【衆院選記念番外編】一片の剃刀
※本編『千人塚博士の異常な日常』の時系列です。
某日
環境科学研究機構甲信研 千人塚研究室
「あ、そうだ忘れてた!」
忙しい日々の中にあって、ぽっかり空いた緩やかな午後、突然博士が何か思い出した様です。
私が尊敬する頼れる上司ではありますが、とんでもなく抜けている事もあるのが博士です。
何か緊急性のある案件かなにかかとこの場にいる全員が僅かに張り詰めます。
「何か急ぎの案件対応ですか?」
諏訪先生が穏やかに尋ねます。
紅茶片手に優しげな微笑みを湛えてはいますが、白衣は血塗れです。
先程まで趣味の研究をしていたらしいのでその名残でしょう。
詳しいことは知りませんし、あまり知りたくありません。
「いや、そう言うわけじゃ無いんだけど……」
博士の答えに全員がほっと胸を撫で下ろします。
しかし、だとするとなんでしょうか?
「えーと……よかった、大丈夫そうだ!」
博士は何やら私達の勤務予定を眺めて安心した様子ですが……
「急で悪いけど、今週末は全員オフね」
「はぁ……構わないですけど、何でです?」
大嶋さんが巨大なダンベルを持ち上げながら聞いています。
一体何キロあるんでしょう?
「何でって、今週末は選挙の投票日でしょ?」
「あー……そういえばなんかそうらしいですね」
言われてみれば最近TVでもそんな話題が多かった様な気がします。
「って言っても正直政権交代とかされても面倒だなぁくらいしか思って無かったですね」
義手を磨きながら藤森さんが言います。
正直なところ私も同意見……というかあまり気にもしていなかったというのが本音です。
『機構』に所属している以上、表の世界の権力闘争なんて興味も湧きません。
「……そういえば皆ちゃんと投票行ってるの?」
博士の問に皆さん苦笑いで返します。
よかった……私だけじゃ無いみたいです。
「そうは言ってもここ最近忙しかったので……なぁ?」
「ぼ……僕は行ってます!」
大嶋さんに話を振られた片切さんは意外にも投票に行っているそうです。
こう言ってはなんですが、あまりアクティブに外出するタイプでは無いので少し驚きです。
「おっ! さっすが!」
「ひょ、表現規制、をこれ以上悪化させたら……その、生きていけないので……えっと……」
「なるほど、エンタテインメントを守るため……ですか……それも立派な政治でしょう」
「確かにね……私もマンガとかアニメとかゲームが規制されるのは嫌だなぁ……なんか良さそうな候補者いる?」
「だ、だったら! こ、この人です!」
鞄から選挙公報を取り出した片切さんは、いつになく饒舌かつ熱の籠もった様子で、それもかなりの早口で候補者について語ります。
選挙演説もかくやというほどですが、あまりの熱量につい聞き入ってしまいました。
「なるほどなぁ……よっし! 俺もそいつに投票しよう! ちょっと政党をメモらせてくれ」
「あ、なら、後で私物携帯に送っとく……」
研究室でも特に仲の良い大嶋さんが取り込まれたのは当然の事かも知れません。
「でも意外ですね、博士って政治とか興味無さそうなのに」
そもそもかつて『誰が権力の座についても構わない』みたいな事を言っていたのは博士だと思うのですが……
「まぁ……確かに政治には興味ないなぁ……」
「ん……?」
「でも、選挙は別だよ! がっさんもどこに投票するかしっかり考えときなよ?」
珍妙な事を言うのは博士らしいと言えば博士らしいですが……今日はいつも以上に頓珍漢です。
「博士、私達には関係ないじゃ無いですか」
「ん? どういうこと」
博士の言葉に頭を悩ませているとつまらなさそうな顔で静代さんが言います
「だって私達女ですよ?」
「うん……あ、なるほど!」
これは私にも分かります。
静代さんは見た目こそ二十代の美人さんですが、中身は明治時代のお婆さんです。
女性に選挙権が与えられたのは戦後だということは流石の私も知っています。
「……お婆さんって、酷くないですか?!」
「あっ……」
あまりにも慣れていて気にしていませんでしたが、現代最強のPSI能力者……
「ご、ごめんなさい! そんなつもりじゃ……」
「どうせお婆さんですよーだ!」
「はいはい、喧嘩しないの! 私からみりゃ二人とも若造どころの騒ぎじゃ無いんだから」
「そりゃ人類トップお婆ちゃんですしね、博士は」
「藤森ちゃん、なんだかトゲが無いかな?」
「いやいや、そんなことは無いですって! ね、班長」
「俺に振ってくるなよ」
「ほぉ……二人揃って私をババア扱いとは」
薮蛇……どころか大嶋さんに至っては藪に立ち入ってすらいなかったような……
「いや、博士はまだまだお若いですよ?」
「もっと言って諏訪先生!」
「茶番はさておき、今は女性にも選挙権があるんですね……」
「ちゃば……あぁ、うん。静代さんは戸籍だとか住民票だとかも偽装して登録してあるからいけるはずだよ」
「おぉっ! なんかわくわくしてきました!」
欲していたのかはともかくとして、無くて当然と思っていたものが手に入った事に興奮する静代さん……
「でも正直なところやっぱり興味ないんですよね……私が投票したところであんまり意味も無いでしょうし……」
結局私の一票があったところで何が変わる訳でも無いでしょうし……
「がっさんは真面目だねぇ」
「真面目……ですか?」
思いもよらない博士の言葉
「そうだよ、だって興味無さそうなのに考えてることはこの国の政治を良くしたいって事でしょ?」
言われてみれば私の思考の方向性はそうだったのでしょう。
「でも、選挙ってそういう物なんじゃ」
「堅い堅い! よく考えてみなよ、ながーい歴史で権力者の命運を私達小市民が握るなんてそう無かった事だよ? 特にコミュニティが大きくなってからは基本的に雲の上で勝手に決まっちゃってる様なものだったし」
言われて気づいたのは博士が生きてきたという長い長い時間
当然の様に目の前にある価値観すらも無い時代から、それが出来上がっていく課程を見てきたからこその言葉……
「別に誰に投票するんでも構わないよ、それこそこいつは顔が気持ち悪いから投票しないだとか、こいつはむかつくから対立候補に投票するだとかでもね……それでも折角皆のご先祖が作り上げてくれた、嫌な支配者達に民衆が一発かましてやれるシステムなんだから使わないのは勿体ないよ」
言葉こそ軽いものの、一言一言に込められた重みが凄まじい……
政治に興味の無い博士が選挙には拘る理由が分かったような気がします。
「カジュアルで構わないのよ、ただ私達の一票で普段ふんぞり返った政治家が一喜一憂するなんて、痛快だと思わない?」
「確かに……そうですね……うん、楽しそう……かも」
「どうせ実害も無いし……ね」
「まあGS連中は大変でしょうけどね『説明』と『協力要請』あとは相手によっては『退出誘導』とか……」
「……?」
何のことでしょう? 隠語でしょうか?
「ま、そんな感じでしっかり投票行くんだよ?」
「はいっ! そういえば安曇さん達は?」
あの二人も多分私と同じ様な考えをしていそうですが……
「はい」
「呼びました?」
「あれ、二人とも今日は有給じゃなかった?」
「いえ」
「週末遊びに行く予定なんで」
「「期日前投票に」」
「お、流石は双子ちゃん!」
……別に後輩に遅れをとったなんて思いませんが、ええ思いませんとも!
「お二人の方が大分しっかりしてましたね」
「うぐっ……勝手に考えを読まないでくださいよ」
でも、少し楽しみでもあります。
誰に投票しようかな……
数日後……
「大分つかれてるねぇ……」
「ええ『説明』業務で……」
「こんなところに来てる場合なの?」
「勿論、これが本来の御役目ですから」
「ふぅん……別にどうなろうと知ったこっちゃ無いけど、寝首を掻かれないように気を付けなよ?」
「ふふ……脅しているおつもりで?」
「さぁ? どう受け取るかは自由だけどね……皮肉なもんだと思ってね」
「皮肉……?」
「いや、大した事じゃ無いよ……ただ黴の生えた古い連中が新しい概念に苦しめられてるのが面白くってね」
「不敵ですね……今一度御自身の立場を顧みた方が宜しいのでは?」
「その上で言ってるんだよ? 貴方達は心の侭には動けない。それがどれ程の枷になるか……分からない貴方じゃ無いでしょ?」
「ふふ……ふふふ……そう、それでこそです姫命! やはり貴女は……!」
「はぁ……もういい? 仕事に戻りたいんだけど」
「ええ、構いませんとも」
選挙の結果が出てから片切さんは妙に活き活きしています。
応援していた候補者が見事当選したからでしょう。
私も意外と面白いお祭りに参加したような新鮮な気分でした。
非日常、という言葉は一般的な視点でみれば私達の日常そのものをさすのでしょうが、私にとっての非日常は思いがけず身近にあったようです。
「いやぁ、しかし今回の選挙は大当たりです」
「ですね! 管轄から『説明』対象も出ませんでしたし、そのお陰で『協力要請』も『退場誘導』もありませんでしたし」
ホクホク顔の大嶋さんにと藤森さん
「そういえばこの間から言ってる『説明』とかってなんです?」
「ああ、そういえば研究職の人達はあまり関わらないですよね」
「『説明』は新たに超常に触れる権限を得た政治家に対する情報開示、『協力要請』は文字通りあらゆる手段を使って『機構』への協力を要請すること『退場誘導』は『協力要請』に従わない政治家を開示した情報諸共破棄すること……早い話が情報の押し売りと脅迫と暗殺ってこと」
「あ、博士! お帰りなさい」
何処となく疲れた様子ですが……
「ただいま……この業務があるから『機構』は国政選挙に介入しないわけ。どうせ邪魔者がいたら御退場願うわけだしね」
非常に物騒な話です。
ですが、納得も出来ます。
博士の言っていた『実害が無い』という言葉の意味も……
二重構造の世界、その両方に足をついて生きる私達『機構』と民主主義
現状の最適解がきっとこの形なのでしょう。
生きる責任と生かす責任
その二つは全ての人が負っているのですから……




