1. 十分後、またね。(1)
スカートの裾を翻して、わたしはショッピングモールの従業員用通路を駆けていた。折角の放送日だからとヒールのある靴を選ばなくて良かった――もっとも、走るとわかっていたら買ったばかりの靴ではなく、スニーカーを履いてきたのだけれど。
遠目からでも分かるほどの迫力が出ているのか、それともあるまじき表情を浮かべているのか、さっきからすれ違う従業員が道をあけて待っていてくれる。後者でないことを祈りながら、ありがとうございます、とすれ違いに頭を下げながら、わたしは目的地のドアに一直線。ノックをしながら一瞬立ち止まり、答えも聞かずに押し開けた。
差し込んできたオレンジ色の光に目を細めながら、目的の建物が視界に映って、ほっと一息。ラストスパートのつもりで再び速度を上げてモールの中を駆けると、入り待ち――というよりはもう開始待ちだろうけど――のファンに一礼して、わたしはスタジオの中に飛び込んだ。
扉の中に入ったわたしを出迎えたのは何に使うのかわからない大量の機材、棚から溢れるCDの山、そして放送の準備にと忙しく動き回っているスタッフの皆さん。ここはショッピングモールの中にあるラジオ放送のためのサテライトスタジオだった。
「すみません、遅くなりました!」
頭を下げながらちらり時計を見ると、既に放送開始の十分前……何とかギリギリ間に合った。
前のスケジュールが押してしまって――というのは言い訳。こちらは時間をずらせないのとわかっていたのだから、それに合わせて切り上げられなかったわたしが悪い。
それでもスタッフの皆さんは安堵の息を漏らしこそすれど、ため息一つ吐かずにわたしを受け入れてくれた。
「いつもありがとうございます」
皆に向かってお礼を告げながら収録ブースへ入ると、そこには番組のディレクターさんがわたしを待ち受けていた。
「やあやあ、陽菜ちゃん。間に合ったみたいだね」
「すみません、すみません」
「いやいや、ちゃんと事情は聞いてるし、気にすることはないさ」
ペコペコと何度も頭を下げながら謝罪するわたしとは対象的に、ディレクターさんは扇子で扇ぎながら呑気に笑う。
「……さ、時間もないし、とっとと打ち合わせをしちゃおうか」
「は、はいっ!」
わたしが急いで席に着くと放送作家さんもやってきて、急いで番組の打ち合わせが始まりました。
放送作家さんはメガネをかけた凜とした雰囲気の女性で、名前は草壁さんという。彼女はわたし達が番組を始めた時からずっと、番組の構成やトークの内容などをサポートしてくれている、縁の下の力持ちの人。最初の印象はとっつきにくそうな人だなという感じだったけれど、これで意外と気さくな人で、とても話しやすくて助かっている。
「どうかしました? わたしの方をジロジロ見て」
「え、あ、すみません。今日はいつもとメガネが違うかなって」
「ああ、よくわかりましたね。他の方は全く気付かなかったのに――ああ、もう一人いましたっけ?」
草壁さんはそう言いながらディレクターさんを見ながら、笑み――ではあるけれど、どこか畏怖を感じさせるそれ――を浮かべた。
「おいおい、あの件は悪かったって言ってるじゃないか。時間もないんだから、この話は後にしよう後に」
「はい、そうですね。では陽菜さん、これが今日のタイムシートと原稿です」
何があったのかなと思いながら、わたしは草壁さんが渡してくれたホチキス留めされた書類を受け取り、そのまま打ち合わせが始まった。
まず最初にタイムテーブルの確認。今回は特に変更なく、いつも通りやれば問題ないとのことだった。
次に、予め伝えられていたフリートークの内容について。わたしが予め送った内容に対する二人の指摘があって、それが既に台本に落とし込まれていることを確認する。念のため、変わっていたところにはマーカーを引いておく。それにしてもこの二人は仕事が早い。このメール送ったのは三十分ぐらい前だったと思うが、誤字までしっかり訂正されていた。
「これぐらい朝飯前だよ、なあ草壁くん」
「やったのは殆どわたしですけどね」
そして最後は番組内で読むメールについて。先週から募集し続けているテーマに関するもの、そしてそれとは関係ない話題のメール――いわゆる『ふつおた』について、どれを読むか、またその順番を確認する。
放送時間には限りがある以上、全てのメールを紹介できるわけではないから選考になり、それも何段階かに分かれている。
この番組の場合、まずスタッフさんが選抜し、その中から読みたいものをわたしが選ぶ。そして最後に事務所チェックが入り――そうして読むことになったメールも、当日時間が足りなくて読めないものがどうしても出てきてしまう。リスナーやファンのみんながどんな気持ちで送ってくれたかを考えると非常に申し訳ない。
もっとも、わたしがそう思ったところで、読めないメールが読めるようになるわけじゃないのだけれど……。
「ふふ、陽菜ちゃんは生真面目だねぇ」
「そう、ですか?」
わたしの考えを聞いたディレクターは鼻を鳴らして笑った。他のメンバーは……もっといえば他のパーソナリティの方は、あまり気にしないのだろうか。
「いないことはないが、少数派だわな」
「そうですね。でもその気持ちは大切なだと思いますよ」
「ああ、そうだな」
ディレクターは腕を組みながら、二度頷いた。
「読んだメールも、読まなかったメールも、送っていくれる人たち――もっと言えば、聞いてくれるリスナーがいるからこそ、番組は成り立っている。我々はその全員が楽しめるような放送をしなくちゃいけない。もっとも、これはラジオに限ったことではないけれど」
わたしは頷いた。それはどんな仕事でも同じ――関わる人たちが少しでも楽しんで、喜んで、幸せになってくれるように。そう願いながらわたしはこの道に進んだのです。
…………なーんて、うそうそ。そんな大それたことを思ったことなんて一度もない。
わたしが今ここにいるのは、ある人がきっかけ。わたしが先生と呼んでいる、わたしがとてもお世話になった人。あの人がいたから、そしてあの人にわたしを見せたいと思ったからこそわたしはこの道を選んだ。
どんなに遠く離れていても、必ずあなたを見ていると言ってくれた先生。その言葉をただただ信じて、わたしはこうしてまだ生きている。
「……さて、短いが打ち合わせはこんなところかな。何かあるかい、草壁くん」
「いいえ、良いと思います。……ところで、陽菜さん」
「はい?」
草壁さんはわたしの名を呼ぶと、わたしの耳元に顔を寄せてきた。首元から香るフリージアの匂いに少しどきりとしてしまう。
「目元、チェックしておいてね。隈が出ちゃってるわよ」
「え、嘘?! あ、ありがとうございます」
「なんだ、二人で内緒話か? 程々にしておけよ」
何を想像したのか呆れ顔をするディレクターに、草壁さんはそっくり同じ表情に加えてため息を加える。
「もう、そんなんじゃありませんよ。ディレクターはすぐそうやって……それじゃ陽菜さん、頑張ってね」
わたしには激励代わりに微笑みを浮かべてぽんと肩を叩いて、草壁さんは去っていく。
「まだ怒ってるのかねえ、草壁女史は……」
「いったい何をしたんです?」
「いや、ちょっとな。急に眼鏡を変えたみたいだから、老眼鏡かってからかったんだが」
「……あー、そりゃ怒りますよ」
だって草壁さんってメガネフェチ――いや、フェチと言ってしまっていいのかはわからないけど、メガネが好きでそこにお金をかけているのは間違いない。前にカタログを見せてもらったことがあったけれど、今彼女が着けているフレーム、確か数万円したはずだ。
それを老眼とからかわれたら――少なくともいい気はしないだろう、わたしなら。
「うーん、そうか。後でちゃんと謝っとくよ。じゃ陽菜ちゃん、今日もシクヨロね」
そう言いながら、ひらひらと手を振ってブースから出て行ったディレクターは草壁さんの所に行くかと思いきや、防音ガラスの向こうで別のスタッフの女の子と談笑を始めた。
「まったく、天野さんは……」
わたしは大きく息を吐き出した。とはいえこの天野という苗字のディレクターさんは、昔はテレビのキー局に勤めていて、あまりテレビに興味がなかったわたしでも知っているような番組を作っていたのだとか。時々飛び出すセクハラまがいの発言や、オヤジギャグさえなければ、とても穏やかで優しく仕事もできる人だとスタッフさんの評判は良いみたい。わたし自身も最初の放送から今日までずっと、彼にはパーソナリティとしての心構えや話し方の指導もしてもらったし、彼から教わったことは多い。
けれど、どうしてそんな人が今はFMラジオのディレクターなんてやっているのだろう。以前、こっそりわたし達のプロデューサーに尋ねたことがあったけど、彼女は苦笑いしながら、だからこそここにいるんだよと、寂しそうに笑っていた。そういうものですかと尋ねると、お前の口癖じゃないが『ままならないもの』なんだよ、と言いながら髪の毛がボサボサになるまで撫でられてしまった。
わたしも、まだ短いながらにままならない人生を過ごしてきているので、プロデューサーの言うことはなんとなくはわかる。学校での生活も、進路も、そして就職も――今までわたしは何一つ思った通りには進まなかった。でも、今ここにいることを後悔してはいない。
嫌なことも辛いこともあった。苦しい思いも、悲しい別れも経験した。けれどそれ以上にいいことも嬉しいこともある。そしてきっかけはどうあれ、それは誰かに決められたことではなく、わたし自身がやりたいと思い、そして選び取ったこと――だから、わたしはここにいたいと願うのだ。




