◆第十話『ソレイユの酒場』
「ここがソレイユの縄張りって言われてる酒場だよ」
中央広場から南西に抜けた通り。
その中でもっとも大きい酒場を前にして、ルナが言った。
酒場からは柔らかな光とともに喧騒が漏れている。
中はすでに大勢の挑戦者で賑わっているようだ。
アッシュはいざ中へと歩を進める。
と、クララに後ろから服をぐいとつままれた。
「ほ、ほんとに行くの?」
「殴り込むわけでもないんだし、大丈夫だろ」
「でも、入った瞬間に絡まれたりとかっ」
「そんときゃそんときだ」
アッシュはクララを振り切って酒場の扉を開けた。
からんからんと鈴が鳴る。
ベヌスの館ほどではないが、中はかなり広々としていた。一部が吹き抜けになっており、手すり越しに2階の席がちらほらと窺える。
板張りされた内装の中、あちこちに飾られた観葉植物や落ちついた色のインテリアたち。酒場とは思えない、なんとも洒落た空間が広がっている。
そして、さすがは《ソレイユ》の縄張りと言われる酒場だ。
客に男はひとりとしていない。
初めのうちは喧騒が続いていた。
だが、三拍したところで空気が変わりはじめた。
ひとり、またひとりとこちらを確認した者から順に顔を強張らせていく。「男?」という単語とともに警戒心が伝播し、一瞬にして酒場内は険悪な空気で満たされた。
「これは思った以上の歓迎ぶりだね」
「ほら、やっぱり! いまからでも帰ろうよ!」
乾いた笑みを浮かべつつもどこか余裕のあるルナとは違い、クララは戦々恐々といった様子だ。また服をぐいぐいと引っ張ってくる。
「相手にされないよりはよっぽどいい」
なにしろここには用があってきたのだ。
ユインについて、ヴァネッサと話をするために――。
「おい、ここは男が来るとこじゃないんだよ」
「そのとおりです。早く出ていきなさい。汚らわしいっ」
目の前に2人の女性が立ちはだかった。
ひとりは巨人とも思えるほど大きな女性だった。
クララの元チームメイトであるダリオンもかなりの大男だったが、それを遥かに凌いでいる。かといって余計な脂肪はなく、まさに筋肉の塊といった外見だ。
もうひとりは銀の煌きを持つなめらかなローブを羽織った女性。
外見こそ姫、あるいは聖女のごとく清廉なものの、滲み出る気質は悪魔そのもの。ゴミクズを見るような目を向けてきている。
ほかの者たちが大人しく様子を窺っているところを見ると、眼前の二人が《ソレイユ》の中で上の存在であることは間違いなさそうだ。
「ヴァネッサに用があって来たんだ。あいつのところに通してくれないか?」
「はぁ?」
ローブの女性がぐにゃっと顔を歪めると、勢いよく詰め寄ってきた。眼球が飛び出すのではと思うぐらい目を見開きながら威嚇してくる。
「あなた、マスターに言い寄るつもり? よりによってわたくしの前でっ」
「落ちつけ、オルヴィ。そこまでは言ってない」
隣の巨人女性がオルヴィと呼ばれたローブの女性を諌めようとする。が、オルヴィの口は止まらない。
「言ってなくとも、そうに決まっています! わたくしのマスターの魅力はおぞましい魔物にさえ有効なのですから。こんな子供みたいな2人に魅了されるような男なら、いちころに決まっています!」
と彼女の口撃は、なぜかクララとルナにまで飛び火する始末。
「なぁっ、こ、子供みたいって……!」
「たしかに胸はないけど……う~ん」
クララは馬鹿にされて頬を膨らませていたが、ルナは自身の胸を見下ろしながらも落ち込んでいた。意外に彼女も繊細のようだ。
いずれにせよ――。
この目の前の猛獣もとい悪魔のような女をどうしたものか。
そうして対応に困っていたときだった。
「あっれー、アシュたんじゃーん!」
ふいに覚えのある声が聞こえてきた。
オルヴィを挟んだ向こう側で、誰かが手を振りながらぴょんぴょんと跳びはねている。くりんとした髪を片側から垂らした、あの頭。《ソレイユ》本部に初めて訪れた際、ヴァネッサに叱責されて号泣していたマキナだ。
彼女は、すたたっと近くまで駆け寄ってくる。
「ララたんにルナたんもいるじゃーん」
「たんってなんだ、たんって」
「可愛いでしょ。それよりどしたのー? こんなところに来て」
マキナは興味津々といった様子で首を何度も傾げる。
その姿を見て、巨人女性が怪訝な顔をしていた。
「なんだ、マキナの連れか?」
「や、そういうわけじゃないんですけど。前にちょーっと色々あって」
号泣するという情けない姿を晒したからだろう。
あははーと乾いた笑いをしてマキナは誤魔化していた。
「マキナ、こんなことは言いたくないけれど、友人は選びなさい。百歩譲ってこの女たちはいいとして、どうして男なんて」
「相変わらずオルヴィさんは男が嫌いだなぁ」
「嫌い? ふざけないで。死ねと思っています」
そう言うと、ついでにとばかりにギリッと睨まれた。
アッシュは思わず苦笑する。
「なんていうか……色々強烈だな」
「女の子ってこういうものなんだよ、アッシュくん」
そうクララは言うが、ほとんど人と関わってこなかった彼女だ。
まるで説得力がない。
「なんだい、騒がしいねぇ。人が楽しく飲んでるってのに」
2階のほうから声が降ってきた。
見上げた先、ひとりの女性がカップを片手に手すりから乗り出している。
ヴァネッサだ。
すでに少し酔っているのか、頬がほんのり赤い。
「マスター……それがクズみたいな男が来て」
「なんだ、アッシュ御一行じゃあないか。いいよ、通しな」
こちらを見るなり、ヴァネッサが笑みを零しながら言った。
その瞬間、信じられないとばかりにオルヴィが目を見開く。
「で、ですがマスターっ」
「あたしが通せって言ってんだよ。それとも、なにか文句あるのかい?」
「い、いえ。そういうわけでは」
「ならいいだろう」
「……はい」
しゅんっと俯くオルヴィ。ようやく大人しくなったかと思いきや、やはり威嚇を続けてきた。ヴァネッサに聞こえない程度の声で忠告してくる。
「あなた、何者か知りませんけれど……マスターにちょっとでも触れてみなさい。その脳天をかちわって――」
「そこまでだ」
巨人の女がひょいとオルヴィを片手で持ち上げた。
「ちょっとなにするのよ、ドーリエ! は~な~し~て~!」
「悪いね、客人とは知らずに」
ドーリエと呼ばれた巨人女性が申し訳なさそうに謝ってくる。
「客人っていっても招かれたわけじゃないしな。気にしないでくれ」
「そう言ってくれると助かるよ。……マキナ」
「はいはーい。行こう」
ドーリエに促され、マキナが先導する形で階段を上がりはじめた。アッシュは仲間とともにあとに続く。
「さっきの2人は強いのか?」
「そりゃね。なんてったってマスターのチームメンバーだし」
となれば、8等級に踏み込んだ10人のうちの2人ということだろうか。たしかに通常の挑戦者とは違う雰囲気だった。……色んな意味で。
2階にはテーブル席が4つあったが、空席ばかり。いるのは奥の角席でふんぞり返って座るヴァネッサのみだ。すでにかなりの酒を飲んだようで、あちこちに空のカップが転がっている。
「マスター、もう結構飲んでるんじゃ」
「まだこんなの飲んだうちに入らないよ。追加で持ってきな」
マキナが空のカップをかき集めると、1階へと戻っていった。
その姿を見送りながら、ヴァネッサがカップをあおる。
いまの彼女は鎧を脱いでいた。そのままベッドに寝てもおかしくないような、粗野な格好だ。彼女は、長く肉付きの良い太腿を見せつけるように足を持ち上げ、組みなおす。
「どうだ、うちのメンバーは。一癖も二癖もあるやつばかりで面白いだろ」
「少なくとも退屈はしなさそうだ」
その答えに満足したのか、ヴァネッサは嬉しそうに口の端を吊り上げた。
「座りな」
顎をしゃくって促された。
アッシュは仲間とそろってヴァネッサの対面に座る。
「調子はどうだ? 聞いてるよ、青の塔で狩りしてるってね」
「今日でほぼ準備は終わった。明日は休んで明後日に挑む予定だ」
「順調なら、どうしてここに来た? てっきり約束はなかったことにしてくれって泣きつきにきたのかと思ったよ」
だったら愉快だったのに、と言いたげだ。
その楽しげな顔がこれから歪むかもしれない。
そんなことを思いながら、アッシュは話を切り出す。
「謝らないといけないことがある。……あんたの依頼だってことがバレた」
「なんだ、そんなことか」
ヴァネッサは動じることなく、カップに口をつけた。
「驚かないのか?」
「まあ、うちの本部に来てたあとだからねぇ」
「だったらあんな約束する必要なかったろ」
「そういうていってのがあるだろ」
相手はバレることも織り込み済みだったというわけだ。
「それで、あの子はなんて言ってた? やっぱり怒ってたかい」
「いや。ただ、この辺りが節目だって」
「節目……ねぇ」
そう言葉を噛みしめながら、ヴァネッサはカップの酒を揺らす。
「あと、ヴァネッサの妹分を殺したって言ってた」
その真相を知ること。
今回、彼女を訪ねた一番の理由だった。
ヴァネッサは一瞬だけ動きを止めると、悔しげに舌打ちをした。大きなため息をついて、ただ無言でカップの中の酒を眺め続けている。
「本当は殺したわけじゃないんだろ?」
「あんたたちはユインが人を殺せるような奴だと思うかい」
「思わない」
いの一番に答えたのはクララだった。
「ユインさん、無口だけど良い人だよ。狩り中だって、よく後ろ確認してくれるし。それであたしが疲れてたら、こっそりペース落としてくれるし。あとあと、射線とかもすごい意識してくれて」
「だね。彼女、一日目からすぐに順応してた。気遣いのできる証拠だ」
クララの言葉にルナが同調するように重ねた。
アッシュも首肯で応じると、ヴァネッサがまるでわが子を褒められた母のように優しい笑みを浮かべていた。
「そういうことだよ。あの子は責任を背負い込んでんのさ。必要のない責任をね」
言って、ヴァネッサは一気に酒をあおった。
それから空になったカップの縁をさすりながら静かに語りはじめる。
「あたしには、ほぼ同時に上陸した奴がいてねぇ。リィスってんだけど、成り行きってのもあってチームを組んで塔を昇るようになったんだ」
リィス。
きっとその人物がヴァネッサの妹分なのだろう。
言葉の端々からそう感じた。
「ただ、はっきり言っちまうが、リィスの実力は大したことなくてね。せいぜい3等級が限界の挑戦者だった。それを本人もわかってたんだろうね。ある日突然、チームを解消したいって言われたよ」
当時のことを鮮明に思い出しているのだろう。
彼女の勝ち気な顔が寂しげなものへと変わる。
「そのときのあたしは、そのままリィスとの縁が切れちまうって思ったんだ。だから、その縁をどうにか繋ぎ止められないかって考えた。そして行き着いたのがギルドを設立することだった」
「《ソレイユ》ができたきっかけってことか」
そう問いかけると、ヴァネッサは「ああ」と短く答えた。
「作って良かったって心からそう思えたよ。なんてったってギルドに戻れば、リィスと会えたからね。それにずっと気がかりだったリィスの相棒も見つかった。ちょっとばかし無口な奴だけど、誠実でよく気が利いて。ドジなリィスには似合いの奴だと思ったよ……そう、あんたたちも知ってるユインさ」
やはりユインはソレイユの元メンバーだったようだ。
それがなぜ脱退することになったのか。
アッシュはヴァネッサの話に耳を傾けつづける。
「この時間がずっと続けば良い。あたしはそう思ってた。けど、終わりってのは唐突に来るもんでね……」
次に起こったことがよほど衝撃的だったのか。
彼女は搾り出すように続きを口にする。
「ユインが血だらけのリィスを連れて帰ってきた。泣きながら自分が殺したって言いながらね。けど、二人の到達階や力量。なにより火傷の痕を見て、あたしはすぐに悟った。2人はサラマンダーにやられたってね」
あの階層の通常種には大きな火傷を負うような相手はいない。だから、ヴァネッサが〝答え〟に行き着くのも難しくなかったのだろう。
「なぜサラマンダーに挑んだのか。ユインは頑なに語ろうとしない。けどね、わかってるんだ。リィスがユインに頼んだんだ。あいつは、あたしにひとりの挑戦者として認められたがってたから」
サラマンダーはラピスも避けるほどのレア種だ。
それを狩ったとなれば、挑戦者として認められることは間違いないだろう。だが、結果は敗北。残されたヴァネッサは悲しみ、そして――。
「ユインの奴は自分のせいだって背負い込んじゃってね。あたしがギルドを設立した理由がリィスのためってことも知ってたから余計にね。馬鹿だよなぁ……たしかに初めはリィスのためだったが、いまじゃメンバー全員があたしの妹分だってのに」
そうヴァネッサが悔しげに言ったとき。
「マスター……っ!」
ふと階段側から声が聞こえてきた。
見れば、幾人ものソレイユメンバーたちが顔を覗かせていた。話を聞いていたのか、全員が目を潤ませている。中には鼻水を垂らし、嗚咽を漏らす者までいる。
「ったく、しょうがない子たちだね」
ヴァネッサは呆れながらも慈しむように笑う。
表面こそ荒々しい彼女だが、その内には多くの優しさを持っている。きっとそれはソレイユメンバーの誰もが感じているはずだ。でなければこうも慕われるはずがない。
「悪いね。自分じゃ酔っちゃいないと思ったんだが、どうやらかなり回ってたみたいだ」
そう言って、ヴァネッサは語りを締めた。
一見して晴れやかな顔だが、どこか翳りが見える。
だからか、連想するようにユインの、あの言葉と顔が蘇った。
――このあたりが節目かなって……そう思ったんです
「ヴァネッサ、明後日の予定はあるか?」
アッシュは気づけば口を開いていた。
「このゴミクズ男! その頭、かち割られたいのですか!?」
即座にオルヴィの憤怒の声が飛んできたことには驚きだが、べつに彼女が思っているような意図はない。
アッシュは、ヴァネッサの目を見据えながら続けて口にした。
「俺に、あんたの時間をくれ」





