◆第五話『ウルの誕生日会』
調理器具を洗い終えた頃には、すでに窓の外が暗くなっていた。おかげで喧噪もなく、自身のため息がよく聞こえてくる。いやになる気持ちを抑えながら、アイリスは居間のほうへと向かった。
食卓には色とりどりの料理が並んでいた。
サラダにスープ。メインの肉や魚料理も少量で数種。それにデザートやジュースまで置かれている。とても1人では食しきれない量だ。
それも当然だった。
すべては本日、誕生日を迎えるウルのために用意したものだからだ。
アイリスは椅子に座ったのち、近場に置いたスープ入りボウルに人差し指の腹を当てた。抜けた熱さを感じながら、つぅーと指を下にそわせる。
「……ばか、ですね」
なぜ料理を作ってしまったのか。
絶対に来るはずがないのに──。
もしかすると気分だけでも味わいたいと思ったのかもしれない。毎年、ウルとの間では恒例の行事だった。主役であるウルがいなかったとしても、変わらない日常を演じたかったのかもしれない。
「いつも喜んで食べてくれていましたね」
大好物のクルナッツを頬張るウルの姿。
何度も見てきたので鮮明に思い浮かべられる。
今回もウルの喜ぶ顔が見たくて、例年以上にクルナッツをふんだんに使った。デザートにジュース、果てはサラダにまでクルナッツを入れている。
あの子は喜んでくれるだろうか。
いや、あの子のことだ。
きっと美味しくなくても喜んでくれるに違いない。
そうしてウルが来たときのことを思い浮かべた瞬間、虚しさと切なさがこみ上げてきた。思わず伸ばしていた人差し指を引っ込め、ぐっと拳を作ってしまう。
どうしてこんなことになってしまったのか。
……いや、答えはわかりきっている。
ウルとの大事な空間に、アッシュ・ブレイブという他者を招き入れた。それだけでも自分の中では異例のことだった。だが、彼がほかの者たちを招き入れようとした瞬間、一気に怒りがこみ上げてきてしまった。
アッシュはよくて、なぜほかの者たちは許せなかったのか。自分でもよくわからなかった。だが、どうしようもなくいやだと感じてしまったのだ。
ただ最近、同じような感情を抱いたことがある。
アッシュにまつわる噂を聞いたときのことだ。
それは彼が〝複数の女性と関係を持つことにした〟というものだった。
アイティエルから諭されたこともあってか、複数の女性と関係を持つことに対してさほど嫌悪感は覚えなくなっている。ただ、どうしても苛立ちが募ってしまっていた。
噂の中では女性たちの名前も明らかになっており、ウルも含まれていた。それが苛立ちの原因になっているのかもしれない。ただ、彼とウルの仲が良いことはずっと前からわかりきっていたことだ。いまさら明確になったところで問題になるだろうか。
いずれにせよ、アッシュと関わると自分が正常でいられなくなっている気がする。
彼には、アイティエルから気にかけてもらっていることでよく嫉妬してしまっていた。それも最近は気にならなくなっていたのだが……。
もう彼には関わらないほうがいいかもしれない。
……そうだ。それがきっと自分にとって最良に違いない。
アイリスは目を閉じてそう決意したのち、すっくと立ちあがった。再び目を開けて映り込んだ食卓の料理を見回す。これらは自己満足のために用意したもので誰が食べるわけでもない。このままでは惨めになるだけだし、もう片づけてしまおう。
そう思って手近な皿に手を伸ばした、瞬間。
カンカン、と鈍い音が聞こえてきた。
玄関の外側に設置した呼び鐘の音だ。
──こんな時間にいったい誰が。
正直、いまは誰とも会いたくなかった。
とはいえ、無視をするわけにもいかない。
やけに重く感じるを足を動かし、玄関に向かった。大きく息を吐いて億劫な気持ちを払い落としたのち、ゆっくりと扉を開ける。
と、思わず目を疑ってしまった。
今日は来ないはずのアッシュ・ブレイブがそこに立っていたからだ。
「……どうして」
「どうしてって約束してただろ」
「ですが、今日はほかの方たちと予定していたはずでは」
「あ~、あいつらとは昼に軽く、な。でも、本命はこっちだ。なにしろ先に約束してたしな」
言って、からっとした笑みを浮かべるアッシュ。
問題など1つもなかったかのような口振りだ。
おかげで先ほどまで考えていたことが吹っ飛んでしまった。思わずぽかんとしたまま、アッシュのことを見つめてしまう。
と、彼の背後から、ひょこっと2つの三角耳が飛び出していることに気づいた。もしかしてと思ったが予想どおりのようだ。ぴょんと跳ねるようにして横にずれ、姿を見せたのはウルだった。えへへ、と彼女ははにかんだような顔を向けてくる。
「アイリスさんがウルの誕生日のことを考えてくれていたってアッシュさんから聞いて、すごく嬉しくなりました。だから、祝われにきちゃいましたっ」
「……ウル」
「でも、もし迷惑だったらごめんなさいです……」
打って変わってしゅんとなるウル。
上目遣い気味にこちらを窺ってくる目は、幼い頃からなにも変わっていない。温かい気持ちで満たされながら、アイリスはふっと微笑みかける。
「そんな、迷惑だなんてことはありません」
「だったらよかったですっ」
ぱあっと顔を明るくするウル。
むしろ今回のことでは祝われる側のウルにまで迷惑をかけてしまった。にもかかわらず、彼女は嫌味の1つも言ってこない。純粋なだけでなく本当に優しい子だ。
ふと視界の下に気になるものが目に入った。
アッシュが両手に提げた2つの大きな籠だ。
「それは……」
「昨日の昼間、俺が余計なことしちまっただろ。だから、もしかしたらって思って用意してきたんだが──」
彼はちらっと家の中を覗いたのち、苦笑する。
「余計だったな。こっちはあとで俺が知り合いに配る」
「べつに無理をしてわたしのほうを食べなくとも──」
「せっかくアイリスが作ってくれたんだ。そっちを食べるほうが美味いに決まってるだろ。な、ウル」
「はいっ! ウルもアイリスさんの作ってくれたものを食べたいです!」
料理は特別得意なわけでもない。
にもかかわらず、当然とばかりに言い切る2人。
それがくすぐったいと感じるとともに、どうしようもなく嬉しいと感じた。
……これではまるでわたしが子どものようですね。
いえ、実際にそうだったのかもしれません。
「ま、クルナッツがある時点でウルの答えは決まってるようなもんだな」
「ウルだってクルナッツ以外のものも美味しいと感じることはあるんですよ」
「じゃあ、明日から3日間、クルナッツ以外でも大丈夫か?」
「そ、そんなことをされてしまったら、ウルはきっと干からびてしまいます……っ!」
いまも目の前ではアッシュとウルが楽し気に話している。もう夜を迎えているというのに賑やかで近所迷惑になりそうなぐらいだ。と、そこでアイリスははっとなり、客人を迎えるのによろしくない応対に気づいた。
「も、申し訳ありません。中にも入れず、こんなところで……さあ、おふたりとも。どうぞ中へ入ってください」
 





