イタさとの折り合いのつけかた
初めて自分の書いた物をこの世の中に発信してから数分後、好きなYoutuberが中高時代に書いてた私小説をネタにした動画を投稿していた。次はどんなこと書こうかとぼんやり考えてた矢先のことだったから、あまりにもドンピシャなタイミングで書いてる今もドキドキしている。
前回の投稿では笑って欲しいなんて書いたけども、実際に笑えるのは何年先の事なんだろうとか、イタイ過去の自分に後悔する日々が続いたとしてそれは逆にマイナスなんじゃないだろうとか、ネガティブな自分がいる一方で、小説家になろうには数えきれなほど作品があるんだから、ちょっとくらいイタイ奴が居たっていいじゃんという無責任な自分が相反している。
そこで思うのが、イタイ作品を発信する意味とはなんなんだろう。例えば、今の自分が書いてる文章と20年後の自分が書く文章。違いは時間だけ、でも時間の中には沢山の経験が蓄積されていて、その中で得た物は他の人が経験できないような経験だったかもしれないし、自分が思ってる事を完璧に言語化できる力かもしれない。20年後の僕はもっと魅力的な文章を書けて、どこに出しても恥ずかしくない作品を書けるかもしれない。本職の作家と呼ばれる人達も芸人さんも才能のある多くの人達に劣るこの僕が書いてる意味ってなんだろう。
まだ書いてる意義もまだ見出せないし、増えてくリスクに対するリターンが思いつかないけれど、この世界に水平な天秤なんてないから、書き続ける事で見つかればなんて思いながら、考えるの疲れたからもう寝ます。
誤字脱字よろしければご指摘下さい。