◆第三話『懐かしの宿屋』
蔦付きの壁で区切られた狭い路地。
そこを進んだ先に建つ古めかしい木造の宿屋──ブランの止まり木。
この島に来てからしばらくの間、世話になっていた宿屋だ。おかげで訪れるたびに懐かしい気持ちで胸を満たされていた。
アッシュは扉を開け、先立って宿屋の中に入る。
「よ、元気してたか」
「……アッシュさんですか」
受付に座っていたミルマが読んでいた本から顔を上げた。切り揃えられた前髪に、真っ直ぐに伸びた後髪。さらに憂いを帯びた切れ長の目、となんとも絵になる容姿だ。
彼女の名はクゥリ。
前任のブランに代わってここ《ブランの止まり木》を管理している。
「随分な挨拶だな。いいのか?」
「いいもなにも、あなた相手にいまさらかしこまる必要なんて──」
「邪魔するぞ、クゥリ」
アイティエルが遅れて入ってきた瞬間、クゥリが口を開けて固まった。石化したようにぴくりともしない。と思いきや、ぎろりとこちらを睨んできた。
「いや、なんで俺が睨まれてるんだ」
「だ、だって……どうしてアイティエル様が」
「我がわがままを言って付き合わせた」
こちらのせいではないとわかってもらえたらしい。
クゥリから向けられた怒りの矛が下ろされた。
「休める場所を探している。少し借りてもいいか?」
「も、もちろんです。ですが……本当になにもないところで」
「そんなことはない。ここには色々なものが詰まっている」
アイティエルがまるでしのぶように宿屋内を見回した。
彼女はミルマを娘のようだと言った。そんな彼女が前任のブランが作り上げた空間を愛おしく思うのはなにも不思議ではない。きっとクゥリもアイティエルの想いに気づいたのだろう。嬉しそうに顔を綻ばせていた。
「飲み物をご用意しますね」
「構うなと言いたいところだが、ここは甘えておくとするか」
奥の調理場に入ったクゥリをよそに、アイティエルと対峙する恰好で席についた。昔はここでよくブランの食事を楽しんだものだ。もう何年も前の話なのに、クララが「ひもじぃよ~」と嘆く姿は、いまでも鮮明に覚えている。
「しかし、今日は楽しませてもらった」
アイティエルが左腕で頬杖をつきながら言った。
その腕にはめた淡紅色の腕輪も気に入ったようだ。
右手でさすりながら口元をほころばせている。
「それはなによりだ。神を楽しませるなんてことはしたことがなかったからな」
「我とて普通の人間とそう変わらん」
「島1つ創るやつに言われてもな」
「塔も5本創ったぞ」
大したことはないと言いたげにあっさりしている。
実際、彼女にとってはそのとおりなのだろう。
こんな存在と戦いたいと願う自分が恐れ知らずなことはわかっている。だが、それでも楽しみな気持ちが上回ってしかたなかった。
そんなこちらの胸中を知ってか知らでか、アイティエルがふっと笑みをこぼした。
「ま、我はべつとしてもあやつら……ミルマに限って言えば本当に人とそう変わらん」
「やけに今日はミルマのことを話題に出すな」
「気のせいではないか? 仮にそうだとしてもなんらおかしくないだろう。先にも言ったとおり、あやつらは我の娘のようなものだからな。つい話題にしてしまう」
なにやら芝居じみた話し方だ。
もちろん発言自体は嘘ではないだろうが、なにか思わせぶりな感じだ。その証拠にアイティエルが思いきり意地の悪い笑みを浮かべている。
いったいなにを考えているのか。
彼女の腹を探りはじめてから間もなく、あることを思い出した。それは最近、自分にまつわることで流れている噂だ。
「……やっぱあんたの耳にも入ってんのか」
「当然だ。この島を管理しているのは誰だと思っている」
得意気に、かつ楽し気に笑うアイティエル。
たしかに知られていてもおかしくはない。ただ、相手が俗世とはかけ離れた存在だけに、こんなことが話題になるとは思いもしなかった。
「それにしても9人とは思い切った選択をとったものだな」
「自分でもそう思ってるところだ」
「塔を昇ることしか頭にない奴だとは思っていたからな。このまま独り身を続け、ついには塔の中で孤独死するのではと心配していたぞ」
「正直、それも悪くないとは思うが……俺も一応は男だからな」
約束云々をべつにしても、彼女たちとともにありたいという気持ちはある。いや、積み重ねた年月があるからか、以前よりもそういった想いは強くなっている。つい最近、気持ちを固めたこともあって余計にだ。
「それで、こんな話をするぐらいだ。なにか問題でもあるのか?」
「いや、ただ面白そうだと思って話しているだけだ」
「……館でふんぞり返ってるときと比べて砕け過ぎだろ」
ベヌスの館では、神としての威厳をたっぷりと味わわせてくれるアイティエルだが、外に出れば途端にこれだ。いや、この仮初の姿になれば、だろうか。いずれにせよ、一般的に思い描かれるような神とかけ離れていることは間違いなかった。
「ウルは渡さないとかなんとか言い出すのかと」
「そんなこと言うわけがないだろう。大体、我はミルマと人が結ばれることに関してなんの制限もしていない。大体、この島を創った最大の目的はすでに果たされた。あとは娯楽だ。この島で生きる者すべてが好きなように、楽しく生きられればそれでよい」
そこには下手な思惑など存在しない。
彼女の切なる想いが込められているようだった。
「神っぽくないが、いまじゃあんたが神で良かったと心底思ってる」
「だろう」
誇らしげに胸を張るアイティエル。
きっと彼女が神だからこそこの世界は永らえているし、なにより五つの塔なんて面白いものが生まれた。神への信仰なんてものは自分にはないが、日々、楽しませてもらっている点に関しては感謝の気持ちで一杯だ。
「まあ、ウルはお前にずっと好意を抱いていたからな。仮に制約を設けていたとしても、間違いなく応援していただろう」
優し気にそう語るアイティエル。
その顔は、人の親が子に向けるものとなんら変わりなかった。
「しかし、ミルマからウルだけとはな。我が言うのもなんだが、器量のいい奴らばかりだと思うのだろう。なぜだ?」
「べつに競う必要はないだろ」
「いや、納得がいかん。ほかにはいないのか?」
親バカと呼ばれる者は人にも大勢いるが、どうやら神も同じのようだ。とはいえ、数合わせのために関係を持つなんて相手への配慮がなさすぎる。大体、ウルほどに好意を持ってくれる相手も、持っている相手もほかには──。
ふと、なぜかある姿がちらついた。
怜悧な顔立ちに、後ろでひとつに結われた青みがかった長い髪。
島一の人気店スカトリーゴの看板娘。
アイリスだ。
島に来て間もない頃は理不尽な怒りを向けられてあまり印象はよくなかった。だが、ときを経るごとに彼女の優しさを知り、そしてひどく不器用なことを知った。
いまや、当初に抱いた印象はなくなり親しみを持てている。彼女もまた大切な相談をしてくれるぐらいだし、きっと距離は思った以上に近くなっている。ただ、愛情が介在するような関係でない。
大体、アイリスは主であるアイティエルに心酔している。そのアイティエルからなぜか気に入られていることもあって、敵対的に見られることはいまでも少なくない。
最近、よく話していたこともあって頭に浮かんでしまっただけだろう。彼女だけはないなと思いながら、アッシュは苦笑した。
「なんだ、もしやいるのか?」
「……いや、接点のあるミルマを一通り思い浮かべてただけだ。ってか、そもそもこういうのは無理に見つけるもんでもないだろ」
取り繕ったわけではなく、純粋な考えだ。
おかしいことは言ったつもりはない。
ただ、アイティエルはなにやら考える素振りを見せはじめた。
「ふむ、お前はとくに優秀な人間だ。きっとお前の子も我を大いに楽しませてくれることは間違いないだろう。ゆえに、我としてはお前に可能な限り多くの子を作ってもらいたい」
「いや、待て。だから、まだそういう段階じゃ──」
「そうだ、我とちぎらんか」
なにやらとんでもないことを言い出した。
しかも冗談ではなく、大真面目に訊かれているのがありありと伝わってくる。タチが悪いことこのうえない。思わず唖然としてしまったが、すぐさまはっとなった。がしゃんと室内に破砕音が響いたからだ。
見れば、クゥリが近くに立っていた。
どうやら茶を運んできてくれたようだが、食器を落としてしまったらしい。茶まみれの破片が足元にちらばっている。
「も、申し訳ございませんっ。すぐに淹れなおしてきます……っ」
近くのテーブルにトレイを置いたのち、慌てて破片を拾いはじめるクゥリ。普段の落ちついた彼女には珍しく、危なっかしいことこのうえない動きだ。彼女を手伝わんとアッシュは席を立ち上がった。
「怪我はないか、クゥリ」
「だ、大丈夫です。あの、自分でできますからっ」
「でもな──」
「ち、ちちちっ、父上となられる方にお手伝いをさせるなんて、そんな畏れ多いこと、わたしにはとても……っ」
こちらの顔を見ずに、俯いたまま叫ぶクゥリ。
動揺ぶりからして先ほどのアイティエルの発言を聞かれたことは予想がついていた。ただ、それにしても反応が大げさすぎだ。
アッシュは頭を押さえながら、元凶である神へとゆっくりと目を向ける。
「シャオといいクゥリといい……あんたの娘たち、どいつもこいつも気が早すぎないか」
「うぶで可愛いではないか」
それに関して否定はしない。
ただ、だからといって娘として受け入れるかは別問題だ。
「それで返事はどうなんだ。我とちぎるのか、ちぎらないのか? ああ、そうか。お前はこの姿では劣情しないのだったな。ならば、のちほど本来の姿で──」
「……勘弁してくれ」
本気か冗談かはわからない。
ただ、アイティエルがこちらを困らせるためにやっていたのは間違いないようだ。その純真無垢な幼い顔で楽し気に笑っていた。
「ま、ミルマは全員が我の娘のようなものだ。よければ大切にしてやってくれ」
今日はいきなりデートに誘ってきて何事かと思っていたが……結局、それが言いたかっただけなのだろう。
神自ら出張ってまで言うことなのか。
そんな考えも一瞬だけ浮かんだが、すぐに改めた。
きっとアイティエルにとってそれだけ大切なことなのだろう、と。
ああ、とアッシュは短いながら気持ちを込めた言葉を返した。





