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僕らの  作者: 透
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僕ら、今一度夢を見る



 微睡みの中で意識が何かに揺り動かされる。

 真夜中に深い眠りから浮上して、網膜の裏に自我が芽生え始める。

 触覚が目を覚まし、自分の眠っていた布団の手触りが蘇った。

 そっと目を開けると出窓から入る月明かりが部屋を薄暗く照らしていた。

 見慣れた部屋を朧気に捉える。そこに流れるいつもと違った空気。

 まるでこの部屋だけ時が止まってしまったような静寂。


 何かいる、そう直感した。


 体が何故か虚脱していて言うことを聞かないので、目線だけを部屋に巡らせると真っ黒な影がすぐ隣の枕元に立っていた。それは薄暗い部屋でべったりと光の一切を寄せ付けずに存在している。すぐ真横に膝があった。

 それが何なのか、姿が見えずとも直感的に理解した。


「常磐」


 唇から思ったよりも掠れた声が漏れ出でた。


 常磐智也、在りし日の友の名。

 一年前に死んだ、俳優の名。


 彼がどうして死後一年も経ったこのタイミングで自分の元に現れたのか、理由はすぐに察しがついた。


「常磐…これは俺が望んだ事だ。お前のためじゃない、大丈夫だ」


 漏れる月明かりの加減が不思議と上に広がって、常磐の姿がぼんやり立ち現れる。

 その顔に表情は無く、生気は微塵も感じられない。

 常磐は姿勢を一定の速度でゆっくりと落とし、手を付いて自分が横になっているベッドに上がってきた。おおよそ人間には真似できない、淀みの無い動きだ。一般的には夜中に死人が枕元に立つという恐怖体験に他ならないが、不思議と怖くはなかった。

 常磐は自分に覆い被さると、確かめるように顔をそっと寄せた。

 奇妙な存在感だけで、熱を伴わない影がすぐ鼻先までやってくる。

 無表情ながら彼の動揺が伝わってきて、宥めようと右手をその頬に添えてやる。

 冷たいのか、温かいのか触れてもわからない、ただそこに有るということだけがなんとなく伝わってくる。例えるなら、プロジェクターで投影された映像に手を伸ばしているような感覚だ。


 こつりと、額を擦り合わせる。いや、当たったという気がしているだけだ。

 不安を取り除いてやりたくて、両の手で耳の後ろを辿り包むように腕を回す。


「俺は大丈夫だ」


 だから、お前は安心して置いていけ。


 すぐそばで、すんと常磐が軽く息を吸い込むといやに眠気が襲ってくる。

 ああ、もう少し起きていたいのに。

 末端からまた意識がなくなっていく。

 最後の悪足掻きに指先で頭をなぞろうとするが、中指は空を切るばかりだった。





「あ、尾瀬君だよね、こんばんは」


 現場終わりに事務所まで呼び出されると、応接室でとある監督と自分のマネージャーが待っていた。マネージャーの方は少し浮かない顔をしている。


「こんばんは。初めまして。佐藤監督のご活躍は方々から伺ってます」

「あーいいよいいよ、そういうの。っていうか思ったよりも、律儀なんだね。なんかもっと職人気質って感じだと思ってた」


 冗談っぽく髪を揺らす佐藤監督は今活躍中の新進気鋭の監督で、癖があるがいい作品を作る事で有名だ。他の同業者からもキャスト苛めて楽しむドSだの、目が笑っていないだの裏で言われたい放題だ。

 この芸能界では人脈も活動に大きく関わる要因だが、彼女の功績は聞き知る限り一重に手がける作品のレベルだと言っても過言ではない。

 この監督との接点は今までになかった。


「今丁度マネージャーさんに映画の出演交渉をしていたところなんだよ」

「有難いお話です。勿論お受けします」

「でも尾瀬君、一旦説明だけでも聞いたほうが」

「大丈夫です、俺NG無いんで」


 自分に仕事を選り好みをするほどの余裕が無いことは知っているので二つ返事で承諾したが、喜ぶはずのマネージャーが反ってどこか不安そうにしている。


「じゃあ、承諾ってことだね。詳しい事は企画書に書いてある。質問が有れば今聞くよ」


 マネージャーの態度を不思議に思いながら、机に有るレジュメを手に取る。

 中に目を通し、思わず目を見張った。この映画はW主演、主人公に抜擢されたのは自分と、一年前死んだはずの常磐智也だった。

 彼は生前この監督と親交があり、何作もの作品に出演している。

 レジュメには現在の現場の状態がまず記されていた。映画の撮影自体は自分がオファーを受ける前に既にスタートしていた。生前常磐が演じた部分の映像が、序盤の部分だけ残っている。彼の死で制作は止まっていた。


「俺の他にキャストは居たんですよね?」

「そうだよ、皆常磐君のことがあって一度降板しちゃった」

「普通は映画そのものがおじゃんになる」

「でもね、完成は彼の願いなんだ。どうしても叶えてあげたくてね。あちこちに頭下げて回ったの。キャストの殆どは理解して戻ってきてくれたけど、君が演じる役の子と他数人は特にショックが大きくて無理だった。逆に現場は常磐くんが好きで戻ってきた人たちばかりだから、なんとか完成させようって意識は強いよ。常磐智也が完成を望んだ遺作、どう?魅力的でしょ」

「でもどうやって」

「だから君だよ」


 尾瀬君は常磐君をよく知ってる。


 佐藤監督の語る構想は荒唐無稽なものだった。

 自分が相手役を演じ、常磐は途中までは本物の映像を使う。


「未完成部分はさ、ILTを使うんだよ」

「…は?」

「あれ? 知らない? 最近よくニュースになってる」

「企業会議などに使われ始めているという、イメージを瞬時に可視化できるあれですか」

「そうそう、あれでさ、文字通り尾瀬君に常磐君を作り上げてもらうんだよ」


 自分の作り上げた通りに微笑む彼を想像をして、ぞわりと肌の表面が粟立つのを感じた。企画書に記載されていない事項がごろごろ監督の口から飛び出してくる。自分が質問をして話が転がらなければ、一体どこまで説明する気だったのか。


「ILTもさ、まだ導入され始めたばかりで立体映像の可視化ともなると機材が沢山必要だし、限定的だけどその辺の粗はさ、映像段階で修正すれば誤魔化せるし、機材もね、私の伝で貸してもらえることになってる。かなり実験的だけど…尾瀬君なら、やってくれるよね?」


 監督は全く問題は無いというように小奇麗に笑っている。

 この人の性格が段々わかってくる。それと同時に普段芝居のときにしか動かない、鳩尾が段々と熱を持ち始める。他人の意のままに操られる常磐など見たくなかった。あの自由にどこまでも行ってしまう男を、ましてや自分が塗り替えるなどと。

 血管に血が巡りかけるのを諌めて言葉を吐き出す。


「…常磐への冒涜だと、感じないんですか」

「彼が死ぬ前日にさ、言われちゃったんだよねえ、何としてでも映画を完成させてくれって」

「だからって」

「私がやるんだ、手段は選ばない。あの人も分かってたはずなんだよ。それなのに私を選んだ」


 一瞬、佐藤監督の目がすっと真剣味を帯びて薄められる。


「……良い性格してますね」

「君には敵わないよ」

「無礼は重々承知ですが」

「愛想が無いよねえ。常磐君とは正反対だ」

「よく言われます」

「じゃあ、明後日から宜しくね」


 いくらかの問答をするとあっさりと佐藤は腰を上げた。

 いくら自分が常磐と旧知の仲だからといっても、あの無茶苦茶な映画構想を実行し、自分をオファーするだろうか。映画を作ることそれ自体に多くの人間と、巨額の予算が関わる。それをあの監督の私情一つで動かせるものなのか。

 結局のところ佐藤監督の意図を覗くことはできなかった。

 もう居ない主演。癖の強い監督。穴埋めの自分。最新技術。

 一筋縄ではいかない現場だと、誰しもが分かっていた。





 常磐智也は類い希な才能と努力の人だった。そして、誰よりも優しく臆病な人間だった。

 彼と自分は高校の同級生で、同じように俳優を志し苦楽を共にした仲だ。

 常磐は先にその才能を発揮し世間に注目されても、変わらずに自分と接してくれた。

 華やかな芸能界では誰よりも率先して何でもこなすのに、心の底では他人の期待を裏切る事を恐れていた。彼はその自信と輝きの裏で、盲目的に他者から見た自分を意識していたのだ。

 彼の家庭環境に起因する自己肯定感の低さは学生の時からよく知っていた。それこそ彼は他人にそれを悟らせまいとうまくやっていた。仮面を被るというよりは作り上げた仮面と本来の自分を結合させるのが上手かった。だから誰も気がつかなかった。皆が見ていた彼は正真正銘彼自身だった。

 自分は偶々部活が同じで、事故のように本当の姿を知ってしまっただけだ。

 一度知られてしまってからは気が抜けたのか、常磐は自分にだけ本心を打ち明けるようになった。

 彼が気の許せる存在が、他にも現れてくれればいいといつも思っていた。自分を理解してくれる人間は多い方が良い。だから彼が結婚をした時は本当に嬉しかった。相手の女性も自分を晒け出せる人なのだと。

 俺は表面にこそ出さなかったが、彼の結婚は誰よりも嬉しかったのだ、本当に。





 革靴で不忍池を二分するように架かった道を突っ切る。暗くなった辺りのベンチには、若い男女が時間を縫うように寄り添っていた。繁華街の喧騒が遠くに聞こえる。今の時期は蓮が見頃で闇夜に薄く色付いた花びらが所狭しと咲き誇っていた。

 ここもよく高校の帰りに常磐とよく寄ったものだ。あの監督と話して以来、意識して彼との思い出を掘り起こしている。当時彼は校則が緩いのを良いことに、髪を染めて少し長くしていた。感情表現が苦手な自分と違って、男からも女からも好かれていたっけ。


『尾瀬ちゃんさ、大学には行かないの?』

『ああ。特にやりたいこともないし、家に金入れようかと』

『あー、そう』

『何だよ。文句あるのか』

『鈍いんだよなあ、自分に』

『はあ?』

『家が特別貧乏って訳じゃないんでしょ?』

『むしろ大学に行くことを推奨さえされている』

『行きゃいいじゃん』

『いい。学費が馬鹿にならん』

『じゃあさ、本当にやりたいことがあったら行く?』

『俺も探さなかった訳じゃない』

『俺と同じとこは? 国立に演劇科があるんだ。また俺と芝居付けの毎日、どうかな?』

『……なんだよ、いきなり』

『俺さ、すげえ芝居好きだけど、別に俳優として大成したいとかそういうんじゃないんだ。たださ、何か一本、これをやり通したら死んでもいいって作品に出会いたい。それを最高の形でやりきって死にたい。やるんなら、尾瀬とやりたい』

『買い被りすぎだ』

『尾瀬はさ、俺が死にたいとか口にしてもさ、死ぬなって言わないよね。俺の周りにはそんなやつ今まで居なかった』

『…』

『ま、考えといてよ』


 街頭の灯りも届かない不忍池の手すりに寄り掛かりながら、常磐は悪戯っぽく笑っていた。


 錆びかかったアパートの鉄階段を登ると独特の音がゴンゴンと夜に響いた。乾いた足音が冷たい廊下に木霊する。鍵をポケットから取り出す。硬質な扉の先、暗い部屋の壁からスイッチの位置をピタリと当てると、蛍光灯が周囲を照らした。

 ソファにレンタルビデオを適当に置く。コートをハンガーへ掛けて、袋の中の一本をろくに見もせず選びプレイヤーに挿入する。ソファへ腰掛けると一緒に買ってきたコンビニ弁当を乱雑に開封した。





 初日は簡単な尾瀬の紹介と、本読みから始まった。

 正直なところキャスト、スタッフともに映画制作が突然再開したことに戸惑っていた。

 常磐の意思を尊重して、続投するキャストが殆どだった。彼の人柄の良さがよくわかる。尾瀬はその中でも異分子的な存在で目立っていた。

 長机をコの字に並べた大勢での本読みでは、皆台本越しに尾瀬をジロジロと見ていた。

 当の尾瀬は背をしゃんと伸ばして座るばかりで、特に何を態度に出した訳でもなく台本に目を落としていた。


「尾瀬さん、ぶっちゃけどう思います」

 打ち合わせが終わり、解散した後、尾瀬が休憩室で缶コーヒーを飲んでいると明るい髪の青年が話しかけてきた。


 この現場の最年少、子役時代から注目され続けている21歳の広瀬佳那汰だ。


「あの監督気が狂ったと言いたいんだろ?」

「いや、まあギャラは出るんでいいすけど。って俺が言いたいのはそういうことじゃなくって!」

「俺を心配してくれた?」

「もー! そこまでわかっててなんであの場に平然と立てんの鬼メンタルかよおお!!」

「広瀬君、はっきりしてていいな」

「尾瀬さんははっきりしすぎ!」


 思わず顔を緩めると照れ隠しなのか、むっと口を尖らせた。

 きっと自分に話しかけてきたのも、早く現場に馴染むようにという気遣いからだ。

 広瀬は小さい頃から芸能界で大人に囲まれていたにも関わらず、擦れていない人種のようだ。初対面だが、尾瀬が接していて苦にならない。

 人懐っこく裏表がない。きっと周囲の大人が必死に守っていたのだろう。

 礼のひとつでもしようと自販機で適当に好きそうなファンタを選んで、手渡すと未だに不服そうにするものの渋々受け取った。


「生前、撮影中の常磐はどうだった」

「…凄い熱心でしたよ。常磐さんて志が高いというか、俺すげえ尊敬しちゃって。面倒見も滅茶苦茶良いし」

「想像できるな」

「あと尾瀬さんの話しょっちゅうしてました。今は俺のが常磐さんと現場で沢山喋ってるのにって…あの、やっぱり尾瀬さんと常磐さんってそうなんですか?」

「そうって、よくネタにされる俺と常磐ができてるってやつ?」

「実際凄かったじゃないですか、事務所もコンビで凄い推してましたよね」

「それだけはない。第一アイツ結婚してんだぞ」

「イケメンコンビって女性ファンも多かったですし」

「あれは一部の層が過剰反応してただけだ。若い頃なんか特にアイドルみたいなプロデュースの仕方するだろ」

「兎に角妬きました!」

「はは、可愛いなあお前」

「全然感情込もってないっすけど」


 手癖で頭を撫でるとジト目に上目使いで見上げてくる。

 自分は芝居の時以外表情筋が死んでいるらしいので、リアクションを求めるのは勘弁してほしい。

 今回の現場は監督も含めもっと良くも悪くもピリピリすると思っていた。広瀬のように自分の心の隙間に自然に入ってくる後輩は初めてだった。





 二日目からは役者同士の擦り合わせのため、軽い立ち稽古が始まった。

 用意されたのは素舞台にパンチを敷いただけの空間。ILTはまだ使わない。

 先ずは序盤のキャストが流すように導入を進める。舞台の上には常磐がいるという前提で役者は目線や所作で彼の場所を示唆する。

 序盤15分ほどが終われば、尾瀬の出番だった。初めから常磐と二人のシーンだ。

 舞台の傍に設けられたパイプ椅子に、他の出演していないキャストを含め全員が座っている。現場には二日目にして緊張の糸が張っていた。

 元々違う役者がはまっていた場所に尾瀬が入り込むのだ、自ずと他の役者の演技も変わってくる。

 全体のバランスを調整するための立ち稽古、必要ならば監督自ら修正を行う…というのは名目だけの話で、殆ど尾瀬を試すための場だと誰もが理解していた。

 急に現場に入ってきた尾瀬が前の役者と比べどんな演技をするのか、スタッフキャスト共に全員が気にしていた。

 ここで舐められては今後の現場の雰囲気にも大きく影響する。失敗は許されない。

 監督は意図して尾瀬に負荷を掛けた。

 そのキャストの中には勿論、広瀬も居た。

 初日の読みでの尾瀬はなんというか、平坦で他のキャストの演技や自分の立ち回りを確かめるように演技をしていた。 舞台俳優としての叩き上げの経歴がある尾瀬にしては拍子抜けというか、その日の彼の演技には全く可能性を見出だせなかった。既に彼に疑問を呈している役者もいるくらいだ。

 次こそ尾瀬は何かやるという期待と、諦めの混じった空気の中、ゆっくりと尾瀬が呼吸をするように舞台へあがった。


「三田」


 第一声、ぴりりと何か、電流のようなものが肌を駆けた。

 広瀬の眉が吊り上げる。


 あれ、昨日こんなだったっけ。


 何に気圧されて、体が粟立っているのか、わからない。声量? 気迫?

 そこまで声を貼っている訳ではないのに、台詞が妙にクリアに耳に入ってきたから恐ろしかったんだ。というかこの、尾瀬が演じている中島というキャラクターは、こんなにも圧のある役だったろうか。二人は親友のはずだ。声に乗せられた感情がトップスピードのそれで三田という相手役への憎悪すら感じた。だが、あくまで声色と表情は優しいのだ。表情と声に対して尾瀬の出す空気が余りにも乖離している。

 穏やかな態度とは裏腹にぞっとする場。

 三田は常磐が演じている役柄の名だ。


「お前、何処に行ってたんだよ。携帯見た?」


 あれ、おかしい。前の役者と全然違う。

 まるで先程の憎悪が嘘のように、舞台の尾瀬は慈しみに満ちている。

 あの最初の一声は自分だけが感じたものではない、そこへ走る空気が他の観客全員に伝播したのを確かに感じた。


 でも今は…?


 なんだか、だんだん恐ろしいものを見たように気分になってくる。

 こんな不安を煽るような役だったか。というか、こんな日常的な場面で特にインパクトもないのに、なんでこうも集中して見ているんだろう。


 何だこれ、尾瀬さんの演技に観客が滅茶苦茶干渉されてる。


 僅かな機微の一つも無意識に観客に拾わせてしまう、それが尾瀬の得意な領分だった。パンと叩かれた合図にはっと意識が浮上する。


「もういいよ。尾瀬君はやり過ぎ。舞台演技になってるから修正して」

「はい」


 監督は方向性は正さなかった。

 尾瀬の演技の根本は間違っていないということだ。何がどうなるとあの演技になるのだろう。そこにいる皆の空気が、動揺で少し浮わついたのがわかる。


「後半も流して通す予定だったけど、また明日にしようか。尾瀬君の負担も考えられるしね。じゃあ、お待ちかね」


 何気なく佐藤監督がすぐ隣にあった台車の幕を取った。

 中には見慣れない大きなパラボラアンテナのような装置が何点かと、恐らく親機である巨大な機械が乗せてあった。勘のいい何人かはこれから何があるのか、わかっている。

 佐藤監督がスタッフに命じて舞台上に適当にアンテナを付けていく。


「尾瀬君にはこれね、耳にかけて」


 両耳のイヤーフックが有線で繋がっているような機器を尾瀬は受け取ると、まじまじ見てから、文句も言わずに装着する。

 佐藤がその機器の裏に付いているスイッチを入れて、親機を弄るとプロジェクターの光がアンテナの張られた舞台上を一瞬包み、そして元の景色に溶け込むように消えた。


「試しに何か考えて」

「はい」


 皆が固唾を飲んで見守るなか、尾瀬が舞台を見渡せるように真正面に立った。

 が、何も変化がない。


「駄目です」

「コツがあるんだよ、意識するのは目蓋の裏だって」

「わかりました」


 もう一度今度は目を閉じる。


 静かな舞台上。

 コツン、と誰もいないはずの舞台の端で靴の音が鳴った。

 誰もがぱっと舞台袖にあった置きスピーカーに目を這わせる。人一人隠れてしまうほど大きさだ。異様な緊張感が漂った。

 スピーカーの裏から照明に照らされて足がそっと現れる。

 ひゅっと誰かの息が詰まる。視線がそれを捕らえて離さない。皆が見守っている。

 影から生み出されるようにそのスラリとした姿が歩み出てくる。耳に入る足音は重量さえ感じさせる。誰もがそこに居ると信じて疑わない。


 歩みは舞台上正面を切って立ち止まった。


 茶髪に襟足が少し長めのウルフカット、優しい眼差し、男らしい喉仏、軽い印象なのに品のよい佇まい、そしてそっと何処へでも馴染む、安定した存在感。


「尾瀬」


 明らかにそこから発された声。

 舞台の傍に立つ尾瀬の目の前で、穏やかに細められる目尻、笑うと少し首を傾ける癖。

 それがやおら手を差し伸べる。尾瀬がそれに答えようとゆっくり手を重ねようとするが、指先から通り抜ける。ぴくりと尾瀬の指先が跳ねた。


 誰かが、生唾を飲み込んだ音がした。


「……すげえ」


 途端に舞台上の常磐は光の粒子が解けるようにぱっと霧散した。

 静まり返ったその場から暫く誰も動けなかった。

 尾瀬が静寂を破って、確かな声で呟く。


「…これ、想像以上に集中力持ってかれますね」


 途端に空気が和らいで、その場に居た全員がわっと思い思いのことを口にした。

 一気に賑やかになった稽古場で、すぐ隣にいた佐藤が尾瀬を労わった。


「大丈夫?」

「脳味噌がぐわんぐわんしてる」

「凄いよ、初めから常磐君を再現できるなんて。やっぱり君にして正解だった!」


 尾瀬がその場を離れようとするので、広瀬がすぐに立ち上がる。


「大丈夫っすか、オレ付き添います」

「いや」

「いいから!」

「おっけー、じゃあ休憩ね。このあと尾瀬君にILT慣れてもらうためにワークショップするから、30分後に再集合で」

「尾瀬さん、取り敢えず外出ましょう」


 興奮冷めやらぬ中、休憩のために皆散り散りにその場を後にする。

 広瀬が肩を組んで支えても、疲労感が凄いのか尾瀬は項垂れ体に大した力も入っていない。まさに立っているのがやっとという状態だった。

 廊下まで連れ出すと蚊の鳴くような声で尾瀬が呟いた。


「一人でいい」

「や」

「放っとけ」


 何処にそんな力が残っているのか、尾瀬は広瀬の胸を肘で強く押し退けるが広瀬も意地になって離れない。


「大丈夫なんかじゃないでしょ」


 尾瀬は常磐が姿を現したあの瞬間、目尻をそっと下げて穏やかに笑っていた。皆を背にして、再開の歓喜とも友としての罪悪感とも、哀悼ともつかない表情をしていた。

 そもそも一人の人間を視覚的に想像で再現するということが、どういうことか。

 人間はどれだけ網膜にその人を焼き付ければ、細部まで思い出せるだろうか。家族の体の特徴すらも難しい。

 それを尾瀬はやってのけたのだ。

 きっと「あの常磐」には広瀬も知らない彼が沢山詰め込まれているのだろう。

 それほど心から大切な人間を、死んだ彼を、尾瀬は何度も目の前で作り上げ、消し去らなければならない。作ることは後に殺すことだ。触れることすらも出来ない。


 …なんて、なんて残酷なことだろう。


 尾瀬の静かな熱を孕んだ眼差しがあまりにも切なくて、嬉しそうで一人にしておけなかったのだ。普段の尾瀬からは想像も出来ないような激情の煌き。皆の圧に晒された時にだって眉一つ動かさなかったのに。

 広瀬に暴かれて、拒絶する気も失せたのだろう、尾瀬は力なく笑った。ふらふらと件の自販機のベンチへ座らせると、尾瀬は壁に体を預ける。


「君は聡いな。死ぬほどやりづらい」

「そうやって突っぱねてごまかそうったってそうはいかないですよ」

「会えて嬉しかったんだ、それだけだ。少し休んだら戻る」


 今度こそ尾瀬からのはっきりとした拒絶が告げられる。

 これ以上先に自分は必要ないのだ。本当は尾瀬のことを放り出したくなかった。今にもビルの屋上から飛び降りそうな雰囲気をしているのに、笑っている。かつての親友を目の前にして尾瀬は尚笑っている。

 ここまで何度も遠ざけられて、ずかずかと相手の領域に踏み込んでいけるほど広瀬は図太くなかった。


「わかりました。…ちゃんと稽古場戻ってきてくださいよ」


 やはり心配ではあるが、自販機の温かいお茶を購入して尾瀬の傍へ置くと何も言わずにその場を去った。





 その後のワークショップは常磐を交えた会話や、尾瀬と常磐が同時に舞台に立つ訓練が行われた。まだまだ粗があるものの、尾瀬の順応性は非常に高く、稽古場が解散する頃にはコツを掴んで体への負担もかなり減ったようだった。翌日には佐藤監督恒例の行事が控えていたので、今日は早めに切り上げられた。

 監督によっては作品制作の上でルーティーンとして何かを行うものもいる。

 佐藤監督も例外に漏れず、映画製作の折には毎回ヒット祈願に決まった神社で祈祷を捧げていた。

 作品作りを安定させるために、製作陣も同じ面子で佐藤は固めることが多く、祈祷のことも皆よく知っていた。尾瀬だけが空気感に馴染めずにいた。


 翌朝からバスへ乗り込み、佐藤はいつも行っている神社に向かった後、イレギュラーでもう一つの目的地を目指した。

 その寺は山風が吹き下ろす小高い丘にあった。

 一同がバスを降り、頂上へと続く土を削った角に木が埋め込めれた階段を登っていく。

 周りは林に囲まれ、日の光も和らいで降り注ぐ。背中に汗を掻きながら、上へ辿り着くと開けた境内がある。落ち着いた雰囲気の静かな場所だ。風と揺れる葉の音だけがしている。尾瀬が一歩足を踏み入れると、足首を風が僅かにさらった。

 佐藤が先んじて寺の住職に菓子折りと伴に挨拶をし、大勢で来る事の非礼を詫びた。先頭について纏まって歩いていくと、寺の裏手は大きな墓地になっていた。山々に囲まれたその場所は吹き抜けのように、暖かな日差しと心地のよい風がそよいでいる。

 佐藤が一番に手を合わせた墓石がある。皆がそこで立ち止まり、深々と頭を垂れる。伏目がちに口をつぐんで、一言も話さない。

 この現場に関わる人間がいっとう思い入れのある人間。そして今回の撮影で絶対的に一度断りを入れておかなければいけない人、墓石には常磐智也の名が彫られている。

 尾瀬は常磐が亡くなってから一度として、この場所を訪れたことがなかった。なんだか現実味が無くて、こんな場所にあったのだなあと、ぼんやり眺めていた。とうとう自分の番が回ってきて、隣の者に倣って墓前に膝を付いた。墓石に手を這わせてみても返ってくるのは硬質な質感と冷たさだけだ。感慨も無く、両手を合わせ目を閉じる。

 何処かで常磐はここにはいないのだと思っている自分がいる。だから、ここまで客観的に事態を見下ろしている。中には涙をそっと流すものもいる。

 だって、そうではないか、ここで彼の安寧を祈ったところでそれが何のためになろう。ここに眠っているはずがない。こんな人間のエゴで作られたものに。

 これは我々を慰めるためのものなのだ。本当はもっと遠い場所に彼は行ったのだ。

 わずかな苛立ちすら覚える。先ほどから足首に纏わり付く、この穏やかな場所に反する冷ややかな空気も、尾瀬は気が付かないふりをした。遠くで柳の葉の間から覗く足がこちらを見ていた。

 お参りを終えた誰かだろうか。


 結局その晩は常磐の弔う会と称した飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎだった。

 元来派手に明るくが根付いている人種の多い現場だ。尾瀬は付き合わされるだけ付き合わされて、それはもう鱈腹飲んだ。陽気な彼らが口を開けば佐藤監督のような重厚な作品ばかりを語るのだから、本当に人間はわからない。影は本当は光ある場所にこそ集うのかもしれない。

 数日後には本格的に撮影が開始する。佐藤監督にお願いして、朝晩のILTの自主練も許可を得た。早めに現場に到着してアップをしておこう。何よりあの「常磐」に慣れなければ。

 明日からの事を考えながら、ふらつく足で自宅のアパートの扉の前までやってくる。ポケットの中を手探りするが、鍵が見つからない。

 チャリチャリと音はするのだが、鞄の何処を探しても出てこない。

 一度も取り出した覚えはないし、音もするので確実に何処かに入っているはずなのだ。

 酔っているせいか、なかなか見つからない。

 静まり返ったアパートの廊下で、自分が立てた物音だけが響いている。

 なんとなく向こうが気になって廊下の端へと視線を彷徨わせる。先ほど自分が上がってきた階段が切れ掛かった電灯に照らされうっすら見える。

 時間は深夜も回って、宵闇はどんどん深くなっている。

 廊下の端までは暗くてよく見えない。見られている感じすら覚える。

 はっきりと見えないと想像が嫌に逞しくなって鬱陶しい。

 普段はこんな風に心細くなることなど滅多に無いのだが、あの場所に行ってからどうも調子が狂う。

 いつの間にか後ろに自分より少し大きな気配が立っている。

 しゃんと手を合わせなかったから、何者かにでも恨みを買っただろうか。

 それとも、本当に「あれ」が。


「…なあ、もしかしてお前、ついて来た…?」


 チャリンと今の今まで見つからなかった鍵が、ひっくり返した鞄から音を立てて足元に落ちた。





 尾瀬は随分早くから現場に入ってILTと向き合っているようだった。

 慣れない作業の勘を早く掴みたいのだろう。広瀬が稽古場にやってくると、ILTによって顕現した常磐と尾瀬がよく一緒にいるのを目にした。

 彼らは動作を確認するように向かい合って掛け合いをしていることもあれば、何気なく隣に座って雑談のようなものをしている時もある。

 本当に常磐がこの撮影に参加しているような光景で、初めのうちは怖がっているものも多かったが、次第に尾瀬を羨ましがって彼と触れ合いたがるものまで出てきている。尾瀬も根が優しく、彼らの思いもよく理解しているので嫌がる素振りも無く応えていた。


「調子良さそうっすね」

「そう見えるか?」


 ふっと目を細める尾瀬の表情に違和感を覚え、広瀬はおやと思ったが遠くの女性キャストが自分を呼ぶ声でその疑問も掻き消えてしまう。

 尾瀬はとても強い人間だ。今回多少根を詰めているようだが、体調管理などは問題ないだろう。撮影の方も頗る順調だった。

 芝居を始めると彼はあっいう間に人を引き付けてしまう。撮影の本格化と共に、自ずと尾瀬は一目置かれるようになった。

 今回の映画は尾瀬の演じるゲイ主人公が、親友である常磐に次第に思いを募らせ、人生における長い付き合いの中で葛藤しながらも最終的に告白をするという話だった。

 尾瀬の役どころは非常に繊細で、自分がゲイであるという劣等感や親友が向けてくれる信頼を裏切るように劣情を覚える自責の念など、かなりゲイの男性に寄り添った表現がなされている。

 生前の常磐はLGBTや民族間の差別問題、果ては社会情勢など様々な人種問題に関心を抱いており、弱い立場の人間が言葉も無く圧死させられることが無いようにと、表現の世界においても実生活においてもかなり肯定的な立場を取っていた。実際の支援も惜しまなかった。彼の性格の良さも付随して、雑誌などに取り上げられることも多々あった。

 そんな常磐が脚本にも携わりながら、残した遺作、尾瀬は力を入れないはずがなかった。

 彼の平生のどっしりとふてぶてしく感じるほどの性格とは真逆とも言える、一見軟派な主人公のか細い心の機微を尾瀬は演じて見せた。

 繊細な振る舞いや移ろう表情も普段からは想像が出来ない熱量で驚かされる。しかし、これも尾瀬の本質の一部なのだろうかと思う自分もいる。

 尾瀬の奥深くにこんな繊細な一面があるのか。

 彼の存在は非常に心強く、広瀬も彼とのシーンがあると特に身が引きしまる思いだった。

 もっと役者として尾瀬のことが知りたいと考えるのも普通のことだった。何よりもこの頃尾瀬の台詞を読み上げる声が頭を離れない。


「常磐さんと居るときはいつもあんな感じだったんですか」

「なんだ、妬くなよ」

「妬いてないです」


 撮影後、尾瀬をラーメンに誘うと彼は珍しく快諾した。尾瀬がラーメンを好きな事は事前にリサーチ済みとはいえ、他のキャストには見せない砕けた態度に嬉しくなる。


「そうだな、多分あんな感じだった」

「そうなんですか」

「仕事始めてからはアイツの方が忙しくて、帰ってくる頃には俺は寝てて会話らしい会話もしてなかったけど」

「寝てたって、は? ルームシェアしてたんですか?」

「安いボロアパートでな。駆け出しの俳優なんてそんなもんだろ。俺らの場合は大学進学で地元出てからあいつが結婚するまでずっとだけど」

「結婚前ったって、あの人ギャラはかなり貰ってたでしょ?」

「俺のことがよっぽど好きだったんだなあ」


 尾瀬もおどけて真顔で言うものだから太刀が悪い。


「そりゃあれこれ言われたってしゃーないですって」

「わあ、心当たり有りまくりだわあ」

「ただでさえ周りから色々言われてて、変な空気にならなかったんですか?」


 冗談めかしてノリで言うと、尾瀬は曖昧に笑っただけだった。

 あ、これ触れちゃいけないとこ突いたかもと一瞬戸惑ったが、尾瀬が初めの方に否定していたではないかと首を振る。


「あ、常磐さんいなくなって寂しいでしょ。やっぱ俺の慰めいります?」


 無言になりそうな空気を避けたくて、咄嗟に会話を続ける。

 その場の空気と僅かな本心がない交ぜになって突拍子もないことを話してしまう。


「ありがとう、お前は優しいな」


 笑って頭を撫でられる。

 違うのだ、自分は本当に。

 いよいよ色々とぶちまけてしまいそうで、口をつぐんだままでいると、ぽたりと膝に冷たい何かが落ちてきた。


「っ、冷て」

「あっすみません!」


 驚いてテーブルを見ると、自分の傍のピッチャーからカウンターへと水が溢れて広がっている。底に穴が開いているようだ。カウンター越しに店主が慌てた様子でお絞りを差し出し、代えたばっかなんだけどなあとぼやいていた。

 なんだか興を削がれて黙っている間に、尾瀬は上着を羽織り帰り支度を始めていた。


「広瀬、そろそろ帰るか。明日も撮影だろ」

「あ、明日早いんだった」

「…あれ、俺財布何処やったっけな」

「忘れたんですか? いいですよ、貸しイチで。尾瀬さん財布忘れるタイプには見えないですけどね」

「最近よくもの無くすんだよな、困った」


 お前も気をつけろよ、と笑う尾瀬に物忘れは移んないすよと笑みを返した。





 映画の始まりは主人公たちの高校時代にまで遡る。

 彼らの出会いは同じクラス、同じ運動部に入るという何気ないものだった。

 学校での所属コミュニティが重なっているから、自然と話すようになった。

 話しているうちに、心を開くようになる、一番の友人になる。

 初めて出来た彼女のこと、成績のこと、部活のこと、進路のこと、なんだって話した。

 廊下をバタバタ駆ける音。窓際の前の方に座る尾瀬に常磐扮する三田が声を掛ける。


『中島、部活』

『ちょい待ちって、もーいくから』

『はあ? 何してんだよ』

『辞書持って帰んなきゃだめぇ?』

『この前ロッカー置いてって泣きついてきたの誰だよ。てか置いてく教科書の選別くらい帰りの会終わるまでにしとけ』

『俺は休み時間も忙しいのー!』

『わかったら、はよやれ』

『やだあ、重いぃ』

『うるせえ! ぐだぐだ言うんじゃねえ!』

『ぎゃあ、三田ちゃんがキレた!!』


 ふざけて三田に縋り付こうとする中島に、便乗して三田も大きな声を上げる。

 ぎゃあぎゃあとお互いを突っぱねながら、慌しく廊下を歩く二人の声も校舎の喧騒の中に馴染んでいく。


 映像の中の常磐さんを見て、その有り得そうな顔立ちに驚いた。

 高校時代の若い常磐さんは大人の彼の面影を残しながらふっくらとしたあどけない輪郭を残している。

 違和感を覚えるのはワイシャツのボタンをきっちり上まで締め、髪もしっかり黒髪で手を入れていないところだ。役どころといえば仕方ないが、実際の常磐は容姿こそこのままだろうが、高校時代はもっと自由にお洒落をしていたのではないだろうか。

 対する尾瀬さんは現場では本人が制服を着て、演技をし、映像の中で容姿が加工されて若々しくなっている。こちらは制服も適度に着崩して、ワックスまで付けている。どちらかというと常磐さんが好んでいそうなファッションで、登場人物二人の趣向をそっくり入れ替えたらまんま現実の尾瀬さんと常磐さんなんだろうなあと考える。


 尾瀬のシーンが終わったところで早速広瀬は声をかける。


「お疲れまです、凄いっすね、本当に高校時代の常磐さんがいるみたい」

「よーく研究してっから」

「大丈夫ですか? 最近ぼーっとしてますけど」

「寝不足かなあ」

「気をつけてくださいよ」

「わかってるよ」


 軽く話していると、映像を確認していた撮影陣がざわざわと慌しくしているのが気になった。事情を聞くと撮影の主を担うビデオカメラの一つが不調らしい。機材の管理を任されていたであろう青年が怒られていた。髭を蓄えた中年の撮影スタッフが他のスタッフに謝って回っている。佐藤の現場でこんなことは初めてだった。


「機材も直る見込み立たないから、今日は解散にしましょっか。皆、よく寝とくように」


 現場を取り仕切っていた佐藤が早々に切り上げ、その場は解散になった。

 広瀬は尾瀬の研究法とやらを今後の参考にするべく、彼にも許可を取って解散後ついていった。





 尾瀬が車を走らせてやってきたのは閑静な住宅街だった。彼の自宅の周辺でもない。

 ここに一体何があるのだろうか。

 尾瀬がある一軒家駐車場へと車を止めるので、広瀬も尾瀬に習って助手席から降りた。

 インターホンを鳴らすと落ち着いた声音の女性が慣れた様子で応答をする。

 暫くすると玄関が開いて、30代程の女性に招き入れられた。

 女性の脇腹に寄り添うようにして、男の子が一人こちらを見ていた。

 父親の面影を顔のパーツの節々によく残した、あどけない顔立ちをして、二人のことをよくわかっていない様子で覗いている。


「あの、初めまして広瀬佳那汰と申します」

「こんにちは、私は」

「常磐智也さんの、奥様、ですよね」

「そうです、真紀と申します。陸、ご挨拶して」

「常磐陸です、5さいです。こんにちは」


 陸はぺこりと頭を下げると、わっと廊下の奥へ走り出していった。

 インターホンの傍には表札があった。今回の現場で聞かない日はないほど耳にする苗字だったので、ここに誰が居るのか入る前から広瀬には推測できた。


「お世話になります」

「ええ、大したおもてなしも出来ないけれど映画のお役に立ててください」

「…あの、俺もお線香上げさせてもらっていいですか」

「勿論です」


 常磐真紀は薄っすらと笑みを湛えたどこかほの暗い女性だった。夫に先立たれた未亡人のイメージそのままといった感じで、目尻の冷ややかさと影のある瞳が印象的だった。本当はもっと穏やかに笑う人なのかもしれないが、彼女には覇気が無かった。それもそうだ、旦那が亡くなってまだ一年しか経っていない。

 尾瀬は慣れた様子で、リビングの仏壇の線香を上げると二階へ上った。広瀬も後へと続く。木製の階段を昇る二人分の足音がトントンと静かな廊下に響いた。本当に都会かと思うほどに、ここでは音がしない。

 二階の突き当たりの扉を開けると、使用人のいない部屋独特のぽつねんとした空気が降りかかる。中はデスクやベッドがそのままにしてあった。男性ものの布団が敷いてある。寝室は別だったのか、と広瀬は下世話にも頭の隅で考えてしまう。


「息子さんの面倒を今はご両親と見てる、ご近所さんと仲が良いみたいだから、その辺は気にしてねえけど」


 尾瀬は本棚にあった缶の箱から、懐かしい小型のビデオテープを出してハンドタイプのビデオカメラにセットした。そのままコードをテレビに繋ぐ。


「お前の世代だと、これもあんま知らないんじゃないのか」

「電気屋とかで見た事はありますけど、使ったことないですね」

「昔はこれで何でも取ってたんだよ」


 ベットを背凭れの代わりにして腰掛け、テレビのスイッチをつけた。

 途端わっと音が流れ、体操着の生徒が一斉に駆ける様子が映し出される。

 ノスタルジックに色の抜けた画面の真ん中へ移りこんだ茶髪の男子生徒は、他の生徒に囲まれながら楽しそうにその様子をベンチで見ている。若かりし常磐だ。皆チームカラーを表す鉢巻を額は勿論ネクタイのように結んだりと、思い思いの場所につけていた。高校生の体育祭か。

 こんなものを実家から持ち出しているなんて、余程過去を大切にしているのだな。

 ちらりと盗み見た尾瀬は微動だにせずに、テレビをじっと見つめている。

 楽にベットに凭れて、自我だけをテレビに移して、まるで魂此処に有らずだった。

 ここ数日の尾瀬の様子は、これに起因しているのではないだろうか。


「尾瀬さん、どのくらいここに来てるんですか」

「今日で二回目」

「嘘だあ。あ、もしかして常磐さんのご両親の方も行きました…?」

「あっちのは見尽くした」

「見尽くしたって…」

「でもまだ全然足りないんだ、忘れてる事ばっかで」


 目の前のテレビに不意に尾瀬が映し出される。向けられるカメラに気がついて、気まずそうに見つめる彼を撮影者の常磐が茶化している。


「この頃さ、ずっと考えてるんだ。あの頃のあいつは何を考えてたんだろうって。あいつはこの映画で何を残したかったんだろうって」


 尾瀬の黒い瞳孔が画面の光で白んでいた。本当に人形にでもなってしまったようだ。彼の集中力ならば、何時間でも延々と見続けるだろう。こうして画面を通して過去の常磐との対話をずっと続けていたのだ。そこに憧憬などはあるのだろうか。

 尾瀬はそもそも何故今更自らの傷を抉るようなことを続けているのだろう。

 常磐は去年の初夏、旅行中に崖から足を滑らせて死んでいる。

 彼は海の美しい灯台の下で、お手洗いを済ませている家族を待っていた。

 そこは鉄柵が設けられておらず、突風がよく起こった。誰も直前の彼の姿は見ていない。ちょっと崖の先の景色が覗いてみたくなったのかもしれない。

 家族もいる、仕事も順風満帆の未来ある若者の死を警察は事故だと判断した。勿論、遺書は見つかっていない。

 しかし、誰も見ていないのだ。彼の死ぬ直前の心情など誰もわからない。


 だから、事故ではなく、或いは。


「…尾瀬さんは、なんでこの映画に参加したんですか。辛くないんですか」

「これは、罰なんだ。向き合わなかった俺への」


 尾瀬の言っていることが今の広瀬にはわからなかった。


「ちょっと、便所」


 幾分かビデオも見終わった後、尾瀬が席を立った。一階の真紀にわざわざ断って、お手洗いを借りにいったようだった。

 丁度いいタイミングで真紀が戸をノックしてやってくる。両の手にはグラスの乗った盆が握られていた。


「一段落つきましたか」

「学生時代のビデオ二本見終わったとこです」

「今高校生の時のシーンなんですってね」

「そうなんですよ」

「今日は広瀬さんはどうしてご一緒に?」

「ああ、最近尾瀬さん仕事に没頭しすぎてる感じがして目が離せないんですよ。年下の俺でも心配になるくらい」

「よく智也さんも言ってましたよ、目が離せないって」

「昔からなんですね」

「いつも尾瀬さんのことばかり話していましたよ、ちょっと妬けちゃうくらい。尾瀬さんには人を惹きつける力があるみたい。主人の心の中心はずっとあの人が握っていたの、私も息子のことも愛してくれたけれど、それでもずっと」


 それまでこちらを見ているようで見ていないような真紀の双眸が、すいと明確に広瀬に向いた。黒曜のように表面だけが美しく日光を反射しているようで、その実中には何も灯っていない。無明の闇だ。底知れない恐ろしさに気がついて、広瀬は無意識に真紀と距離を取っていた。


「広瀬さんも気をつけてくださいね」


 絶望に何も通さない、濁った眼球。常磐真紀は、尾瀬を恨んでいた。



後編へ続く。

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