◆第八話『ジュラル島の裏・後編』
カウンターでエールを受け取ってから壁際の席に座った。ヴァネッサが壁に預ける形で大剣を置き、どしりと重みのある音が鳴る。
「ソレイユの酒場じゃないんだな」
今回、訪れたのは中央広場の南西にある酒場だ。《喚く大豚亭》よりも席の間隔がゆったりとしている。その分、客の入りは少ないようだった。
「あそこだとあんたが落ちつけないだろう」
「ま、ここはここで注目されるけどな」
店に入ってからというもの、注目を浴びていた。
理由は言うまでもなくヴァネッサだ。
酒で声量調節が雑になっているらしく、周囲の会話はよく聞こえてくる。「あのヴァネッサが男を連れてるぞ」「あいつの男なのか?」「まさか。あのヴァネッサだぜ」「小間使いに決まってる」などなど好き放題言われていた。
「あたしが外で飲むなんて滅多にないからねえ。珍しいんだろうさ」
ヴァネッサは周りのことなどまったく意に介さず、ぐいとエールを飲んだ。相変わらず飲み方がさまになっている。彼女はカップを机に置くと、濡れた唇をぺろりと舐めた。
「塔のほうは順調かい」
「ああ。今日、白の20階を突破してきたところだ」
「へぇ……やるじゃないか。あんなこと言っておいてなんだが、もっとかかると思ってたよ」
「仲間に恵まれたおかげだ」
「どうだかねえ。時間はかかるかもしれないが、あんたひとりでもいけるんじゃないか」
言って、挑戦的な笑みを向けてくる。
「前々から思ってたが、やけに買ってるんだな俺のこと」
「あたしぐらいになれば一目で大体の力量ってのがわかる」
「だったらサラマンダー戦を材料に出す必要はなかったんじゃないか」
「あれは実際に戦闘を観たって事実が重要だったんだよ。あたし向けじゃない」
つまりオルヴィ、ドーリエたちを含む、ほかのソレイユメンバーを説得させるためというわけか。いまさらだが、なんとも強かな人間だ。
「それで、ソレイユのマスターから見た俺はどの程度なんだ?」
「言っちゃ面白くないだろう?」
「そこはもったいぶるんだな」
「ま、こうして対面で飲んでることから察するんだね」
それは対等という意味なのか。
詳しく知りたいとは思ったが、それを確認するほど野暮ではない。
「さっきのことだけどね」
ヴァネッサが唐突に話を切り出してきた。
さっきのこととは、おそらくソレイユのメンバーが絡まれていたことだろう。
「あんたが察してるとおり、あれが初めてじゃないんだ」
雰囲気からもそうだとは思っていたが、やはり。
ヴァネッサがカップの取っ手を潰さんばかりの力で握る。
「外の世界と同じで、この島でも女ってのは立場が弱いのさ」
「ソレイユを作ったのは女を守るため、か」
「ああ。それでたしかにああいうのは減ったけどね。こんなところに来る奴らだ。怖いもの知らずもまだまだ多くいるんだよ」
いくらソレイユがヴァネッサの庇護下にあっても、〝つい〟で手を出す輩はどこにでもいる。それが中途半端に力を持った者ならなおさらだ。
「だから、うちのギルドがもっと怖れられるためにも大きな実績が必要なんだ。ソレイユだけが成し遂げた、でかい実績って奴がね」
それがリッチキングというわけか。
アルビオンが討伐に失敗したという点も大きな箔となるだろう。
ただ、ひとつ疑問に思うことはある。
「男の俺が手を貸していいのか」
「主導ってところに意味があるのさ。それにいざとなったらあんたもソレイユってことにすりゃいい」
「俺に女を名乗れってか。勘弁してくれ」
「案外いけるかもだよ。あんた、いい顔してるからね」
そんな冗談を言いながら、ヴァネッサが顔を覗き込むように近づいてきた。荒々しい言葉遣いに反して、その顔は驚くほど整っている。
長い睫毛をかざした強気な目に、すっと通った鼻筋。なにより酒で濡れた瑞々しい唇が女性らしさを際立たせていた。普段、周囲に振りまいている粗暴な印象さえなければ、彼女に言い寄る男は少なくなかっただろう。
ふいに、ふわりと漂ってくる香気があった。
爽やかで、どこか優しさを感じる匂いだ。
「花、好きなのか?」
「急になんだい」
「香水じゃない。自然な花の匂いだ」
「……部屋に飾ってるからね。たぶんそれだろう」
彼女は体勢を戻すと、自身の長い髪を持ち上げるようにして椅子の裏へと流した。落ち着きなくカップに口をつけ、ごくごくとエールを飲みはじめる。……どうやらあまり触れられたくないことだったらしい。
「なんだぁ、こんな良い女。この島にいたか!? ひっくっ」
ふとそんな声が後ろから聞こえてきた。
振り返ると、顔を真っ赤にした男が近くに立っていた。
「こんなところにいるってこたぁ、男漁りに来てんだろ。いいぜ、俺が相手してやるよ」
言って、男は片手に持った酒を粗野に飲んだ。
どうやら声をかけた相手がヴァネッサと認識できないほど酔っているようだ。
対するヴァネッサはと言うと、向けられる下卑た視線に動じることなくため息をついていた。
「ったく、人が気分良く飲んでるってのに……」
「でけぇおっぱいしやがって。邪魔だろうから俺がもぎ取ってやろうかっ」
男がさらに調子に乗った発言をしはじめる。
それに連れて酒場内の緊張が高まっていく。
酔っ払いの男以外、ほぼ全員が状況のまずさをわかっているようだ。
「おい、やめとけ! そいつソレイユのヴァネッサだぞ! 殺されるぞ!」
「ああっ!? ヴァネッサぁ!? ははははっ! 馬鹿言うんじゃねぇよ。ヴァネッサがこんなとこにくるわけねーだろ!」
外野の忠告も無意味に終わってしまった。
このまま放っておいてもヴァネッサに危害が及ぶことはないだろう。だが、連れとしては見過ごせなかった。彼女が言っていた〝良い気分〟で飲んでいたのはこちらも同じだからだ。
アッシュはすっくと立ち上がり、酔っ払いの男と向かい合った。
「あ、なんだお前?」
「見えてなかったのか? あんたが言う良い女の連れだ」
「なにふざけたこと言ってんだぁ? そいつは俺のもんだ。俺が先に目をつけたんだ」
完全に自分だけの世界にまでおぼれてしまったようだ。
「……せめて酔ってないときに来るんだな」
「すかした態度しやがって!」
男が拳を突き出してくる。が、完全に出来上がった者の繰り出したものだ。体重も乗ってないうえに勢いもない。敵の拳を受け止めたのち、腕を捻る形で背後を向かせた。そのまま膝を乗せて床に押しつける。
「いで、いでででっ! ぐっ、くそっ! 放せ!」
「もう絡んでくるなよ。いいな?」
「わかった! わかったから。放してくれっ」
アッシュは最後に軽く押し込んでから男を解放した。酔いがすっかり醒めたのか、男は先ほどまでとは打って変わって機敏な動きで立ち上がった。腕を押さえながら、「くそっ!」と悪態をついてそそくさと酒場を飛び出していく。
「騒がせて悪かった」
店内の空気を溶かすようにそう声をかけると、何事もなかったかのようにまた騒がしくなった。さすがと言うべきか、荒事には慣れているようだ。
アッシュは安堵して席につく。
と、ヴァネッサが目をぱちくりとしていた。
「悪いな。勝手に処理しちまって」
「あ、ああ。いやそれはいいんだ。それより……男に守られたことなんて初めてでね」
「あまり良い気分じゃなかったか?」
「いや、意外と悪くないみたいだ」
本心からそう思っていたようで、ふっと笑みを零していた。
「ま、それに甘えるような女にはなりたくないけどね」
「らしい答えだ」
「……あんたみたいな男ばかりだったらね」
彼女は独り言のようにそう零した。
「悪いね。礼の席だってのに」
この島で最強の一角だからか。
3大ギルドのマスターという位置にいるからか。
彼女には弱味のない人間というイメージが定着していた。だが、それは違うことを今回の飲みでよく知ることができた。
彼女が抱えていること。
漠然としかわからないが、それが見えたような気がして以前より彼女に対する親しみが強くなっていた。
「飲みならいつでも付き合うぜ」
「いいのかい、そんなこと言って」
「ああ。ただし担いで帰るようなことはさせないでくれよ。オルヴィに頭をかちわられそうだからな」
「たしかにあいつならやりかねないねえ」
ヴァネッサは楽しげに笑ったあと、ぐいと酒をあおる。が、もう入っていなかったのか、中を確認するようなしぐさを見せた。名残惜しそうにゆっくりとカップを机に置きなおして、彼女は言う。
「邪魔が入ったせいで酒の味がわからなかったよ。もう一杯、付き合ってくれるかい」
「ああ。今日は俺も飲みたい気分だ」
言って、アッシュは一気に酒を飲み干した。