直な物言いである。
はなから生かしておくつもりなどなかったと言っているようなものである。彼女は意外に思ったが、そもそも交渉の段階は過ぎ去ったのだから何を言ったところで変わらないという事なのだろうと納得した。
「何が貴方をそこまでさせるのです? 外野がとやかく言うことでは無いとは思いますが、貴方のそれは伴侶を守る強い意志なんて枠を超えている。最早狂気だ」
狂気……言い得て妙だと彼女は小さく笑った。
ほんの少し口角を上げただけでそのまま顔が裂けてしまいそうな痛みを感じたものの、それもまた己のありようをこの世界に刻みつける儀式であるかの如くやけに大事なものに感じられた。
「狂気……ええ……狂気……そうなのでしょうね……だからこそ、貴方達には理解できない……私とあの人だけの……そう……ふふ……狂気……」
譫言のようにこぼれ落ちる言葉を女は何も言わずに聞く。
「私の命も……私たちの子供も……あの人の道を……遮ることなんて……できやしない……そんなものを省みるような貴方だったら……愛さなかった……貴方は何もかもを置きざっても……貴方のままで……」
なんともスッキリしない気持ちを抱えたまま、私たちは一路甲信研に向かっていた。
諏訪昭恵氏に仕込んだ高性能爆薬も起爆装置ごと圧壊させられ目標には届かなかった。いくら荷が勝ちすぎた仕事とはいえはっきり失敗というのは気分の良いものではない。
……いや、この気分は業務が失敗に終わったとか、そんな安い話とは関わりのない部分からきているのだろう。そのことは十分にわかっている。
諏訪昭恵氏との短い問答、彼女を容赦なく殺した諏訪光司……
表面だけ見れば一方的な偏愛がもたらした悲劇的な最期に見えなくもないが、反面言語化のしようが無い漠然とした部分であの二人は通じ合っていたようにすら感じてしまうのだ。
一般的な幸福の枠からは明らかに外れていよう。
それでも当人達にとってのそれは他人などには想像も出来ないものだ。
腹を裂かれ、二人の過ごした日々の結晶を取り上げられて尚、最期には幸せだったのだろうか……?
そう感じてしまう程にはあの瞬間の二人は……いや、結局何を考えたところで分からないものは分からないだろう。
堂々巡りに陥りそうな思考を無理矢理に切って窓の外を眺める。
土曜日の早朝、楽しそうな家族が乗ったセダンが私たちの車列を追い抜いていく
「全く……なんだかなぁ……」
ともかくこれで私たちの役目は終わりだ。とっとと帰っていつもの日々に戻ろう……
東京都豊島区 雑司ヶ谷霊園
池袋駅からもほど近い閑静な霊園、その片隅にある簡素な墓の前に彼は立っていた。
ただ一枚の写真だけが収められたそれは、その主の成したものとは明らかに似つかわしくない小さな墓だった。
師とは正反対で宗教心に乏しい彼が建てたものであるが故に、既存の宗教における必要な形式すら満たさぬ程のそれは、その主人が確かにいたことを表す記念碑と呼ぶ方が相応しいのかもしれない。
いつものように丁寧に掃除を済ませた彼は、仏花には些か派手な花束を静かに置いた。
故人に手向けるのではなく、愛する人に贈るための花束を……
優しく微笑み、墓石に触れる。
伝わってくるのは石の冷たい感触、しかしそれは大切な思い出を胸に深く刻み込むための儀式と呼ぶべきものだ。
時間にしてほんの数分、立ち上がった彼は歩き出す。
数ヶ月に一度の大切な時間を終え、再び日常へ戻るために
都電の雑司ヶ谷停留所に向けて歩いていると、背後から聞こえよがしのクラクションが聞こえた。
「や、奇遇だね諏訪先生……乗ってく?」
そこにいたのは千人塚由紀恵博士、なんとも奇妙な縁で結ばれた彼の上司である。
「おや、博士もどなたかのお墓参りですか?」
「いや、今日は本部で会議があったからね……ほら今日はさ」
今日は彼の妻昭恵の命日である。
妙な取り合わせになったものだと彼は心中に苦笑を噛み殺した。
「いいから乗りなよ、今日は電車なんでしょ?」
「ははは、全部お見通しですか?」
「そりゃGPSがあるからね」
「ふむ、ボケてしまっても迎えにきていただけそうで安心です」
最悪のマッドサイエンティストとして悪名を世界に轟かす彼である。あくまでその行動を厳重に監視するためのものであることは十分に理解している。
「では運転を代りましょう。博士では首都高に乗る前に車がバラバラになりかねませんから」
「あはは、否定できないや! よろしく!」
遥か彼方に過ぎ去った穏やかな日常
目の前に広がる異常な日常
全く別のものであってもそのどちらも満ち足りた幸せなものだと彼は思う。
そしてその両方を与えてくれた良き片羽を思い、小さく呟く
「あの出逢いを奇跡だといえば君は笑うだろうか?
君がくれたからこその運命だと言えば--」