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僕らの  作者: 透
2/2

僕ら、満開の櫻の下

 

「今日香織さんいないの?」

「すみません、体調不良のようで」

「めっずらし」


 佐藤が本当に意外そうに呟いた。休んだ女優は今回のシーンで一瞬だけの出演だったため、彼女の部分だけ後撮りをすることになった。

 現場の空気はここ数日なんとなく淀んでいた。皆が何か良く分からない焦燥のようなものを無意識に感じている。


『お前はさ、変わらないよな』


 スタッフが見ている中で、中島が三田に語りかける。

 不穏さに反して、尾瀬の切なげな瞳がガラス球のように揺れている。彼の演技は乱れない。

 それどころか、一抹の不安を抱える現場の人間達は実直な彼の太い芝居に当てられて釘付けだった。彼の声に包まれているだけで、自分が強くなった気分にすらなる。

 広瀬も言い様の無いものに胸の奥が満たされる。俺、なんでこんなに夢中になってるんだろ、そんなことさえ思う。

 佐藤のカットが掛かり、照明が地明かりに戻る。わらわらとスタッフ達が己が仕事を成す為に動き回る。尾瀬は監督らと映像を確認している。


「なんかこの常磐君の動き、ニュートラルじゃないんだよね」

「作為的ですか」

「そうそう、ま、操ってるの尾瀬くんだからそうなるのもわかるけど」

「肘ですかね」

「君の動きが取り込まれちゃってるんだよね。ちょっとー、広瀬君」

「はーい」

「ここのシーン、ちょっと尾瀬君とやってくれない?」

「え」

「台詞も多くないから大丈夫、練習だから」

「わかりました」


 広瀬は数分の映像を確認しただけで、注文を引き受けてみせる。

 佐藤は違う人間の動きを一旦尾瀬に見せて、凝り固まった常磐の動きに刺激を与えようとしているのだ。演技に問題は無いが、広瀬は別のことを気にしてそわそわしていた。


 大学の教室の片隅に座る広瀬に尾瀬が話しかける。尾瀬の瞳はとうに熟れて、諦めすら感じさせる。広瀬演じる三田は気がつかない。逆に言えば、広瀬はその気持ちを感じ取っている。

 愛おしさを隠そうともしない、炎を纏う双眸に晒されて、広瀬は胸中を炙られる思いだった。余りにも熱すぎて焼き切れ今にもどろどろと流れ落ちそうな激情を、内に秘めたることのなんと妖艶なことだろう。ストイックで静かな性質の尾瀬がこんな世俗的な感情を宿らせていると思うと、今すぐにでも表面の殻を破って暴きたくなる衝動に駆られる。尾瀬は現実にこんな表情で誰かを想うことがあるのだろうか。なんだか、すぐそばにいる彼の気配すらくすぐったい。振り払おうとするほど、思考が深みへはまり、ふわりと香った尾瀬の香水の甘さに今更気がついてしまった。疼く心臓を押さえて、なんとか外には出さないように芝居を続ける。

 視界だけが妙に鮮明で、目の前の尾瀬の笑みから目が逸らせない。

 気まずくて彼の傍らに置かれたペットボトルへ視線を逸らすと、ミネラルウォーターが窓の外の空をきらきら反射していた。透き通った水が静止する輝きに目を奪われる。誘うように、それは様々なものを詳細に映し出して揺らめいている。もっとよく見たいと食い入るように顔を寄せるとなんの前触れも無く、それは破裂し、砕け散った。

 時が止まったように、静寂だけが辺りを包んでいる。広瀬は今にも自分に降り掛かろうと眼前に広がる水をただ見つめることしかできなかった。


「広瀬君、大丈夫か?」

「…あ、はい」

「流石だね、本当に常磐君が中に入ってるみたいだったよ」

「え、はい」


 尾瀬に声を掛けられて自分は演技を終え、映像を確認していることに気がついた。咄嗟に先程のペットボトルを視線で確認すると、何事もなかったようにそこに置かれている。そちらに気を引かれて、佐藤への返事がおざなりになってしまった。余り自分では常磐らしさは意識していなかったのだが。ぼうっとしていた意識を取り戻しながら、確認半分で取られたデモを確認すると、まるで他人のような自分がそこにいて驚いた。自分はこんな演技をしていただろうか。日々の反省のためにも比較的自分の演技を見るタイプの広瀬であるが、映像の自分は、まるで鏡写しの他人のようで気持ちが悪かった。こんな風に感じるのは初めてだ。瞳の据え方一つとっても、全然違う。映像の自分と画面越しに目が合った。

 何か得体の知れない雑念が混じっていると気がついて、ふるりと寒気に身を縮ませる。


 本当に常磐君が中に入っているみたい。





 お疲れ様でしたーという挨拶もそぞろに尾瀬は自身の控え室へ向かった。

 今日は珍しくバライティ番組への出演で、自分の役者としての経験などについて語ったり、プライベートなことまで掘り下げた内容だった。

 慣れないトークにとっぷりと疲れて、廊下を歩いていると突き当たりの自分の控え室の戸が丁度閉まるのが見えた。

 基本的に貴重品なども置いてある控え室には施錠が施され、自分は先ほどその鍵を他のスタッフから受け取ってきたばかりだった。

 出演前に鍵はしっかり閉めたはずだった。

 しかし、誰も開けようのない部屋に誰かが入っていった。

 十分に警戒しながら、尾瀬は控え室の戸をそっと開けた。



 数十分後、マネージャーが尾瀬への連絡事項を抱えて、控え室を訪れていた。中から返事はない。ノックは幾度と無く重ねたが一向に気配は動かない。中の電気は付いているし、尾瀬が控え室へ向かった事は他のスタッフに聞いていた。


「尾瀬さん?」


 試しに捻ったノブはあっさりと回り、戸が開いた。

 中に視線を這わせると、机にうつ伏せになっている尾瀬の背中がある。


「尾瀬さん」


 背中を揺するとこちらの心配に反して、尾瀬はゆっくりと体を起こした。

 怠そうに目を擦っている。


「俺、寝てました?」

「何かあったのかと思いましたよ。大丈夫ですか」

「平気です。いつの間に寝たんだったか」

「余程お疲れだったんですね。昨日は遅くにラジオの出演もありましたからね」


 尾瀬は本当に不思議そうにしている。


「なにか、連絡事項が?」

「ああ、そうです。この前の…」

「ああ…」


 一通りの会話を終えて、マネージャーが部屋を出ていく。彼は自分を送るために車を回してくれるだろう。急がなければ。

 それにしても、本当にいつ眠ったのだろう。


 …大分あれに近づいているんだろうか。


 何処へでもなく目線を上げる尾瀬の視界には、いつからか誰の目にも映らないものが見えるようになっていた。

 彼の目には上から無造作に振りかけたように、床一面に彼岸花が散っていた。


 尾瀬は自分の回りに何が起こっているのか、この現場で一番よく分かっていた。







 初めにあったのはこの現場全体に掬う違和感だった。自分を含むスタッフ、キャスト全員が一同に常磐のことを思って、一つのことへ向かっているという違和感。途中から現場に入った尾瀬にはより一層それが顕著に感じられた。誰も常磐の死から前に進めていない。もう居ないものに対する想いを増幅させて、一本の映画を製作するということの異常性をどれだけの人間があの時に理解していたのか。

 熱量のある役者が台詞を発するだけで、どうしようもなく周囲へ影響を及ぼすことがある。例えそれが作り物の台詞で、見ているものに実際何の影響もないことを理解していても、どうしようもなく心を揺さぶられることがある。その場の空気ごと攫っていくことがある。

 生身の人間が演じるということは、その人間の剥き出しの情念や身体を取り扱うことだ。もう居ないはずの常磐がそこに出場するということは、対峙するリアルな役者に負けないくらいに常磐の中身を誰かが満たしてやる必要があった。皆もが無意識にそれを理解していた。そして自分こそがそれを埋めるのだと持てる全てで行動を起こしていた。映像製作班はできる限り常盤をリアルに再現し、せめて映像の中だけでも本物と見紛う姿にしようと苦心する。役者たちは本物の常磐と対峙しているように演技をする。監督は常磐が嘘にならないように、細心の注意を払って全てを纏め上げる。

 皆の熱量がこのILTで再現された空の常磐に注ぎ込まれ続ける。

 そうしてその一番常盤に近いところを自分が担うのだということ。

 自分が依代として一番境界に近く、皆の思いを全て飲み込んで、一番影響を受けやすい場所で彼に添い捧げるだと、尾瀬は初めから正しく理解していた。

 目の前にいる“もの”は皆が想う常磐であって、元居た常磐でない。

 だからこそ、自分は皆の常磐と本物の常磐の両方と向き合っていかなければならないのだ。例え、自分の中身が揺らごうとも。


 尾瀬は初めて台本を読んだ時から、「三田」と「中島」が自分たち二人をモデルにしていることに気がついていた。しかし、全く同じではなく幾らかの要素の改変があった。高校時代の部活やらの細々した設定は兎も角、一番の相違として「中島がゲイである」ということが大きい。自分たちはどちらもノーマルで、異性交遊も人並みにあった。無愛想な自分にも学生時代一人や二人彼女は居たことがあるし、「中島」のモデルの常盤なんて彼女が絶えたことがなかった。

 そしてこの配役。元々の役者の個性を鑑みれば「三田」と「中島」の配役は逆にするべきだった。自分は柄にもなく色々と着飾られ撮影に臨み、自身の役のヒントとしても、常磐を追いかけざるを得なかった。まあ、結果的にILTを通してどちらも自分が演じることにはなるのだが、やはり不自然ではあった。

 監督に聞けば、この脚本も配役も常磐の考えたところが大きいという。

 常磐は進んで俺をモデルにした役をやりたがったということだ。そして相手には俺ではない別のキャストを指名した。

 それを俺が演じることになったのは、佐藤監督の采配で常磐にとっては想定外なのだ。


 常磐と監督の意図を混同しないように考えを巡らせる。

 常磐はどうして俺をやりたがったのだろう。

 監督はどうして敢えて常磐が外したはずの俺を呼んだ?


 彼がこの手の映画に携える信念はいつも一つ、弱いものが言葉無く圧死させられることがないように、彼らの代わりに世間へと伝える。

 セオリー通りにいくのなら、ゲイという役柄を通した問題提議。

 …でも、それだけではない。だったら、自分が「中島」を演じるべきだ。


 もっと個人的なこと、あいつが俺を演じる意味。

 俺はあいつに慮られるほど弱い立場にいない。


 なら、何故。わからない。

 もっと常磐に近づかないと、わからない







 物語は終盤へ差し掛かっていた。

 尾瀬演じる中島と常磐演じる三田は大学卒業を間近に控えていた。

 卒業論文の提出に追われて、彼らは夜中に三田の家で缶詰状態でパソコンへ向かっていた。

 男子大学生のほどほどに汚い部屋に、男二人、卓袱台と膝の上でそれぞれ作業している。お互いの就職先も言わないままこんなところまで来てしまった。

 尾瀬は膝に抱えたノートパソコンに向かっている。視界には日増しに増えている紅がちらちらしていた。初めのうちは気になっていたが、演技に支障がないくらいに慣れてしまった。


『はあーもー無理、終わる気がしねえー』


 パソコンを投げ出して、遂に尾瀬が大の字に寝転がる。


『まだ三十分もやってねえだろ』


 呆れ顔で常磐が覗き込んでくる。

 尾瀬は夜中の妙なテンションで、常磐をつついている。


『なあー、甘いもんねえの。俺、集中力切れちゃった。酒でもいい、元気になっちゃうから』

『人んち上がりこんどいて、お前なあ』


 憎たらしそうに、尾瀬に一瞥をくれてから、三田は立ち上がった。なんだかんだ、中島に甘いのだ。

 台所に向かった常盤に続いて、尾瀬も立ち上がる。その後ろにはカメラマンも続いている。

 ごそごそと水道下のペースの籠を探す常磐をト書き通りに後ろから覗きこんでいる。なんてことの無いやりとりだ。

 しゃがんだ常磐のふわふわとした襟足を眺める。ILTで再現されたものとはいえど、傍にいる尾瀬ですら目の前に実物が存在するように錯覚してしまうほど、精巧な作りだ。常磐の茶色に染めて少し跳ねた髪も、台所の明かりを絶妙に反射している。髪の繊維の一本一本も確かに存在している。

 触れそう、と直感で思った時には右手が動いてた。長い襟足に気がつかれないようそっと触れると、ぱさと指の腹の上を流れ、こそばゆい。そうだ、大学生の時は脱色を繰り返して、パサパサだった。


 …今、確かに触れた。


 尾瀬が僅かに目をしばたたかせるとぱっと常磐が振り向いた。台本には無いやりとり。

 目を真ん丸に開いた表情からは、ごっそりと感情が抜け落ちていた。

 …これは、誰だ?



「…“尾瀬”、何?」



 自分は今こんな台詞回しを常磐にさせたのか?


 急に脳内で常磐が見ている視界と、自分自身の視界がリンクする。

 心臓がいやに煩い。見ているようで焦点が合わない不思議な感覚に、眩暈すら覚える。

 俺は今どちらを演じているんだっけ。

 ひじゃける思考の中にあっても目の前の常磐は勝手に存在を続ける。

 常磐が未だ差し出されたままの自分の手に触れようと、手をあげた。


 俺は、誰だっけ。何が今見えている?

 俺は今常磐を見ているんだっけ、尾瀬を見ているんだっけ。

 俺は尾瀬なんだから、目の前に居るのは常磐か。当たり前だ。

 あ、回りに見える花だけはどっちでも一緒だ。


 ぐるぐると回り続ける思考に反して、常磐の指がじわじわと近づいてくる。


 指が重なろうという、その瞬間。


 パチン

 と現場を彩る電気が一斉に消えた。

 日も疾うに落ちている時間で部屋の中は多くの人の気配が、暗闇の中で蠢いた。


 視界を奪われたスタッフ達が思い思いに声を上げる。


「尾瀬さん!」


 外から広瀬のいっとう大きな声が響いた。

 直後にキッチンで何かが破裂し、硝子がガラガラと床に大量に落ちた。蛍光灯が割れたのだ。キッチンには先ほどまで尾瀬が居た。

 硝子片の上を大きなものが転がる音、広瀬の不安は的中する。







 家の外に止めてあるバンでの待機中にそれを見た時、広瀬は咄嗟にまずいと思った。

 画面越しに見る常磐の雰囲気が、いつも尾瀬が操るもののそれではなく、もっと得体の知れないものだったから。


「やばい。取り込まれる」


 ぼそりと佐藤が隣で呟く。鳥肌が立った。

 彼女の言葉を引き金に広瀬は銃弾のように飛び出した。そして彼が玄関に侵入した途端照明が落ちた。

 急に失せた視界につんのめって転ぶと、反射でついた両手が冷たいものに触れた。それはぞっとするほど冷えていて、思わず手を離してしまう。

 尾瀬さんはどこいった。

 先ほどからスタッフや監督の声が聞こえるばかりで、尾瀬が一言も声を発しない。

 焦燥に駆られて、無謀だとわかっていながら闇を手探りで手繰った。硝子で手を切らないように注意を払う。

 床の上で先ほどとは違った、弾力のあるものに触れた。暖かい。

 なぞるとそれが人の肌だということがわかる。

 誰だ、と血の気が引いた広瀬が一言発しようとしたときに、ぱっと現場の照明が戻った。

 急な明暗の変化でぼやつく視界を諌めると、砕け散った硝子片がまず目に付いた。

 そうして、膝を付いた広瀬はすぐ目の前にあるものに対して、息を呑むことしか出来なかった。

 床に転がった尾瀬が肩を押さえて意識を失っていた。






 ILTを稽古場に導入する数日前に、尾瀬は佐藤の元を訪れていた。

 彼女の自宅兼アトリエのような場所のソファに掛けながら、二人は対面したまま黙っていた。

 稽古で使うよりも先に、自分一人でILTを試したいと頼みに来たのだった。

 佐藤はそうすぐには了承しなかった。


「私にも意図があるんだけど」

「わかっています。それを承知で頼みに来ました」

「皆の前だと出来ないってことはないでしょ、貴方役者なんだから。それとも、自分の脳味噌の中を披露するのが怖い?」

「お願いします」

「…尾瀬君が危惧してることもわかるけど」

「お願いします」

「…」


 尾瀬は佐藤が了承するまで頭を上げるつもりがないようだ。

 ILTは脳とリンクして映し出すだけ。しかしそれが本人にどんな影響を与えるかは本人次第。

 自分が常磐のことを目一杯想った時にどうなるのか、尾瀬には想像が付いているのではないだろうか。

 一年前、常磐の悲報を聞いた尾瀬は記者に対して驚くほど冷静だった。

 平生と全く変わらない様子で、「残念に思っています」とコメントしただけで彼らが望むようなお涙頂戴の展開には一切ならなかった。尾瀬と常磐の親密さを信じていた一部のファンは尾瀬の冷徹な態度に、裏切られたような気になってネットで彼を叩いたほどだ。

 尾瀬のプライベートをよく知る人物には、常磐の死が大衆に消費されないようにという彼なりの優しさだろうとわかっていた。

 尾瀬にはそういった不器用さがあった。


「わかったよ。先に一度常磐君を再現してみるといい。但し、私の前でやって」

「わかりました」

「…準備するから待ってて」


 彼女はさっさとアトリエの奥へ消えていった。奥の扉が閉まって、彼女の気配が消えると辺りが静寂に包まれる。尾瀬がふと視線を上げると、向かいのソファの後ろに置いてある鹿の頭部の骨と目が合った。彼女と話すことに集中していて、余り部屋の様子をよく見ていなかったが、改めて見回すとこのアトリエは彼女の混沌とした創作思想をよく表していた。

 観葉植物が雑然と所々に置かれていて、この部屋は古い植物園と博物館が夢の中で交わったような場所だった。何も入っていない金魚撥や重みで揺れ続ける置物など、色々なものが打ち捨てられているのに一つ一つの手入れは行き届いている。時が止まったような空間だ。日に焼けて色あせた茶褐色のメモと最新型のパソコン、幾らかの本と万年筆、文鎮がソファーの前のローテーブルに並んでいた。

 このよく沈むソファで植物と投棄物に囲まれながら、彼女は創作活動をするのだろう。ノートにはよくわからないラフスケッチや書き込みがびっしりある。

 すぐそばのラックには本の他にもDVDやビデオ、CDがぎっしりと詰め込まれている。下段の映画の配列が気になって目を通しているうちに、それが常磐の出演作を公開順に並べたものだと気が付いた。無論他にも映画は沢山あったが、俳優で纏めてあるものは常磐くらいだった。あとは大体監督ごとに分けられている。


「私の頭の中を覗くのは楽しい?」

「…ええ、とても」


 気が付くと彼女が後ろに立っていた。準備が終わったようだ。

 尾瀬は特に悪びれる様子もないのだから、佐藤は興がそがれてしまう。


「まあいいさ、今度は君のを見るんだから」


 彼女に連れ立って奥の戸をくぐると、そこは白い壁紙と鏡の他、何も無い部屋だった。大よそ10畳ほどのこじんまりとした部屋は生活感をなるべく排除した作りで彼女が稽古場として利用しているのがわかる。

 部屋の四隅にアンテナのようなものが設置され、母機だと想われる大きな機械が端に避けてあった。


「私も素人だから、うまく出来るかわからないけど…」


 イヤーフックのような子機を尾瀬に耳へ掛けさせて、彼女は大きな機械の前にしゃがみこむ。見ているとなにやらレバーを弄ったり、ボタンで切り替えを行っているが尾瀬には何が行われているのかさっぱりわからない。

 そのうちに親機に設置されたプロジェクターのようなものから、白い光が薄く広がり部屋を満たした。ほんの数秒もすると光が馴染んで部屋の風景は先ほどとなんら変わらなくなった。


「もういいよ、いつでも」


 佐藤は尾瀬の思考の邪魔にならないよう、彼が背にする壁に寄りかかった。

 尾瀬がより深く入り込めるように配慮してか、入り口の傍のスイッチを操作して部屋の明かりを少し暗くする。


「想像、すればいいんですよね」

「そ、コツがあるみたいだけど、まだよく知らない」

「…始めます」


 尾瀬は部屋の中央に立ち、目を閉じる。

 光の層の動きが始めからすぐに見られたが、それはなかなか形を結ばない。


「集中して、よく思い出して」


 尾瀬の眉間に皺が刻まれる。薄っすらと目を明けて目の前の状況を確認するが、光がちらちらと波打つだけで変化は見られない。

 そう易々とまだ扱えないか。

 佐藤が一歩前に出た。


「尾瀬君、常磐君の声を思い出して、彼、昔君にこんなこと言ったでしょ。『俺さ、すげえ芝居好きだけど、別に俳優として大成したいとかそういうんじゃないんだ』」


 彼の言ったことを覚えている。尾瀬がぴくりと身じろぎをした。

 佐藤は続け様に常磐によく似た調子で言葉を紡ぐ。

 その当時、彼女はその場に居なかったはずなのに。まるで高校生の常磐が口にする言葉そのままに。


「たださ、何か一本、これをやり通したら死んでもいいって作品に出会いたい。それを最高の形でやりきって死にたい。やるんなら、」


『尾瀬とやりたい』


 佐藤の言葉に重なって、常磐の声が確かに聞こえた。

 驚いて尾瀬がぱっと顔を上げると、暗がりの中、制服姿の広瀬が確かにそこに存在している。あの時のあの笑みを浮かべて、佇んでいる。


「…ぁ」


 久しく見ていなかったその姿に、暗かったはずの視界が一気に開けて青くなる。尾瀬の中に彼と過ごした日々がまるで走馬灯のように襲い掛かった。

 もう会えないと思っていた常磐が目の前にいる。

 それで、それだけで…こんなにも。


「ときわ、常磐」


 封じ込めていたはずの心の濁流が押し寄せて、尾瀬の心に大きく圧し掛かった。彼の死を聞いた当時ですらこんな風に思わなかったのに。

 目の前彼の腰から下はいつの間にか、深く暗い水に浸っていた。

 佐藤が見回すと自分たちの周りにもそれは渦巻き、大きなうねりを作っている。足元の水が力強く引いていくので不思議に思って見上げると、笑みを浮かべたまま制止する常磐のすぐ後ろまで、自分たちの身長の五倍はあろうかという大きな波が押し寄せていた。鯨のように浅黒い巨体が自分たちめがけて大きく口を開けた。


「…尾瀬く」


 慌てて佐藤が声を掛けようとしたときには遅かった。

 波は低い悲鳴を上げながら、その頭を垂れその場にいる尾瀬や佐藤ごと飲み込んだ。


 一瞬の暗転。

 視界に映る波が余りにもリアルで、思わず両手で顔を守り目を瞑った佐藤が初めに気が付いたのは、息が正常に出来ていることだった。

 当たり前なのだが、ILTは視覚と聴覚以外には作用しない。

 いくら目の前の物が本物らしく見えても、それが直接自分に危害を加えることは絶対にない。

 辺りを見回すと水の中にまだ自分はいるようだった。吐き出す息が泡となって遥か天上の水面へきらきら昇っていく。尾瀬は何処へ行ったのだろう。

 強い力で引き寄せられて一気に水上へと躍り出る。沢山の飛沫が、冷たい霧となって上がった。本当は冷たいはずはないのだが、与えられる視界によって脳がどんどん他の感覚を想像していってしまう。

 毛先から滴る水が気になって、顔を振ると笑い声が聞こえる。

 誰だろうか。

 濡れた睫を拭い、目を開けるとホース片手に誰かがが笑っていた。自分の制服は水浸しだがあっという間に乾いてしまうだろう。

 彼に連れられて、自転車の後ろに乗ると今度は下にひゅうと降下する。

 結構な坂をブレーキも掛けずに二人で下っている。あわてて静止する自分の声も露知らず、彼が大口を開けて笑うので頭にきて髪の毛をぐしゃぐしゃにしてやった。

 それにしても暑いなと考え始めると、むしむしした熱気とそれに拍車を掛けるような蝉の声がいやに響いてげんなりする。縁側で焚いた蚊取り線香の抵抗空しく足は虫刺されだらけだ。渡された麦茶も生ぬるい。

 いつの間にか辺りは暗くなって、ぱっと閃光が閃いた。

 握っていた鉄製の大きなバケツには花火の残骸が浮いている。それらを除いて差し出されたポリ袋に収めると、口が縛られた。そのまま家の中へと入っていく影が、カーテン越しにクーラーを付けている。バケツをタワシで洗うのが自分の仕事だ。足元のサンダルまでやんわりと濡れるが、熱帯夜には丁度いい。

 宵闇の蛍光灯に集まる蛾を気にしながら潜る(くぐる)玄関、暗い廊下の先でリビングの明かりが漏れている。旨そうな生姜焼きの匂い。

 穏やかな昼間に、纏められた荷物は思っていたよりも少なくて、それで大丈夫なのかと問うたがこれでいいとあいつは言っていた。

 奥さんと上手くやれよ、と声を掛けると今までに見たことが無いくらい目と口をぐちゃぐちゃに歪めて体を引き寄せられた。

 そんなに寂しいのかと聞くと違うという、じゃあどうしたと聞いても押し込めるように俺の名を沢山呼んで、抱き締める腕の力が強くなる一方だから途方にくれた。常磐の目から流れ出した熱いものが、押し付けられた自分の肩を濡らしていた。常磐は何を思って、こんな良い日に涙を流すのだろう。

 知りたかったが聞けなかった。彼の最も奥の自分ですら閉じ込めてきたものを、俺がこじ開けてしまいそうで。

 長い付き合いの中でこんなに取り乱した常磐を見たことが無くて、訳もわからずに途方にくれることしかできなかった。


 あの時に自分が常磐に何か聞いていたら何かが変わったのだろうか。

 強く押し付けられた体を抱き返してやったら、常磐は救われたのだろうか。


 もう考えてもわからないことだ。ここにいる常磐は、目の前の常磐は自分が作り上げた物で、自分は一度体験したことを繰り返しているだけだ。

 常磐はもういないのだ。自分に向けられた笑みも、暖かさももう消えてしまったのだ。触れられないのだ。彼をいくら想っても答えは返ってこないのだ。彼が何を思っていたのか知ることは二度とないのだ。

 常磐と話すことも、知り合うことももう二度とないのだ。


 これは、まやかしだ。


 遠くで荒い息が聞こえる。

 その音に意識を揺り戻されて、佐藤はそっと顔を上げた。

 あの五感一杯に広がった風景に完全に意識を奪われていた。

 自分は後半尾瀬と完全に同化していた。彼らの歩みを掻い摘んで一気に見せられたような気分に、何も考えることができない。

 数メートル先で蹲る尾瀬の荒く上下する背中を見ていた。

 まるでラブレターじゃないかと自嘲するような笑みを浮かべる。

 そうして兼ねてよりの自分の目指すところに辿り着くために、やはり尾瀬をこの現場に呼んでILTを導入したのは正解だったと実感する。


 尾瀬君、早く壊れないかな。佐藤は凪いだ心でそっと考えていた。


 佐藤は役者として尊敬する常磐の輝きを自分のものにしたいと常々思っていた。いつだったか、常磐と尾瀬が二人で話しこんでいる姿を見て、常磐が尾瀬へ向ける表情が他へのそれと違っていることに気が付いた。

 常磐に親しい友人は他にも沢山居る。自分にも常磐は真摯に接してくれるし、プライベートでも気の置けない友人だった。仕事場でも、プライベートでも監督として、人一倍彼の様々な表情を見てきたつもりだった。そのどれとも違う色を孕んだ瞳が、尾瀬だけに注がれていた。尾瀬当人は気が付いていない様子だった。

 常磐君のあの表情も作品で扱えないかな。そうして自分が作り出した世界に閉じ込めるのだ。

 現場で常葉にどんな指示を出しても、彼は決してあの表情はしなかった。きっと本人にもそんな顔をしているという自覚が無いから作れないのだ。心のどこかではわかっていた。彼は薄皮一枚を隔てて人と接している。それを超えられる存在が尾瀬だけだということ。そしてその尾瀬自身は自分が特別であることに気が付いていないという事実。佐藤にとってそれはどうしようもなく歯痒かった。

 だから、尾瀬がILTで常磐の姿を生み出した時、彼がまさしくその優しい笑みを浮かべていて、鳩尾の奥のどす黒い感情を諌めるのが大変だった。

 尾瀬は常磐のあの表情をごく当たり前に享受していた。それがどれだけ特別な物かも、常磐の尾瀬への苦悩も、決意も何も知らず何者顔で生きている。

 許せなかった。常磐の人生と幸福を縛り付けておきながら、のうのうと生きている尾瀬を殺してやりたかった。だから、尾瀬をこの映画に呼んだ。台本は常磐と作り上げた元のままに、懸想の余り三田を恨む中島を常磐の代弁者として尾瀬に演じさせることで、尾瀬に常磐の心情を暗に読み取らせる。尾瀬が自責の念に駆られて潰れるように。

 本来の中島の解釈を少し歪めて。

 そうして佐藤は喉から手が出るほど欲しかった常磐の心からの笑みを手に入れた。






 目を覚ますと白い天井がまず目に付いた。

 ぼーっとする頭で尾瀬はそれを認識し、次いで当たりを見回した。

 横に用意された小さな備え付けのテレビ、手すりの付いたベッドに自分は横になっていた。回りにはカーテンが引いてある。

 何が起こった。

 そっと起き上がると、右肩に痛みが走った。燃えるような痛みを思い出す。

 そうだ、自分が演技中に上から何かが降ってきて


「尾瀬さん」


 カーテン越しに誰かが立っている。

 声音からして一人は広瀬のようだ。もう一人は誰だろうか。

 影が布地の上でゆらゆら揺れる。パッと勢いよく開いた先には佐藤がいた。


「尾瀬君の真上で蛍光灯が割れたって、逆によくそれで済んだよね」

「痛みはそこまで無いです」

「良かった」


 佐藤がベッドサイドの椅子へ腰掛けて、自然に顔を寄せて尾瀬と話し合う。

 出遅れた広瀬は二人が思ったよりも親密な態度で話をしていることに驚いた。

 話し方こそ淡々としているが、椎名で繋がった二人は同じ志を持つ同士のようだった。

 そういえば、現場で二人が必要以上に話し込んでいるところを余り見たことがない。

 何処か別のところで会っていたのだろうか。


「まだできそう?」

「問題ないです」


 さもありなんと、話を進める彼らに広瀬が息を詰める。広瀬自身は、尾瀬のこれ以上の出演を止める気でいた。

 今回の事件を除いても、この頃現場では不可解なことが多発していた。出演女優の体調不良や撮影機材の不調・紛失、楽屋荒らし、そして今回の蛍光灯。

 最早人間が嫌がらせでやっているとは思えない。もっと不可解で自分達にはどうしようもない力が働いているとしか思えなかった。それでも尚続けようとする二人の強い意思に、広瀬は狂気じみたもとを感じとる。


「俺は、俺に出来る精一杯を、貴方は貴方に出来る事を」

「わかってるよ。じゃあ、3日は安静にするんだよ」

「はい」


 それだけ言うと佐藤はもう用は済んだとばかりに立ち上がる。

 余りにも頓着のない二人を責めようと、広瀬が一歩踏み出すと尾瀬の肩に隠れていたものが広瀬の目に入った。


「…え」


 広瀬の動きが突然固まったので、二人が訝しんで同じように動きを止める。


「…どうした?」

「え、あ、いや」


 これが見えないのか、とはとても言えなかった。明らかに生きている人のそれではないものが、尾瀬の方に乗っていたから。自分だけが恐らく見えている。

 尾瀬の左肩に男ものの左手が掛かっている。

 手首から先はすっぱりと空気に馴染んで消えていた。しっかり置かれた指先に固い意思さえ感じる。


「あ、の…尾瀬さん、失礼しても…?」


 尾瀬の左側にベッドをぐるりと回って、怖いもの見たさに顔を寄せる。特に動きはない。

 それはただ、尾瀬の肩を支えるように添えられている。


「なに、何が見えるの?」


 神妙に佐藤が話しかける。


「あの、手、手が乗ってます。尾瀬さんの肩に、男の人の…あっ!」


 何の躊躇いもなく、尾瀬が左肩に右手で触れて見せるので、驚いて思わず声を上げてしまった。が、尾瀬の手はあっさりすり抜けて、自分の肩に触っただけだ。

 広瀬の視点では尾瀬の手はかの手を無視して突き抜けている。


「広瀬くんさ、あの時もしかして触った?」


 佐藤と尾瀬は心当たりがあるのか妙に落ち着き払っている。

 あの時、と聞いて咄嗟に暗闇で触れたヒヤリとした感触を思い出す。

 あの撮影現場には尾瀬が一人でいた。他にはスタッフを除いて投影された常磐しかいなかった。

 あのキッチンには尾瀬と常磐が二人で居たのだ。


「お二人とも何をしているんですか…? 俺らの知らないところで、何を」

「私達は何もしてないよ。ただ、そうだね、皆の気持ちがそこへ向かってってるだけ」

「誤魔化さないでくださいよ! 可笑しいじゃないですか、怪我人が出たんですよ!」

「なあ、広瀬」


 それまで二人を静かに見守っていた尾瀬が、声を上げた。

 彼の瞳はぞっとするほど冷静で、取り乱していた広瀬が動きを止める。


「何処にでもあるような山道の途中にさ、誰かが気紛れで石を何個か積んだとして、通り掛かったの子供が、なんとなく花を供えたとする。そんなことが同じ場所で続くとさ、何も知らない人間はそこに何かがいるんだと思うようになる。仕舞いには拝む奴らが出てくる。そうするとさ、今度は向こうからやってくる。俺達がやってるのはさ、そういうことだよ」


 何もない場所から人を介して作品を作ること、ただしく創作と呼ばれるそれは、情念だとか存在だとかそんな目に見えないものが作者の手を離れて生み出される。それは受け手や関係者の間で膨れ上がり、誰の手によってもコントロールすることはできない。例え作者の意図が元々何もなかったとしても。生み出され、膨れ上がる。

 常磐自身は映画の完成と作品の意図が少しでも世界に投げかけられることを望んでいた。

 初めはそんな常磐の願いを叶えるため、亡くなった彼を少しでも慰めてやりたいという純粋な目的が皆の向かう先だったはずだ。今も広瀬自身の気持ちは変わらない。ただ、自分以外の人間はどうなっているのだろうか。

 監督は今回の撮影を前とは違った演出で行っている。何か監督なりに意図があるということだ。この一連の会話を聞くに、この映画や常磐の死そのものすら監督にとって手段なのかもしれない、曲解すればそうとも考えられる。他の人は…? 思考が悪い方へと転がり落ちる。

 バラバラの思惑が混ざり合った先に何があるのだろうか。

 自分たちのしていることは結果彼を捻じ曲げて、恐ろしいものを生み出そうとしているのではないか。

 現場に起こる不可解な現象はスタッフやキャストの仕業か、またはもっと目に見えないもの、例えば彼の怒りなのだろうか。

 もし彼が今の現場を望んでいないのだとしたら、自分たちのしていることは自己満足であり驕り以外の何者でもない。


 死んだ者が語ることはない。生ける者は故人の想いを推測することしかできない。

 所詮エゴなのだろうか。常磐の願いを口実に自分たちが満たされたいだけなのだろうか。


 俺達のやっていることって、何。






 本物の常磐が傍に居る気がするようになったのは、あの墓参りに行ったくらいのことで撮影開始直後だった。

 初めは置いたはずの場所に物が無かったり、時折誰もいない扉が閉まったりといった程度で気のせいだと思っていた。

 次第に枕元に誰かが立っている夢や、常に見られている感覚があり、俺なんかをつける酔狂なストーカーの存在を疑った。

 だが、おかしな手紙や後ろをつけられたりといった明確な接触は無かった。

 それが常磐だと気づいたのは、夢の中であいつになんとなく触れることが出来た時だった。夜中に常磐は枕元に立ち、ベットに上がり込んできた。あくまで触れている気がするといった程度だが、触れた手にあいつが常に着けていた銀の指輪の感触があって、ああ、常磐だと思った。思った瞬間から俺の視界には赤い花が見えるようになった。

 初めははっきり見なくて血溜まりだと思った。しかし、それは日を追う毎に量と解像度を増した。間も無くそれが彼岸花だと気がついた。

 最初は夢や物忘れなど深層の部分で俺があいつに近づいているのだと思った。しかし、花が現実の俺の世界を占領し始めて、あいつがこちらに来ているから俺の世界が歪んでいるのだと実感した。

 常磐がこちらに来る理由は、十中八九あの映画のことを気にかけているからだろう。俺が選ばれたのは、一番話が通じそうだから。ついて回っているのもそういう訳だ。


 昔の常磐のビデオを見返している時でも、気配がいつも隣にあった。

 よくあいつの家でベットに思い思いに腰かけたり、背中を預けて一緒に映画を見ていたっけ。酒片手に流れる映像に一々感想を付けながらだらだらするのは、楽しかった。

 段々平衡感覚を失い始めている体に意識だけが妙に冴えている。

 隣に目をやると、それだけで空気が揺れたような気がして目を細める。

 久しぶりに感じるあいつの気配が懐かしかった。幽霊だろうがなんだろうが、傍に居れば落ち着いた。


 しかし、あいつを還してやれるのは自分だけだとわかっていた。






 物語の中で大学生になった彼らは、何気ない笑顔の裏で離別を想う。

 お互いの進路は全く異なり、三田は地元で中島は都内での就職することを人伝に聞いていた。将来を示しあわせるようなことはしなかった。互いにとって一番の最善を行く、相手のために妥協する気など二人にはなかったし、僅かな不安を口に出すことも出来なかった。

 連絡を取れば、いつだって会える。そんな確証のない言葉に縋る他無かった。

 二人は余りに長い時間を共にし過ぎていた。

 何も吐き出せないまま時間だけが過ぎていくのが気まずくて、無意識にお互いを避けていた。顔を合わせれば挨拶程度、習慣から傍に座ったり食事を共にしたりしても当たり障りのないやり取りが続いた。

 授業も全て済んで、卒論も提出し学校に来る用事が無くなった。そうして、連絡もぱったり途切れた。

 卒業は一週間後に迫っている。


「…なんで出ねえんだよ」


 耐えきれなくなったのは三田だった。

 元来いい意味で人の目を気にせずに自分の意見を言える彼がここまで遠慮したのも、それが中島だったからだ。いつか自分が将来どう生きていこうとしているのか、話してくれるだろうと待っていた。そしてなんだかんだと長年一緒だった自分にそれなりの言葉をかけるだろうと思っていた。あまりにも呆気ない終わりだった。

 何度も連絡を入れたが返事は無かった。SNSの更新もなく、中島のバイト先や自宅を訪ねても不在で、他の友人とも会っていないらしかった。実家にも連絡を取っていない。


 今まで築き上げてきた自分の居場所を、あいつは捨てようとしているのではないか。真っ更にになって、あいつは何をしようとしているのか。

 自分の存在を失くそうとする人間の行き着く先を想像して、流石の三田も不安になった。

 こんな時代に、会いたいのに会えない。

 あいつ、こんなときばっかりだんまりで、いつものよく回る口はどうしたんだよ。

 大学卒業間際のもて余した時間が、三田の不安を増幅させていた。







 病室の尾瀬は二人を見送り一心地着いていた。撮影が進むに連れて状況が、確実に変化している。

 広瀬曰く手が乗っているという左肩に触れた。

 僅かではあるが波の満ち引きのように、指先から何かが入ってくるような感覚がある。少しばかりの冷気が、水に入れたドライアイスを思わせる。

 目を閉じて神経を研ぎ澄ませると、気配はぼやぼやと揺れだして焦点が定まらない。躊躇っているんだろうか。それは次第に覚悟を決めたように落ち着きを取り戻し、自分の手の上に留まった。

 触れた場所から確かにあいつの感覚が流れ込んでいる。どうやら、触れると繋がるらしい。今までは一方的に自分が観察されているような状態だったので、ここぞとばかりに相手の領域に踏み込もうと集中する。

 拒むこともできる繋がりの中で、あるイメージが脳内に浮かんでくる。

 青々とした緑、赤く染まる黄色などの抽象的なものから始まって次第に、匂いや触覚、最後に具体性を帯びた風景が見え始める。

 スポットライトに照らされた舞台の熱さ、夜の飲み屋街のふらふら覚束ない視点、迷惑そうにしかし支え続ける誰か。


 これは彼の記憶だ。記憶が自分に直接流れ込んでいる。


 バーで見知らぬ男と話している。机に突っ伏したり、急に背を伸ばしたり、酔っている。相手の男が背中を叩く。視界がぼやけている。泣いているのか。左手の薬指に収まる指輪。握られたスマートフォンに映っている、俺。

 感情が、流れ込んでくる。いやに心臓がうるさい。これ以上、知ってはならないと理性が警告しているんだ。いや、本当は薄々気が付いていて、今まで無意識にそれを否定していただけかもしれない。全てが、もう遅い。


 嗚呼、常磐…お前は…。






 卒業式の会場は都内某所の大きな多目的ホールだった。これが終われば本当に中島に会う理由が無くなる。そもそも今日来ているのかも定かではない。開始時刻のかなり前に来たにも関わらず中島を見つけられない自分に苛立ちを覚え、それは徐々に焦りに変わっていった。大事な友人をなす術もなく失う事実に、もう後先を考える余裕を無くしていた。

 解散する人混みの中で未だにパイプ椅子を立てない三田は、何かに揺り動かされて顔を上げる。その先に1人で歩く見慣れた茶髪の後ろ姿があった。体が勝手に走り出す。 


「中島!」


 比較的寡黙な三田が人目も気にせずに大声を上げる。が、式典後の喧騒に掻き消される。


「お前っ! 今まで何処に!! 待てよ!」


 中島は何度も呼びかける三田の声が聞こえているはずなのに、見向きもしない。悔しさが込み上げる。

 そもそもどうして俺が振り回されなければ、ならないんだ。俺ばっかり熱くなって。腹立たしさと悲しさが同時に胸の中で混ざり合う。

 あいつはこんなに簡単に自分のことを切り捨てられるのだ、俺達の関係性はその程度だったのだ。

 それとも、俺は何かしたんだろうか。中島が離れていくような明確な理由が。

 背を向けて淡々と歩く中島に、人の流れを掻き分けてもなかなか追い付かない。必死に追いかけてドームの外の階段を駆け下りる。人影に紛れ込んだ中島は建物の裏へと姿を消した。喧騒を飛び出した三田のスピードが一気に上がる。

 中島が最後に入り込んだ横道へ駆け込むと、草木が目隠しの代わりになって視界が狭まった。人の気配が感じられない。


「三田」


 見失った中島を探そうと見回していると、後ろから声を掛けられた。

 ぱっと振り返るとスーツ姿の中島がひっそりと立っている。

 辺りはしんと静まり返っていた。まだ寒い時期、昼下がりの柔らかい日差しがジャケット越しに白々しく肩を温めていた。

 何から声を掛けようか、迷っていると中島が先に口を開いた。


「なんで追いかけてきたの」

「なんでって」

「俺らそんな感じじゃないだろ」


 どうしてって、元はお前の連絡が取れないのが悪いだろ、そう言いかけて言葉を遮られる。中島が自分で言ったことに自分で傷ついたように、唇をかみ締めるから、頭に上った血が勝手に冷めた。

 突き放したり、寂しがったり、彼が何を考えているのか、まるでわからなかった。


「な、俺なんかした? 言ってくれよ、傷つかねえから」

「なんでもないよ」

「なんでもなくないだろ」

「…俺らさ、どうせ就職先バラバラだし疎遠になってくの目に見えてんじゃん。無理して付き合うこと無いだろ。疲れるんだよ、そういうの」

「思ってもないこと言うなよ、嘘かどうか見りゃわかんだよ」

「もう疲れたの。お前の傍に居るの、疲れちゃった」


 もう耐えられない、そう呟いた声は掠れていた。これは本音だ。

 喉の奥がツンとした時に出る上ずった声を聞いて、三田も締め付けられるようだった。

 中島が俯いて、無理やり歪んだ笑みを浮かべた。


「な、もういいだろ」

「言え」

「え」

「全部言え。全部言うまで帰さない」

「もう話すことなんか」

「じゃあなんで俺と居ると疲れるんだ? なあ、理由を言えよ。なんで肝心なことは話さねえんだよ。言わねえとわかんねえだろ。女々しいんだよ。お前いつもそうだ」

「お前、人が今までどんな気持ちで!!!」

「言えよ!! どうせ言ったって言わなくったって壊れるんだろ!! 壊れたって思いたくないだけだろ!!? 甘えてんじゃねえぞ!! どうせ壊れるんなら、ここで全部吐き出して、お前がぶち壊せよ!! 言えよ!!!!」


 肩を強く掴まれて、中島の体が強張った。

 そうだ、このまま黙っていたって何になる。三田のためだと思ってひた隠しにしていた想いも、こうなってしまった以上、丸くは収まらない。ずっともやもやしたまま彼は生きてくことになる。

 優しい三田を守りたかった。罪悪感を与えないように、本当は何も告げずに去って綺麗に終わるつもりだったのに、ここまで明るみになってしまっては、何か言わないと三田の気は治まらない。三田に嘘や誤魔化しは通じない。

 言うしかない。だって、それ以外に道が無い。


 すぐ目の前の真剣な眼差しに真っ直ぐ射抜かれると、苦しくて熱ものが込み上げてくる。それが目尻を伝って出ようとしてくるのを、引きとめるのに必死になる。勝手に顔がぐしゃぐしゃに歪む。

 未だに力の込められた両手から肩へ熱いくらいの熱が伝わってくる。

 苦しい、苦しい…苦しい。辛い。ごめん、こんな俺で、ごめん。


「み、た…俺、おれ…」


 溢れる。込み上げる。心臓が鷲掴みにされて引きずりだされる。恨んですらいた、でももうそんなものはどうでもいい。

 胸の奥の奥にずっと閉じ込めたまま、(つか)えていたもの。

 俺がずっとずっと、何よりも大切にしてきたもの。


「三田…俺、お前のことが、ずっと…ずっと…」


 激しい感情に晒されて崩れ落ちそうになる中島の体を、三田が寸でで支える。

 視線だけは決して離さずに、強く見開かれた瞳から今にも眼球が零れ落ちそうだ。

 触れた先の掌から、常磐の感情が尾瀬に流れ込んでくる。

 ずっとずっと好きだった。高校時代に初めて出会って自分の本性を受けとめてもらった時から、もう十年も。

 でも決して告げてはならないと思っていた。

 自分でもこの心を認めないように必死だった。認めてしまったら、それこそ尾瀬への裏切りだ。

 しかし、自分ではどうしようもなかった。想いばかりが大きくなって、どうしようもなく尾瀬をそういった対象で見てしまう汚らわしい自分を押さえることが出来なかった。

 学生時代はそれで自棄になって、遊び回っていた。

 自分はゲイではない、尾瀬がどんな性別だろうが好きになっていただろう。尾瀬だけが特別だった。尾瀬とだけは冗談でもそんな関係に見られてはいけないとすら思っていた。だから、心にもない結婚をした。それほどまでに尾瀬を拗らせてしまっていた。無論妻も子供にも愛情は惜しみなく注いだ。それが子供と妻を裏切る自分への罰であり、最低限の責任だと思っていた。彼女らもまた愛おしかった。

 尾瀬の俳優人生は勿論、自分を慕ってくれる家族の人生すらも滅茶苦茶にしてしまうから。自分の心も体も、とっくに自分の手を離れていた。

 自分を今自分たらしめているものの全てをぶち壊して、自分の幸福だけを求めるには常磐は優しすぎた。言えなかった。言えないまま、自分の人生が終わってしまった。


 常磐の思いも、願いも触れた手から尾瀬に全て注がれる。

 中島という自分が作り上げたキャラクターと常磐の感情が交差する。最早これが自分の感情なのか相手の感情なのかわならない。

 尾瀬は常磐の自分への思いと決意の全てを理解した。彼は、佐藤監督の演出した中島のように俺を恨んではいなかった。その清さに自然と涙が零れる。

 今の自分の心は常磐の心でもあるのだ。どうしようもない恋心が苛烈に胸を裂いた。

 常磐はこんなに苦しい物を十年も抱えていたのだ。それを自分は何も知らずに…。いや、本当は知っていたのかもしれない。知っていて知らないふりをしていたのかもしれない。常磐の一挙手一投足からこんなに大きな感情を読み取れなかったはずがないのだ。記憶を辿れば、思い当たる節はいくらでもあった。その一つ一つ、自分と常磐の思いに蓋をしていたのは、間違いなく自分だった。知らないほうが都合がよかった。知ってしまって関係が変わるのが恐ろしくて仕方がなかった。

 だって、常磐と離れたくなかった。自分たちの関係が変わって、何者かに心が離されていくのが耐えられなかった。思いを通わせるには自分たちの名前は大きくなりすぎた。例え成就したとしても、俳優という夢を追いかけていく上では今度は怯えながら生きていかなくてはならなかった。演じることは、何よりも常磐の大きな夢だった。俳優としての常磐を自分一人のためだけに潰すわけにはいかない。彼の演技のきらめきを失ってはいけない。

 そうやって自分に言い訳をして、結局彼自身を見ようとしていなかった。

 それが、俺の正義、俺の罪。


 ああ、でも。

 こんな考え方をしている時点で、俺はそもそも常磐の思いに応えることを前提に考えているじゃないか。

 想いを口に出されてしまったら、受け入れてしまうから。

 だから、ずっと恐ろしかったんだ。


 なんだ、そもそも俺も常磐のことをきっと、ずっと…。


 この場でなら常盤へ想いを返してもいいだろうか。

 口にしてもいいだろうか。


 だって、これはあくまで作られた作品の中の言葉で、俺達の本心とは無関係のところで流れている世界で。観客の誰もが迫真の演技だとは思っても、それが本心だとは誰も思わない。

 だったら、いいだろうか。この積年の想いを吐露してしまってもいいだろうか。カメラは回っているし、他のスタッフも大勢見ているけれど、もういっか。だって、これが最後だから。尾瀬と、常磐と最後だから。

 常磐としての願いを叶えてやれるのは、終わらせてやれるのは、俺だけだから。


 台本に書かれたト書き通りに中島がぱっと三田の手を引くので、三田がバランスを崩す。中島が屈んだ三田の背中にそっと腕を回した。

 ぐしゃぐしゃになった顔を三田の首筋に寄せて、震える腕に力を込める。

 触れられないはずなのに、確かに触れている。熱を感じる。自分は可笑しくなってしまったのだろうか。腕の中に確かにかけがえのない常磐の存在を感じる。


「俺、お前がずっとずっと好きだったんだ。どうしようもなく好きだったんだ。気持ち悪くてごめん。我慢できなくて、ごめん……ごめん」


 そろそろカットがかかるはずだろう。映画はこの台詞と中島の表情を抜いて、三田の反応を待たずに終わる。様々な人に勇気を与えられて、全てを振り切ってゲイの男が長年の親友に告白をする。でもそれが受け入れられるとは限らない。三田が中島の背に腕を回して応えるのか、拒むのか、その反応は作品ではわからないままだ。


 そう、終わるはずだったのだ。


 尾瀬の肩から常磐がそっと顔を上げたのが、佐藤にはわかった。

 そうして目が合うと彼はそっと微笑んだ。

 とても晴れやかな笑みだった。その笑顔が本当に慈しみと感謝を持って作られていて、佐藤はカットを掛けようとする助監督を手で静止する。

 常磐からは全ての苦悩が取り払われて、生前の彼のように生々しい。

 常磐が台本のト書きを離れて、尾瀬を抱きしめる。尾瀬の体が目に見えて跳ねた。愛おしそうに耳元に顔を寄せて、小さく口を動かしている。名前を何度も呼んでいるのだ。

 佐藤はそんな常磐を見逃すまいと目を開き続ける。

 常磐が自分にも心から笑みを浮かべてくれた。それだけが救いだった。



 佐藤の腕の合図と共にカットがかかる、常磐が上に引き寄せられていく。

 尾瀬の背中に回っていた腕が、名残惜しそうに肘を伝って指先を絡めて離れていった。表情は満足そうに揺れていた。

 跡形も無く、常磐智也は虹彩となって立ち消えた。


 してやられたなあと、人知れず佐藤は笑う。

 少し捻った作風が売りの自分の最新作が、まさかこんか凡作になろうとは。


 まもなく現場には慌しさが戻るだろう。

 最後の撮影が終わっても、これから編集に番宣などやることはまだまだある。この想いも、やがて進み続ける世界の中に揉まれて消えていく。

 けれども、と佐藤は一人夢想する。

 カットのために振り下ろした自分の指先を、こうも空しく思ったことがあっただろうか。




 自分はこんな形で二人を終わらせるべきではなかったのだ。


 例えそれが常磐の望みであっても。





お付き合い頂きましてありがとうございました。

至らない点も多いので、もう少し修正するかもしれせん。

誤字脱字等連絡頂けますと幸いです。


作品についてのどうでもいい余談などは、活動報告に書きます。

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