◆第一話『静寂はやがて』
中央広場はすっかり静かになっていた。
聞こえてくるのは噴水の音と酒場から漏れる声ぐらいだ。灯が少なくなったせいか、夜空を彩る星の光もいっそう強く感じられる。
つい先ほど《スカトリーゴ》の片付けを終え、アイリスは中央広場の通りをひとり歩いていた。
こんな夜中とあって酒場以外に開いている店はない。
仮に開いていたとしても寄るつもりはない。
仕事が終われば真っ直ぐ家に帰る。
それが自分の決まった日課だ。
ただ、今日はなぜか足が重く感じた。
かすかに水音が聞こえていたからか。
自然と噴水広場へと足が向いてしまった。
縁の近くに立ち、律動的に流れる水を眺めつづける。
揺れる水盤に映るのは歪んだ月の姿。
動き続けているにもかかわらずなんと静かなことか。
……この胸のざわめきとはまるで正反対だ。
気づけば、右手に結晶の剣を生成していた。
100階の主として君臨する力によるものだ。
本来はこんな場所で出すべきものではない。
ただ、いまは生まれた衝動に任せてしまった。
右手を振り、流れる水へと剣を走らせる。
荒めに薙いだこともあり、わずかながらしぶきが飛んだ。
しかし、それだけだ。
噴水は一瞬にして元の姿へと戻る。
結果的に自身の心の波をさらに際立たせるだけに終わった。いかんともしがたい感情に駆られ、思わずぐっと拳を作ってしまう。
──どうしてあんな態度をとってしまったのか。
昼間のことだ。
店を訪れたアッシュ・ブレイブに理不尽な怒りを向けてしまった。
はっきり言って彼に落ち度はない。
ただ、どうしても彼の顔を見た途端に腹立たしいと感じてしまったのだ。
「やはりわたしを倒した男だから、でしょうか……」
ただ、そうだとしても時間が経っている。
いまさらになって思い返したように怒りが再燃するなんておかしな話だ。ではなぜ──。
「お前がそこまで荒れるのを見たのは初めてだな」
「ア、アイティエル様……!?」
いつの間にかそばに小さなミルマが立っていた。
この島の主であり、また世界唯一の神でもある存在──アイティエルだ。力が戻ったいまでは仮初の姿で出歩く必要はない。だが、〝気に入っている〟という理由だけで彼女はいまも出歩く際は決まって仮初の姿をしていた。
アイティエルがとてとてと近づいてくると、噴水の縁に腰を下ろした。浮いた足を遊ばせながら、くりんとした愛らしい目で見上げてくる。
「邪魔するぞ」
「ど、どうしてこのような場所に……も、申し訳ございません」
アイリスは慌てて右手を後ろに回した。
その手に握っていた結晶の剣を霧散させる。
怒られるかもしれない、と。
身構えていたが、そのときは訪れなかった。
それどころかアイティエルはくすりと笑みをこぼしている。
「しかし、お前も随分と感情豊かになったものだな」
「そう……でしょうか。自分では変わっていないように思うのですが」
「ついこの間まではずっとつまらなさそうな顔をしていたぞ」
アイティエルは世界創生から存在している。
きっと彼女の〝ついこの間〟は数年も前のことに違いない。そして、その期間には大いに心当たりがあった。およそ4年といったところだろうか。
「いったいどうしてだろうな。やはり、あいつが理由か」
「い、いえっ! そういった事実は決してありません。あのような挑戦者……」
「我は〝あいつ〟と言っただけで特定の者を指したつもりはないのだが、いったい誰の顔を思い浮かべたのだろうな」
にやりと口の端を吊り上げるアイティエル。
完全にしてやられた格好だった。
思わず目をそらし、俯いてしまう。
とはいえ、挑戦者の顔を思い浮かべただけだ。
とくに責められる理由もない。ないのだが……。
ひどく居心地が悪くて仕方なかった。
「少し意地が悪かったな。許せ」
「い、いえ、アイティエル様が謝られることはなにひとつありませんっ」
「あやつと……アッシュ・ブレイブとなにかあったのか?」
先ほどまでぼかされていた〝特定の者〟が明らかにされてしまった。もとより気づかれていたのでいまさらだ。ただ、しかと言葉にされたことで恥ずかしい気持ちが湧き上がった。ごまかすように合わせた両手をぎゅっと握りしめる。
「……とくになにがあったというわけではありません。ただ、多くの女性と関係を持つ彼に憤りを感じてしまったのです。この身は人ではありませんが、性別的には女です。そして女として見た彼の行動はひどく不誠実である、と」
「ふむ、つまり嫉妬しているのか」
アイティエルが端的にそう結論づけた。
こちらの言い分とは相反してあまりにあっさりしていて、思わず唖然としまった。が、とうてい受け入れられる言葉ではないと気づき、慌てて口を開く。
「いえ、わたしは嫉妬など……っ」
「よい。我はすべてわかっている」
「ほ、本当にそのようなことは──」
「人の世では英雄色を好むといった言葉があるそうだが、我からすれば逆だ。いい男に女たちが集まる」
まるでアッシュ・ブレイブを肯定するような言い分だ。いや、いま問題にすべき点はそこではない。納得はできないものの〝いい男〟として設定されたアッシュに集まる女の中に、自分が含まれてしまっていることだ。
とはいえ、弁解しようにも、いまのアイティエルに聞く耳はなさそうだった。彼女は飛び下りるようにして噴水の縁から立ち上がる。と、その小さな右手を胸に当て、やる気に満ちた目を向けてきた。
「ふむ、仕方ない。可愛い娘のために我が……いや、このアイティエルちゃんが一肌脱ぐとするか」
「ア、アイティエル様……?」
いったいなにをされるつもりか。
不安で仕方なかったが、相手は主。
この身に止めることなどできはしなかった。





