耳鳴りナビゲーション
十一月の終わる頃に、僕は車を運転し、一時間かけて高原に向かった。ときどき、僕は自然の中で散歩がしたくなる。意味もなく無性に。それは、ふとした瞬間に思う。落ち込んだ時や、頑張ろうと思う時ではない。ただ理由があるとしたら。耳鳴りがした時だ。キーン
初めて行ったその高原には人が一人もいなかった。十一月の終わり頃だからだろうと、僕は思った。その高原には牧場があるが、羊や牛は家畜小屋にいたため、牧場にも何もいなかった。この広い高原で僕はひとり散歩をした。音楽でも聴こうと思ったが、イヤホンが見当たらなかった。どうやら家に忘れてきたみたいだ。
牧場のシーズンが終わったのか、牧場には柵がなく、歩道と牧場の境目がなくなっていた。コンクリートの歩道を歩くのに飽きた僕は、芝生が生い茂っている牧場に入った。前を見ても、後ろを見ても、目的地と言えるものがなく、ただ歩き続けた。こんなに無心で歩くのは久しぶりだ。中学校での初めての遠足を思い出す。
その遠足では、約十キロメートルの距離を歩かされた。季節は春で、天気がよかった。僕は、入学して初めてできた友達と歩いていた。あの頃は、入学式でたまたま隣の席になっただけで、友達になれた。僕たちは遠足の道中、お互いに好きなテレビ番組やお笑い芸人について話し合った。地方ではテレビ番組が少なく、たいていの中学生は、全く同じテレビ番組を見ていた。そのため、自然と話があった。目的地の公園に着くと僕達は、キャッチボールをした。少し疲れると、芝生に座り、また話をした。話の途中で、突然、友達が、遠くにいる一人の女子を指差して、僕にこう言った。
「あいつ、お前のこと好きらしいよ」
僕は、反射的のその女子の方に目を向けた。目を向けてから、その言葉の意味を理解した。どんどん心臓の音が、大きくなる。
「いきなり何言ってんだよ。そんなわけないだろ」
僕は、平気を装いそう言った。しかし、視線をその女子から離すことはできなかった。
「あいつと同じ小学校で、よく話すんだよ。それで聞いた」
心臓の音が、どんどん大きくなっていく。
「それ俺に言っていいの」
「ダメだと思う。だから内緒な」
友達は笑いながら言った。僕は、とてつもない国家機密を知らされたぐらい、ドキドキした。そして、耳鳴りがした。キーン
十年以上前の記憶を、思い出しながら、高原を歩き続ける。結局その友達とは、遠足後あまり話すことがなく、自然と距離をとり離れていった。今でも、連絡を取り合い、年に二回ほど会う友達はいるが、何がきっかけで友達になったか覚えていない。たぶん、入学式で隣の席になったことよりも、くだらないことだろう。ふと、足元に目をやると、履いているコンバースのつま先が、土で少し汚れていた。
中学生の頃、バス通学だった。中学生になったことを機に、親が新しい靴を買ってくれた。白色のミズノのスポーツシューズだった。その頃は、履く靴なんて何でも良かったし、軽ければ軽いほど喜んだ。その靴を履き、軽い足取りでバスに乗った。
十分ぐらいで、中学校の最寄りのバス停に着く。バス停から中学校までは、徒歩で十分ぐらいかかる。小学校を卒業したばかりの僕は、その中学校がものすごく遠い場所に感じていた。移動できる範囲が広くなったことに、喜びを感じながら、バスの窓から外の景色を見ていた。入学したばかりの頃は、知らない建物や店の看板を見ているだけでも、楽しかった。そして、いつの間にかバス停についていた。
バスから降りるときに、一人の男子学生が、僕の靴のつま先を傘で突っついた。傘の先端の分だけ、つま先は黒く汚れた。少しむかついたが、無視をした。その男子学生は、ごめんと誤ってきた。僕は無表情でいいよといった。つま先の汚れは、家に帰った後、洗ったら消えた。なんともいえない心のモヤモヤは、簡単には消えなかった。そして、耳鳴りがした。キーン
高原で見上げる空は、いつもより青く感じた。僕がいくら傘で突っついても、汚れることがないだろう。三十分ほど歩いて疲れた僕は、ベンチに座った。コンクリート製の、そのベンチは冷たかった。ジーンズを履いていたが、臀部が冷えるのがわかった。それでも疲れていた僕は、そこに座り続けた。スマートフォンを取り出し、画面を見るが、高原は圏外だった。仕方なく目をつぶった。
はじめてできた彼女との初デートでも、コンクリート製のベンチに座ったことを思い出した。季節は今と同じくらいで、やはり、臀部が冷たかった。
それぞれ別の高校に通っていた僕たちは、通っている高校の話をした。会話は誰が聞いても、ぎこちないものだっただろう。しかし、それでも楽しかった。会っているだけで楽しかった。時間が経つと、手を繋いだ。お互い手袋をしていた。はじめて女性と手を繋いだ感触は、ゴアゴアしたのものだった。それから手袋を外して、手を繋いだ。暖かかった。手袋をしている時よりも。
僕はキスをしようと顔を近づけた。
「さっきコーンポタージュ飲んだから、いや」
彼女は照れながら言った。
「俺もさっき寒かったから、おしるこ飲んだ」
「え、あれって若い人でも飲んや。おじいさんが飲むもんやと思ってた」
「それは偏見やって」
僕たちは、笑いながら話した。そしてキスをした。はじめてのキスは、甘いコーンポタージュの味がした。そして、耳鳴りがした。キーン
僕は目を開けた。遠くの方に自動販売機が見えた。高原の中、ポツンと立っていた。自動販売機に向かって歩き始めた。臀部だけではなく身体全身が冷えていた。何か温かいものを飲もう。僕は歩き始めた。目的地を見つけた。