◆第七話『辿りついた、もう1つの頂』
「──さん。……きて……さい。──」
ぼんやりした頭になにかが響いてきた。
わずらわしいと感じたのも一瞬。
その静かで落ちつきのある声は、心地よさで胸中を満たしてくれた。まるで声にいざなわれるように自然とまぶたが持ち上がる。
と、恐ろしく整った顔立ちの女性が映り込んだ。まだ頭がはっきりしないこともあってか、本能から眼前の顔に思わず魅入ってしまう。ただ、頭の上でぴくりと動いた可愛い三角耳のおかげで、ようやく彼女が誰なのかを判別できた。
「どうしてアイリスが……?」
「もうっ、忘れたのですか?」
彼女は頬をわずかに膨らませると、その綺麗な眉を逆立てた。つい最近までは絶対に見られなかった愛らしい姿だ。そう、つい最近まで──。
「ああ、そうか。昨日から」
こちらの呟きに対し、目の前の彼女──アイリスが「はい」と満足そうに微笑んだ。そのまま顔を離し、居住まいを正して告げてくる。
「朝食の用意が出来ました。ほかの皆さんも集まりはじめていますから、そろそろいらしてください」
アイリスは扉に手を当てたかと思うや、「あ、忘れていました」と言って足を止めた。肩越しに振り返ったのち、柔らかな笑みを向けてくる。
「おはようございます、アッシュさん」
「ああ、おはよう」
◆◆◆◆◆
昨夜は寝るのが遅かったこともあり、わずかに気だるさが残っていた。とはいえ、〝彼女たちの〟手前、ぐうたらと過ごすわけにもいかない。アッシュは顔を洗って気持ちを一新。しゃきっとしてから庭へと足を運んだ。
眩しい陽光とともに映り込む華やかな光景。
そこかしこに配された木造りの椅子に幾人もの女性が座っていた。
ラピスとクララ、ルナ。ヴァネッサにシビラ、オルヴィ。ユインにマキナ。ウルとアイリスもいるが、彼女らは座らずに朝食の手配をしている。
「お、アシュたんやっと起きてきたー!」
「おはようございます、アッシュさんっ!」
マキナの快活な声に次いで、オルヴィの前のめり気味な声。彼女らに続いて、ほかの全員が笑顔とともに「おはよう」の挨拶をしてくれる。……なんとも贅沢な環境だ。そんなことを思いながら、アッシュは「ああ、おはよう」と返事をした。
特別クエストを突破したあの日から約1ヵ月。
ミルマたちの手によって行われていたログハウスの増築がようやく終わった。
これまでのログハウスに結合する形で人数分の部屋に加え、風呂や調理場、居間などをそのままもう1つずつ用意した構造だ。面積が増えたため、当然ながら庭を囲む緑は減ってしまったが、幸い木造りとあって雰囲気はそう変わっていない。
いずれにせよ、想像以上に満足のいく仕上がりとなった。もちろん、その分だけ相当な費用を負担することになったが、多少は〝おまけ〟してもらった。「娘を2人も送るのだから当然だろう?」というアイティエルによる厚意からだ。
「アッシュさん、こちらに」
ユインが立ち上がって隣の席を指し示していた。
6人席のうちの1つだ。ユインとは反対の隣席にも食事は置かれているが、誰も座っていない。ウルかアイリスの席だろうか。ちなみに正面に座っているのはマキナだ。
こういった場合、女性陣が先に席の割り当てを決めている場合が多い。アッシュはとくに異論を挟むことなく、促されるがままユインの隣に座る。
「了解だ、今日はユインの隣だな」
「はい。マキナさんの隣だとキスを迫られて食事できないと思うので」
「食べるときはしないよっ」
「では、食事外ではするのですね」
「そ、それはまあ? ふ、雰囲気次第っていうか……って、朝からなに言わすのユインちゃんっ」
マキナが顔を真っ赤にしながら大声で叫ぶと、くくっと笑いを堪えるような声が聞こえてきた。マキナの隣の席で頬杖をついているヴァネッサだ。
「ほんとマキナは朝から元気だねぇ」
「そっちは逆にだるそうだな、ヴァネッサ」
「実はあんまり朝は強くなくてね。とはいえ、好きな男の前だ。少しは気を張っておかないとね」
言うや、背筋を伸ばすヴァネッサ。男の性か、合わせて揺れた彼女の豊かな胸につい目が向いてしまった。それが彼女には面白く映ったらしい。口の端を吊り上げながら無言で見せつけてきた。
いまは朝食の場だ。それにほかにも女性がいる中でまじまじと見るものではない。アッシュはとくに動揺することなく、すっと目をそらす。と、もう1つのテーブル席に座る女性陣が目に入った。クララにルナ、ラピスだ。
「外で朝食ってなんだか新鮮な気がする~」
「まだ中に皆が座れるテーブルがないからね」
「でも、悪くないかも。ここは空気も美味しいし」
クララにルナ、ラピスが周囲を見回しながら話していた。
普段の朝食はログハウスの中でしている。増築後のログハウスでも全員が座れる食卓はじきに用意できるが、今回のように外で食べるのも悪くはないかもしれない。それほどまでに感じる空気は心地よかった。
「あ、ありがとうございます、ウルさん」
「はい、どういたしまして、オルヴィさんっ」
視界の中、ウルがオルヴィの前にミルク入りのカップを置くのが見えた。アイリスもまた同様にシビラの前にカップを置いている
「感謝する、アイリス。しかし、やはりわたしも手伝ったほうが──」
「その話は先ほどもしたはずですよ。お気になさらないでください」
申し訳なさそうなシビラに、そう告げるアイリス。
どうやらアイリスたちミルマが給仕をすることは話し合った結果のようだ。こちらにもアイリスがミルク入りのカップを置きにくる。
「悪いな、ここでも給仕みたいなことさせて」
「好きでしていることですから」
「ウルも皆さんに喜んでもらうことは大好きですから」
アイリスからは微笑、ウルからは満面の笑みが返ってきた。
「こう言って譲ってくれなくてね~」
困ったようにそうこぼすマキナ。
ほかの女性陣の顔も同じような感じだ。
そんな彼女たちの反応を見てか、アイリスが続けて補足する。
「挑戦者の皆さんと違って体力的な疲労はありませんから」
「ってもミルマだって仕事してるだろ」
大体、朝から夕方まで。
アイリスに至っては《スカトリーゴ》で夜まで働いている。挑戦者が塔を昇っている時間と比べてもそう変わらない。むしろ多い可能性すらある。
「なにもない日だってありますし。あっ、たまーにですよ!? すごくたまーにっ!」
「たまに仕事が入るウルはともかくとして──」
「ア、アイリスさ~~んっ」
「重労働をこなしているわけではありませんから、まったく問題ありません」
どうやらマキナが言っていたとおり譲る気はないらしい。とはいえ、ほかの女性陣たちの気持ちも汲んであげたい。
「2人がそうしたいならそれでいい。ただ、たまには皆にも手伝わせてやってくれ。もちろん俺も含めてな」
「……そう、ですね。アッシュさんがそう仰るのでしたら」
わずかな思案ののち、アイリスが淑やかな笑みを浮かべながら言った。途端、ほかの女性陣たちがぽかんと口を開けた。目線はすべてアイリスに注がれている。
「な、なんですか、みなさん揃ってそのような目で……っ」
「いや、あのアイリスさんがなーって」
「アッシュを見るたびに親の仇みたいな対応してたからねぇ」
「ええ、本当に。おかげでいまだに慣れないわ」
「たしかに。いまじゃデレッデレだもんねーっ」
クララに続いてヴァネッサ、ラピス。最後にマキナの無邪気な声があがる。理由は大方述べられたが、アイリスにとって無慈悲な会話は続いた。
「ですが、気持ちはとてもわかりますっ!」
「あ、ああ。アッシュはそれだけいい男だからなっ」
「はい。少しもやっとしますが、アッシュさんですから仕方ありません」
「ウルもアイリスさんが一緒の人を好きになってくれて嬉しいですっ」
「ボクとしては仲良くできるならそれでいいかな」
オルヴィにシビラ、ユインにウル。そしてルナ。
どれも擁護だったが、アイリスにトドメを刺していることに気づいてはいなさそうだ。ルナだけはわかっていて言っていそうだが。
ともかく注目された理由が理由とあってか、アイリスが耳まで赤らめていた。服の裾を両手でぎゅっとつまみながら、こちらに助けを乞うような目を向けてくる。
少し前までは絶対に見られなかった光景だ。もっと見ていたい気持ちもあるが、あんないじらしい姿を見せられては断るわけにもいかない。
「ま、アイリスをいじるのもその辺にして──」
「いじるって、アッシュさんっ」
「そろそろ食べようぜ」
今朝もルナが用意してくれたのだろう。
いつもと変わらず健康的ながら美味そうな品目が並んでいる。おかげであからさまながらも容易に全員の注目がアイリスからそれた。クララの「さんせー! あたしもお腹すいてるんだよねー!」という無邪気な声を合図に全員が朝食をとりはじめる。
ちなみにユインと反対の隣席はアイリスのものだった。彼女は席につきながらふぅと息をつくと、ひと房の髪をかきあげた。彼女の頬はいまだ赤味が引いていない。そんな姿を目にして思わずくすりと笑ってしまった。
「な、なにを笑っているのですか……っ」
「悪い。ただ、これまでアイリスがあんな風に動揺してるとこあんまり見られなかったからな」
「笑いごとではありません。必死だったんですからねっ」
「でも、悪くないだろ。こういうの」
曖昧で雑な問いかけだ。
それでも示したことは伝わったようだ。
「そう……ですね。たしかに悪くないかもしれません」
言いながら、アイリスが辺りを見回した。
目元を細めて柔らかく微笑み、話を続ける。
「過去の記憶も含め──これまで経験してきた中で、こんなにも満たされた時間は初めてです」
聞き終えた途端のことだった。
ふわりと爽やかな香りを感じたのも一瞬。
アイリスが顔を近づけてきたかと思うや、頬に唇を当ててきた。すぐに離されたが、頬には感触がしかと残っている。
完全な不意打ちだ。
目を見開いたまま、アイリスに意味を問いかける。
と、いたずらっ子のような笑みを返された。
「……先ほど辱められた仕返しです」
「俺がしたわけじゃないんだけどな。あとこれ、仕返しになってないぞ」
「では、お礼ということで」
にこりと華やかな笑みを浮かべるアイリス。
本当に少し前までの不愛想な面とは大違いだ。
もっと早くにこの笑顔に出会えていたらと思わなくもないが、きっと紆余曲折あったからこそのものだろう。そう考えると、より魅力的に感じられた。
と、視界の端でクララが立ち上がった。
バゲットとカップで両手を塞ぎながら、声をあげる。
「あ、あーっ! アイリスさんがキスしてたー!」
どうやら先の場面を目撃されていたらしい。
クララの声を機に女性陣の視線が再び集まった。
「アイリスさん、大胆です……っ」
「くっ……やはりわたしも積極的にいくべきなのかっ」
「このオルヴィも隣の席を勝ち取った日には必ず……っ!」
赤面するウルとは対照的に悔し気なシビラとオルヴィ。また、そんな彼女たちとは違ってヴァネッサは楽し気に笑っている。
「なんだい、アイリス。奥手なのかと思ったらやるじゃないか。これはあたしも負けてらんないね」
「いやいや、マスターが行く前にこのマキナがっ」
「マキナさん、口元が汚れていますよ」
「えぇ、どこどこっ!?」
「ということでアッシュさん、まずはわたしが先に」
なんとも上手くマキナをいなしたユインが物欲し気な目を向けてくる。応えたい気持ちはやまやまだが──。
「あ~、いまは食事中だからな」
「たしかに、そう、ですよね」
しゅんとなるユイン。
悪いことをしたが、ここで応じれば次は誰となって食事どころではなくなる。ばつの悪さを感じて髪をかいていると、なにやら強い視線を感じた。見れば、ラピスから細めた目を向けられていた。
「彼女はよくて、ほかの人はダメなのね」
「そういうわけじゃなくてだな」
「まあまあ落ちついて、ラピス。大きな貸しが出来たって思えばいいんだよ」
「なるほど、たしかにルナの言うとおりかも」
ルナのおかげでラピスの矛がすんなり下ろされた。
貸し、という意味ありげな言葉については聞こえないフリをするのがきっと正解だ。
場が収まった中、隣でアイリスが肩を落としていた。
申し訳なさそうに目を伏せている。
「申し訳ありません。わたしのせいで……」
「ま、べつにいいんじゃないか。こういう賑やかなのも悪くない」
べつに殺伐としたものでもない。
そもそも男1人に女10人だ。一緒に暮らすことを決めてからこんなことが起こるのはわかりきっていた。
とはいえ、面倒なことは避けたい。
そのためにも〝こちらの〟気持ちを新たにする必要がある。
「みんな、聞いてくれ」
少し声を張ったからか、騒がしかった空気はすぐに静まった。
アッシュは全員の顔をゆっくりと見回したのち、告げる。
「俺の体は1つしかないし、色々と不都合があるかもしれない。それでもみんな1人1人が俺にとって大切な存在だ。可能な限り応えるつもりだし、俺自身もみんなに出来ることをしていくつもりだ。だから──」
塔を制覇した光景は、当初考えていたものとはまるで違った。そばには4人の勇敢で信頼できる仲間たちがいた。
そして新たな塔を昇りはじめたとき、想像もしていなかった光景が待っていた。10人もの愛しくて魅力的な女性たちと暮らすことになった。
本当に違うことばかりだ。
だが、それでも──。
辿りついた〝いま〟は、島に来る前に考えていたどんな未来よりも最高だ、と。
そう間違いなく言い切れた。
「──これからもよろしく頼む」
以上で番外編(アイリス編)は終わりとなります。執筆自体久しぶりだったので少し不安でしたが、なんとか皆さんにお届けできてよかったです。また気が向いたら番外編を書くかもしれませんが、その際はよろしくお願いいたします。
それでは、またです。
(※追記:いつも感想ありがとうございます。すべて読ませて頂いてます!)





