◆第五話『挑戦者の空気』
──どうしてこんなところに来てしまったのか。
そんなことを思いながら、アイリスは両手で持ったカップの中を覗き込んだ。入っているのはなみなみと注がれたエール。普段、あまり口に入れないものだ。
特別クエストを突破したのち、一旦解散。
それから夕刻に再び参加者全員が集まっていた。
場所はアッシュ・ブレイブが住んでいるログハウスの庭だ。
無骨ながらさまになった木の椅子やテーブルにはさまざまな料理が並べられ、また庭の脇にはエールの入った大きな樽がどかんと幾つも置かれている。
「今日は俺のおごりだ! 存分に楽しんでくれ!」
特別クエストの打ち上げと称したパーティは、アッシュの挨拶とともにあがった威勢のいい声から始まった。待っていたとばかりにエールを一気飲みしはじめる者もいれば、ただ口をつけるだけの者と様々。
総じて言えるのは全員が勝手知ったるといった感じだ。委縮している者など誰一人としていない。そんな彼らのことを遠巻きに見つめながら、アイリスはカップに口をつけた。わずかに唇に届いたエールはなんとも苦い。
これまで味見したことは何度もあったが、やはり時間が経っても変わらないようだ。水でも飲んでいるほうがずっといい。料理のほうがどれも美味しそうではあるが、なんだか手が伸びない。食欲がないわけではなく、単純に遠慮する気持ちが先立ってしまうからだ。
開始からずっと会話に花を咲かせる挑戦者たち。そんな彼らの姿が余計にいまの自分の立場を浮き彫りにさせているような気がした。やはり挑戦者でもないミルマが来るべきではなかったかもしれない。流れで参加してしまったが、機を見て帰ろう。
そう決意したときだった。
「隣、いいかな?」
窺うような声がそばから聞こえてきた。
声のほうへ向くと、にっこりと笑うクララの顔が視界一杯に映り込んだ。あまりに顔が近くて思わず目を瞬かせてしまう。
「もちろん構いませんが……」
「じゃ、お邪魔しまーすっ!」
とすんっと隣の席に座るクララ。まるで壁を感じさせない迫り方に思わず困惑してしまう。そんなこちらの気持ちを知ってか知らでか、彼女は変わらず笑みを向けてきた。
「今日はお疲れさまっ」
「は、はい」
カップを半ば強制的にぶつけられた。そのまま口にカップをつけたのち、ごくごくと飲みはじめるクララ。ぷはぁ~、といいのみっぷりを見せたのち、目をぱちくりとさせた。彼女の視線はこちらのカップに向けられている。
「あ、エール苦手なんだ? じゃ、こっち飲むといいよ。あたしも苦手でいつもジュース飲んでるしっ」
言いながら、クララがジュース入りのピッチャーを取ってきた。べつのカップに注ぐと、はいっと目の前のテーブルに置いてくれる。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして! それにしてもアイリスさんの戦ってるところ初めて見たけど、ほんと凄かったー! なんか踊ってるみたいですっごい綺麗だったし!」
この距離の縮め方はどこかウルに似ている。純粋で邪な感じがまるでしない。そのおかげか、不思議と気を張ることなく喋りだすことができた。
「……あなたも、あの雑魚を蹴散らした1撃は見事でした」
「でしょ~? 11等級にしてから威力がすごい上がったし、もうずっとお気に入りなんだよねー。ま、そのせいで周囲への被害がひどくてあんまり使えないんだけど……」
ころころと表情が変わる子だ。見ていて面白い。
と、なにやらクララが「はぁ~」と大きく息をついた。
「あたしもアイリスさんみたいに剣が使えたらなー」
「あなたには充分な魔力があるでしょう」
「そうだけど、全部できたらかっこいいじゃんっ!」
無邪気に夢を語るのは人の勝手だ。
ただ申し訳ないが、彼女が機敏に動いて剣を振り回す光景はまったく想像できなかった。
「わたしたちもいいかしら?」
「なんだか盛り上がってるみたいで気になっちゃってね」
そう声をかけてきたのはラピスとルナだ。
クララが二つ返事で了承するかと思いきや、こちらに目線を送ってきた。
「いい? アイリスさん」
「べつにわたしは構いませんが」
「じゃ、どうぞどうぞー!」
クララに促されるがままルナとラピスが前の席に座ると、揃ってカップを突き出してきた。断るのも角がたつし、そもそも断る理由もない。アイリスは遠慮がちにカップを突き出す。と、彼女たちのほうからこつんと当ててきた。
「今日の勝利の立役者と乾杯しておかないと、とね。アッシュから聞いてはいたけど、予想以上でびっくりしたよ」
「ええ、本当に。しかもあれで本気じゃないなんて……」
驚愕したようにこぼすルナとラピス。
ただラピスのほうには多分に悔しさが滲んでいた。
彼女が握ったカップの取ってがわずかに軋んでいる。
「……本気ではない、というのは正しくはありません。たしかに本来の力は制限されていましたが、あのときわたし自身が出せる力はすべて出しきっていました。手を抜いていたということは決してなく──」
「そういうつもりで言ったわけじゃないのだけど……ごめんなさい」
言って、ラピスが申し訳なさそうに目を伏せた。
なにか早合点をしてしまったようだ。ただ理解が及ばずに視線をさまよわせていると、困ったように笑うルナと目が合った。
「ラピスはアイリスの本気が気になって仕方ないんだよね。白の塔100階でアッシュが闘ったときの」
ルナの言葉に、ラピスがこくりと頷いた。
向けられた目は戦闘中かと思うほどぎらついている。
「この先闘える機会があるかはわかりませんが……仮に闘ったとしても負ける気はしません」
「そう言い切られると余計に挑戦したくなる」
ラピスの戦闘は幾度も見たことがあるし、今回も目にした。それらを参考にしてもまず負ける要素がない。だが、彼女はそうは思っていないようだ。いっさい曇りのない目を向けつづけてくる。
こんなところで張り合う必要はないのに、なぜか引きたくなかった。どうしてだろうか、と。自身でもわからない感情を胸中で探っていた、そのとき。どかんどかんと2つのカップがそばのテーブルに置かれた。
「なんだなんだ?、飲みの席だってのにやけに殺気立ってんな」
「酒だろ? 酒が足んなくてイライラしてんだろ? しゃあねえなあ! 俺が注いでやるから遠慮せずに飲め飲め!」
ディバルとベイマンズだ。開始からまだ間もないというのに2人ともすでに出来上がっているらしい。頬が真っ赤だ。見るからに面倒そうな2人の接近に、クララが「うわー、酒飲みおじさんたちがきたぁ……!」と思いきり顔を歪めている。
自身が働く《スカトリーゴ》では酒も提供しているため、こうした手合いに耐性はある。だが、慣れているからといって酒臭いのが好きというわけではない。
そっと席を移動しようとする。が、肩に置かれた手に留められた。ヴァネッサだ。彼女もまた酒を多く飲んでいる一人だが、不思議と臭くはない。むしろ彼女から香る花のような匂いと混ざって甘く感じられるぐらいだ。
「そんないっつもツンケンしてると明日にでも皺が出来ちまうよ」
「……余計なお世話です」
「相変わらず連れないねぇ、あんたは」
困ったように笑ったのち、ぐいと酒をあおるヴァネッサ。
彼女は挑戦者の古参とあって、当然ながら顔を合わせた数は少なくない。〝昔〟を知られているとあってどうにもやりにくい相手の一人だ。なんてことを考えていたら、ほかにも〝昔〟を知る人物──レオがべつのテーブルから会話に入ってきた。
「でも、アイリス嬢も昔はもう少し愛嬌があったんだけどねー」
「適当なことを言わないでください、レオさん」
「僕は本当のことを言ってるんだけどね。なんだったら証明するために服を脱いでもいいけど」
「それはあなたが脱ぎたいだけでしょう」
「あはは、バレちゃったか」
屈託なく笑うレオに、周囲が呆れたように苦笑する。
人が多く集まる場で全裸になるはずがない。そう思いたいところだが、実際にこのレオという男は《豚の大喚き亭》で何度も全裸になっているという。今後、《スカトリーゴ》が汚されないことを祈るばかりだ。
「だが、親しみやすさがあったというのはたしかにそうかもしれないな。いまよりももっと男たちの視線を集めていたし」
「あたしの見立てじゃ、おそらくアッシュが来てからだね」
隣のテーブルから発言したシビラに、ヴァネッサが意地悪く笑いながら言った。途端、思わず頭が熱くなった。反射的に顔をそらしてしまう。
「……彼が原因ということは決してありません」
「そうかい、それならあたしの思い違いだったってことでいいけどね」
言葉の端々から信じていないことが伝わってくる。
すぐでにも言い返したいところだが、強く反論すればするほど逆効果な気がした。かといって本当のこと──〝アイティエル様から寵愛を受けるアッシュに嫉妬していた〟なんて恥ずかしくて言えるわけがない。
なにかほかに上手い言い訳はないか。
そう思考を巡らせるが一向に浮かんでこなかった。
「あ~、それには色々と事情があるんだ。あんまり深く突っ込まないでやってくれ」
そんな言葉を投じてきたのはアッシュだった。
彼の言葉のおかげで圧迫感が一気に失われた。ただ、先の圧迫感はそっくりそのままアッシュに移ったようだ。
女性陣の問い詰めるような視線が彼に注がれていた。
シビラが恐る恐るといった様子で疑問を口にする。
「事情って……アッシュ、もしや彼女になにかしたのか?」
「やっぱりしてたのね」
「なにもしてねえよ。っていうかラピス、やっぱりってなんだやっぱりって」
責めるようなアッシュの視線から、ラピスがすっと目をそらした。カップを両手で包み込むように掴んだのち、口を尖らせながらぼそりと口にする。
「……だって」
「はいはーい、あたしラピスさんの味方でーす!」
「もちろんボクもラピスの味方だよ」
ラピスの両脇から抱きつくクララとルナ。その背に立つ格好で「じゃ、あたしも」とヴァネッサが加わる。しまいにはシビラも「もちろんわたしもだ!」と離れた席で立ちあがっていた。さらには──。
「なんかわかんねえけど、俺もこっちにつくぜ」
「なんで親父までそっちについてんだよ」
「生意気な息子と可愛い娘たちのどっちかってなったら答えなんて決まってんだろ」
ディバルまでラピス側につく始末。ベイマンズに至っては樽からエールを注ぐことで頭が一杯でどうでもいいといった様子だ。すでに形勢は決まっているが、こちらにも対応を求められた。アイリスは一瞬の逡巡を経て、ラピス側についた。
「おい、さっきまで敵対してたんじゃないのか」
「それとこれとは話がべつということで」
恥ずかしい想いをせずに済んだのはアッシュのおかげだ。しかし、話の流れ的にここでアッシュの味方をすれば、それもすべて無駄に終わる可能性がある。つまり、これは彼の厚意を無駄にしないための判断だ。他意はない。
「大丈夫、アッシュくん。ボクだけはずっとキミの味方だから」
「こんなことしてくる奴は味方じゃないだろっ」
最後まで隣にいつづけたレオから伸びる手を叩き落すアッシュ。その痛快な音が決着の合図となったようだ。クララの高らかな声が響き渡る。
「ということでアッシュくんの負けー!」
「負けってなんだよ。もう少し納得のいくやり方で──」
「何度やっても同じよ。ことこの件に至ってアッシュに勝ち目はないから」
ラピスの言葉を肯定するように女性陣の声が続く。ただ、本気で責めている様子はいっさいない。それどころかじゃれているような感じだ。気づけば女性陣が笑顔でアッシュの周りに集まって笑顔で談笑している。
すでに陽は完全に落ち、辺りは暗くなっていた。
灯はそこかしこに置かれたランタンのみなうえ、こぼれる黄金色は頼りない。だが、やけにアッシュの周りが眩しく映った。
「アッシュね、こっそりお願いしてきたんだよ」
静かな声がそばから聞こえてきた。
ルナがいつの間にか隣に立っていた。
彼女も同じようにアッシュたちのことを見つめながら話を続ける。
「アイリスのことを気にかけてやってくれって」
「……なぜそのようなことを」
「アイリスってアッシュとはよく話してるけど、ほかの挑戦者とはそこまででしょ。それにこういう場所も来てる印象がないし。あと──」
ルナはそこで区切ると、にっこりと微笑みかけてきた。
「挑戦者ってものを味わってもらいたかったんじゃないかな。戦闘だけじゃない。こういう空気も含めて、ね」
なぜそこまでしてくれるのか。
最初に抱いたのはそんな疑問だった。
出会ってから彼には数えきれないほどの悪態をついてきた。誰よりもぞんざいな態度をとってきた。正直に言って嫌われてもしかたないことばかりしてきた。
なのに、なのに──。
「……どうして」
思わず自身の体を抱いてしまった。
そして蘇るのは記憶に新しい感触。特別クエスト中、不覚をとってしまったとき、アッシュが庇ってくれた。あのときに抱かれた感触だ。
思った以上にがっしりとした胸板。
太くて、絶対に折れなさそうな力強い腕。
誰かにあんな風に抱きしめられたことなんて一度もなかった。記憶を残して幾度も転生してきたが、初めての経験だ。
思い出せば思い出すほど心臓の鼓動が早まるのを感じた。これ以上、考えれば自分がどうなってしまうかわからない。そう思ったところではっとなった。
──まだ助けてもらった礼を言えていない。
気づくやいなやアッシュに声をかけようとするが、すぐに思いとどまった。彼の周りには依然として多くの女性たちが集まっていたのだ。
もどかしい、と。
そう思ったのも一瞬。
すべてを塗りつぶすように湧き上がるべつの感情があった。
アイリスは胸に右手の平を当てた。
初めての感覚に戸惑いを感じずにはいられなかった。ただ、それでもこれが──この痛みがどういうものなのかは本能的に感じることができた。
……やはりわたしは。
アイリスはそう右手をぐっと握りしめた。





