◆第一話『101階』
お久しぶりです。
本日から番外編としてアイリスメインの後日談を連載します。量としては本1冊分ぐらいです。ただ、だいぶ遊びが入っていたり、ハーレム色も強くなっていたりするのでそういった流れが気になる方にはオススメしない内容となっています。
以上の点をご理解頂ける方のみ読み進めて頂ければ幸いです。
それでは、どうぞ。
風化により朽ちかけた床や壁。そこかしこに巡った力強い蔦。人が生きた痕跡はもはや失われ、ただ忘れ去られるだけの存在と化した広場。だが、そこにはもっとも相応しいはずの静謐さがなかった。
「右の奴は俺がやる! ラピスは左を! レオはそのまま背後の封鎖! クララとルナは全体の支援を頼む!」
「「了解っ!」」
緑の塔101階。
アッシュは仲間とともに転移門前の広場に踏み込んでいた。アイティエルの半身を倒したのが約1年と少し前。あれから幾度も到達しては突破できずにいる難所だ。
厄介なことに転移門はすぐには現れず、時間経過とともに床からせりあがってくる仕組みだ。ちなみにまだ上部の縁しか見えておらず、とてもではないがくぐれる状態ではない。
当然ながらくぐれるようになるまで悠長に待たせてくれるわけもなく……いまも敵に襲わていた。敵は深緑のフードつき法衣に身を包んだ人型──《黄昏の狂信者》、10体。進路の左右に2体ずつ。背後に6体といった配置だ。
どの個体も恐ろしく短い間隔で3発ずつ《ライトニングバースト》を撃ってきていた。おかげで広場は閃光と炸裂音で満ちている。
どれもが11等級相当。1撃でも当たればタダでは済まない威力を秘めている。だが、この敵のもっとも厄介な点は大量の《ライトニングバースト》を放ってくることではない。
いまも飛んでくる光球を最小限の動きで躱しながら、アッシュは自身が受け持つ敵の2体のうち1体に長剣で斬りかかる。敵はとっさに後ずさるが、こちらの振りの速さが上回った。
ローブとその先の敵本体をすっと斬り裂く。が、空気を斬ったような感触しかなかった。血も飛び散らず、ただ黒い霧があふれるのみ。傷つけた感触はまるでない。だが、幾度もの交戦から有効なことは実証済みだ。
「6ッ、7……8、9ッ! ルナッ!」
アッシュは9度目の攻撃を与えたところで叫んだ。ほぼ同時、こめかみのすぐそばを炎をまとった矢が翔け抜けた。ルナの放ったものだ。風によって髪が舞う中、敵の顔面に矢が見事に直撃。およそ人とは思えないほどの慟哭をあげながら敵が崩れ落ちていく。
《黄昏の狂信者》はどれだけ強力な攻撃を加えようとも、10回損傷させなければ消滅しない。さらにもう1つ面倒な特性を持っている。それがわざわざルナにトドメを任せた理由だ。
《黄昏の狂信者》は消滅する際に強烈な《グラビティ》を展開。周囲のものを引き寄せたのちに自爆する。その威力は凄まじく、一度だけ体験したレオが瀕死になったほどだ。レオ以外が受ければ間違いなく即死する。
だが、11等級装備の中で唯一オーバーエンチャントに成功したルナの弓には、射抜いた対象を魔法使用不可にする《沈黙》効果が付与されている。
頭部に命中時のみという条件つきなうえ効果時間が1拍程度とほぼ一瞬だが、ことこの《黄昏の狂信者》を倒すには打ってつけの効果だった。
眼前の《黄昏の狂信者》が《グラビティ》を発生させずに消滅していく。こちらの担当は残り1体。
「──8、9……ルナっ、こっちもお願い!」
ラピスもまたルナの援護を得て1体を処理し終えたようだ。互いに担当は残り1体ずつ。一刻も早く処理しなければレオの身がもたない。
いまも後方からはけたたましい轟音が響いてきている。敵の特性上、むやみに倒すことはできない。レオに敵を倒さずに受け持ってもらっているのもそのためだ。
念のため、クララに《ストーンウォール》で壁を造ってもらってはいる。だが、敵の攻撃があまりに多すぎるうえに出すたびに破壊されている状態だ。すべてを防げているわけではない。
「レオさん、大丈夫!? 《ヒール》かけたほうがいい!?」
クララが不安げな声とともに叫んだ。治癒魔法の《ヒール》は敵の注意を引きつけやすい。11等級からはとくにだ。ゆえに、可能な限り《ヒール》を使わないようにする必要があった。炸裂音に紛れる格好でレオの苦し気な声が返ってくる。
「だいじょう……ぶっ、だよ! これぐらいアッシュくんのしっぺに比べれば痛くも痒くもないさ……っ!」
「とりあえずまだまだ元気そうだね!」
クララの言うとおり軽口を言うぐらいだ。レオにはまだ余裕がありそうだ。とはいえ、あの《ライトニングバースト》の嵐はいつまでも耐えられる攻撃ではない。
「時間がない! 一気に仕留めるぞ!」
「ええっ! ルナ、アッシュより遅れてるから、こっちに2発だけお願い!」
「了解! 合間に撃つからこっちのことは気にせずに!」
ラピスは敏捷性に特化し、その動きはもはや通常の人間の域を遥かに超えている。そんなラピスの動きにあわせて矢を放てるルナの技量もまた頭抜けている。
ともに世界最強。いや、2人だけではない。クララやレオもまた自身の道で最強をひた走っている。100階を攻略してからも仲間たちの成長は止まっていない。それもこれも新たに目指すべき場所ができたからだ。
戦闘中にもかかわらず、アッシュは思わず口元を綻ばせてしまった。たとえ仲間であっても負けたくはない。こと戦闘においては誰にも──。
敵が後退するたびに接近。浴びせるように斬撃を繰り出し、ついに8度目の損傷を与えた。苦し紛れに放たれた《ライトニングバースト》が眼前に迫る。とっさに身を倒し、地を這うように疾駆。接近と同時に敵へと斬り上げを見舞った。
「ルナッ!」
さすがというべきか。ラピスのほうを気にかけていながら、こちらの戦闘状況も把握していたようだ。合図を送るよりも早くルナの矢がそばを翔け抜けていった。ごうっと勇ましさを孕んだ火炎矢が敵の顔面へと命中する──。
直前、敵の足元から浮き上がった影が矢を防いだ。じゅぅと音をたてながら矢が勢いを失ったとき、影の正体があらわになる。樹の根だ。まるで触手のようにしなるそれのもとを辿ったとき、転移門を塞ぐ形で大きなナニカが床から現れた。
全身が根で出来ていることからエントを思い出すが、こちらは頭部と手足がくっきりと判別できて人型に近い。ただ、目や口に関しては獰猛な獣を思わせる荒々しさがあった。目は赤く光り、口からは黒々とした牙が覗いている。
「な、なにあれ……あんなの初めて見たんだけどっ」
「あれは俺が受け持つ!」
クララの驚愕する声が響く中、アッシュはすでに動き出していた。あの敵がもっとも脅威となることは覚える威圧感から明白だ。
「ルナはさっきの奴のトドメを頼む!」
「やってるけど、そいつに防がれてる!」
「こっちも根が邪魔してっ、攻撃が届かない……!」
根の人型は左右に伸ばした両手で《黄昏の狂信者》2体を守っていた。ルナの矢も、ラピスの槍も完全に弾かれてしまっている。守られた《黄昏の狂信者》がここぞとばかりに攻勢へと転じ、放つ《ライトニングバースト》の数を増やしている。
左右の《黄昏の狂信者》を倒すには、この根の人型を先にどうにかする必要があるようだ。アッシュは肉迫と同時に敵の左右両腕へと剣を走らせた。わずかな抵抗はあったが、それほど硬くはなかった。
胴体と切り離された敵の両腕が、落下を始める。かと思いきや、胴体から根がしゅるしゅると伸び、瞬時に結合しなおしてしまった。厄介な能力だが、再生する敵はこれまで何度も見てきた。アッシュは動揺もなく、敵の首を刎ねんと剣を薙ぐ。
直前、敵が大きく開いた口から緑色の光線を放ってきた。予備動作がほとんどなかったこともあり、反応がわずかに遅れた。身をよじるが、右腕へと直撃してしまった。とてつもない衝撃が襲いくると同時、パリンと破砕音が響く。
発動した《アイティエルの加護》が壊れた音だ。おかげで傷はないが、衝撃は防ぎきれなかった。体を回す格好で弾き飛ばされ、剣も放してしまった。金属音を響かせながら後方へと滑っていく。
「アッシュくん!」
「──大丈夫だっ!」
悲鳴じみたクララの声に、アッシュはすぐさま跳ね起きて応じた。さすがに肝が冷えたが、止まっていられるほど余裕はない。あの敵が仲間たちを標的にすれば一気に崩れる危険がある。休む間もなく、即座に敵との距離を詰めんと駆けだす。
「アッシュ、剣!」
ルナの声が聞こえてきたかと思うや、後方から剣が飛んできた。ルナが《黄昏の狂信者》を牽制しながら、先ほど落としてしまった剣のほうへ近づいているのは見えていた。彼女ならきっと投げてくれるだろうと信じていたが……さすがだ。
アッシュは飛んできた剣をしかと掴み取るや、その勢いのまま敵へと斬りかかる。先ほどと同じ首を刎ねる軌道だ。またも敵の口から光線が放たれたが、2度目とあって紙一重のところで躱せた。振り切った剣によって敵の頭部が胴体と一瞬離れた。かと思うや、腕と同様にまた伸びた根によって結合しなおしてしまう。
──不死身か。いや、決めつけるのはまだ早い。
敵の口から放たれる光線や体から伸びる根の触手攻撃をさばきながら、アッシュは声を張り上げる。
「クララ、1発でいい! こいつに向かって《フレイムバースト》を撃ってくれッ!」
「わ、わかった!」
命中率をあげるため、敵の注意を引きつけんと数多の剣撃を浴びせ続ける。と、真後ろに強大な熱を感じた。クララの《フレイムバースト》だ。アッシュはぎりぎりまで接近したのを機に屈んだ。頭上を通り過ぎた《フレイムバースト》を追う形で剣を振り下ろす。
限界まで注意を引き付けたかいあって、《フレイムバースト》が敵へと見事に衝突した。轟音が響き、敵の胴体を中心とした多くが炭化したように黒ずむ。間髪容れずにこちらが振り抜いた剣が、敵の頭部から正中に両断した。並の敵であれば、これで消滅するはずだが──。
左右に分かれた敵の体は伸びた無数の根によってすぐさま元通りになってしまった。それどころか反撃とばかりに口から光線を放ってきた。アッシュは横に身を投げてなんとか躱しきる。
「くそ、ダメか……っ!」
思わず舌打ちしてしまう。再生が機能しなくなる、もしくは遅れることを期待していたが、どうやらそういった弱点はないようだ。ほかに的確に倒すすべはあるのかもしれないが、案もなければ探す時間もない。
「アッシュ、転移門! もう通れるかも!」
飛んできたラピスの声に誘われ、転移門のほうへと目を向ける。と、上部の縁が人の腰程度までせりあがっていた。門の虹色の膜もしかと見える。滑り込めばなんとか通れなくもない。こうなればもう選択肢はひとつしかない。
「残った敵は無視する方向で動く! ルナ、ラピスはそのまま左右の狂信者の注意を引き続けてくれ! レオは少しずつ転移門側へ移動! クララはそのままレオの援護を頼む!」
左右でラピスとルナが《黄昏の狂信者》から放たれる《ライトニングバースト》を躱し続ける中、アッシュはなおも根の人型を相手にしていた。こちらの攻撃が通じないことはわかっている。だが、仲間に標的が移らないようにと、敵の両腕や首、迫りくる触手を幾度も斬りつづける。
窮屈な状態が続く中、ついにレオがそばまで近づいてきた。あとは隙をついて転移門へと駆け込むのみ。そうして次なる段階への機をはかりはじめた、瞬間。
根の人型の背から3つの巨大な手が生成された。その手をもって直接攻撃してくるのかと警戒したが、違った。3つの手は上向けられ、その先の天井で個々に巨大な岩石を生成しはじめた。人が何十人と集まっても敵わないほどの大きさを持つあれは──。
緑の10等級魔法、《メテオストライク》だ。
「ここでかっ! クララ、ルナッ!」
指示を出すよりも早く2人は動いてくれていた。クララは10等級の《スーパーノヴァ》、ルナは血統技術の《レイジングアロー》を1発ずつ、いまも落下してくる巨大隕石へとぶつけた。
広間に満ちる、耳が潰れるのではと思うほどの激しい破砕音。明滅する光もまた凄惨な状況を彩っていたが、戸惑っていられるほどの余裕はない。
「いまだ! 走れぇえええ──ッ!」
アッシュは喉が潰れるほど叫んだ。仲間たちが一斉に転移門へと駆け出した。レオを逃すまいと6体の《黄昏の狂信者》たちが《ライトニングバースト》を放ってくるが、クララによる《ストーンウォール》で多くが相殺されていた。
そばをレオが駆け抜けていく。このままあとを追いたいが、眼前の根の人型を放置するわけにもいかない。レオが安全圏に辿りつくまで相手をする必要がある。
敵は先ほどよりも明らかに狂暴になっていた。吐き出す光線の頻度が激増している。さらに《メテオストライク》を放って暇になったか、背中から生えた3つの手も襲いかかってきていた。
どれも読みやすい攻撃だが、体が追い付いてくれなかった。再生成されたばかりの《アイティエルの加護》が壊された。響く破砕音とともに思わず舌打ちをしてしまう。
「早く、アッシュくんも!」
レオの焦る声が聞こえてきた。どうやら転移門近くまで辿りついたようだ。すかさずアッシュは輝きの増した剣を薙いだ。10回の攻撃を加えることで発動可能となる、ブレイブの血が紡いできた最高の剣技──《ソードオブブレイブ》だ。
その威力はただの攻撃とは比べ物にならない。敵の胴体が切断箇所を境に荒々しく弾け飛ぶ。ただ、欠損した状態は長くは続かなかった。瞬きするうちに敵の胴体は繋がってしまう。
《ソードオブブレイブ》の威力をもってしても瞬時に再生されてしまうのはさすがに理不尽さを感じたが、予想できた結果だ。
アッシュは剣を振った勢いを利用し、そのまま反転。敵に背を向けて走り出した。すでにクララとレオが転移門に張りつき、ラピスとルナも左右の狂信者から飛んでくる《ライトニングバースト》を回避しながら転移門のそばで待機している。全員がいつでも飛び込める状態だ。
──あとは俺だけか……!
この身が転移門に辿りつけば全員が中へと入れる。急がなければ、と。そう思いながら駆け続け、あと大股5歩程度で辿りつくというとき。ラピスとルナの驚いたような声が聞こえてきた。さらに──。
「え、えぇ……!? 根の人型が狂信者を攻撃してるんだけどっ!」
クララの驚愕する声が広間内に響き渡った。一瞬、理解できず、思わず肩越しにちらりと後方の様子を窺ってしまう。と、なぜクララが動揺したのかを充分に理解できた。
根の人型が、その触手で残った8体の《黄昏の狂信者》たちを突き刺していたのだ。レオが相手にしていた部屋の入口付近の6体には10本ずつ。左右の個体には2本ずつ。つまりすべての個体がちょうど消滅する本数だ。
きぃんといやな耳鳴りが響いたかと思うや、全身にとてつもない圧が襲ってきた。おそらく《グラビティ》が発生したのだ。
数が数なこともあってか、いままでに感じたことのない力で引っ張られている。1つであれば、わずかに抵抗する余地は残っているが、今回に限ってはもはや抵抗すら無意味と思えるほどだ。
すでに転移門に辿りついた仲間たちが遠ざかっていく。全力で走っていたというのに、あと少しで届かなかった。湧きおこった悔しさに胸中を支配されそうになるが、それらを振り落とした。いまは自分よりも仲間のことだ。
「いっ──」
「アッシュ、掴んでッ!」
行け、と口にしようとしたとき、視界に1本の槍が飛び込んできた。これはラピスのものだ。見れば、転移門からレオ、ルナ、ラピスの順で手を繋いで距離を稼いでいた。
「う、腕がちぎれそうだよ……!」
「こっちも長くはもたないかも……っ」
レオとルナの苦痛に耐える声が聞こえてくる。
もはや迷っている時間などない。
「頼むっ!」
アッシュは差し出された槍をしかと掴んだ。しかし、《グラビティ》による力は凄まじく、その場に留まるだけで精一杯だった。このままでは身がちぎれるか、《黄昏の狂信者》の自爆に巻き込まれるだけだ。いますぐにでも門に飛び込まなければ全滅してしまう。
「まさかここで使うとは思ってなかったけどっ!」
そう叫んだのは1人だけ門に全身でしがみついたクララだ。なんとも情けない姿だが、それがすでに仕事をこなしたあとだと気づいたのは轟くような音が聞こえたときだった。
背後から聞こえてくる耳朶を打つような激しい水音。これは予め《グラビティ》対策のひとつとして持ってきてもらっていた魔法──《ツナミ》だ。どうやら入口側から転移門に向かう形で放ったようだ。
すでに展開された《グラビティ》もろとも、《黄昏の狂信者》と根の人型を呑み込む《ツナミ》。その勢いは止まることなく押し寄せ、ついに間近に迫った。この瞬間を逃せばあとはない。アッシュは腹の奥底から声を張り上げた。
「飛び込めぇっ!」
◆◆◆◆◆
「ようやく、か」
アッシュはそう呟きながら、右掌に浮かび上がった102の踏破印を握りしめた。これまででもっとも突破に時間のかかった階だ。湧きおこる達成感も相当なものだった。
「今回ばかりは本当に死ぬかと思ったよ~」
「だね。塔内の最後のあれは、さすがにボクもひやひやしたかな」
「そうね、この変態が機転を利かしていなければ、今頃どうなっていたか」
「あの~、ラピスくん。褒めてくれてるのか貶されてるのかわからないよ……」
振り返れば、仲間たちが疲れ切った様子で床に座り込んでいた。いましがた101階から102階へと繋がる柱廊を上がり終えたばかりだ。無理もなかった。
「貶されたくないなら、いきなり脱ごうとするのをやめるべきだな」
レオは踏破印を刻むなり、上半身の鎧を外していた。ラピスが〝変態〟と罵ったのもそのためだ。
「これ以上は脱ぐつもりはないよ。朝からずっと動き続けで少しむれて気持ち悪くなっちゃってね」
「ならいいんだが。いつもがいつもだからな。全部脱ぎはじめるのかと思った」
「さすがに僕も敵が間近にいるところで全裸になるつもりはないよ」
「敵がいなくても近くに人がいたら普通は脱がないからな」
「大丈夫。女性の前では脱がないから」
それは大丈夫とは言わないだろう。なんて突っ込んだらまたレオが限定する枠を狭め、「アッシュくんの前だけにする」なんて面倒な発言をしてくることは必至。ここは放置するに限る。なんてことを考えていたときだった。
きゅぅ~、と可愛らしい音が聞こえてきた。これはまさしく腹が減ったときに鳴る音だ。常日頃から魔物との戦闘で聴覚を磨いていることもあり、出所を探るのはひどく容易だった。仲間全員の視線を一身に集めた──クララが赤面しながら必死に首を振る。
「あ、あたしじゃないよ」
「クララ、ちょっと無理があるかも」
「うぅ……」
ラピスの非情な一言でクララが轟沈した。両手で腹を押さえながら俯いてしまう。よほど恥ずかしかったのか、耳まで真っ赤にしている。
出会った頃から、もっとも見た目が変わったのはクララだ。身長もほんの少しだが伸びたし、顔つきもいくらか大人びた。胸のほうも子供とは言えないほどにまで豊かになっている。さらに言えば髪も腰に届くほどまでになっている。ただ、中身は昔のままなところが多い。
「でも、早朝からなにも食べずに来たし無理もないよ。ボクもお腹ぺこぺこだし」
「でしょー! ほら、あたしだけじゃなかったっ」
ルナの援護を得て、一転して強気になるクララ。こういうところが昔から変わっていない。クララらしいと言えばらしいのだが。アッシュは内心でくすりと笑いつつ、柱廊の外側へと目を向けた。すでに星がくっきりと見えるほどに空は暗くなっている。
「っても、もう日をまたいでるっぽいし、どこも開いてないだろうな」
「家に少しだけ備蓄があるから、それでなにか簡単なものでも作るよ」
「悪いな、いつも。ルナも疲れてるだろうに」
「ううん、好きでやってることだしね。それに本当に軽いものだから」
にこりと微笑を浮かべるルナ。もともと荒々しさは少なかったが、ここ最近は随分と所作が上品になってきている。クララほどではないが肩を少し越す程度まで伸ばした髪のせいもあるかもしれない。1つに結って、いまは胸にかかる格好で垂らされている。
「わたしも手伝うわ、ルナ」
「助かるよ、ラピス」
手伝いを申し出るラピス。変わったのは彼女もだ。いや、よく髪型を変えるようになったというほうが正しいか。一時期は肩にかかるほどまで切っていたこともあったぐらいだ。
いまはジュラル島で再会した頃と同じ長さに戻ったが、くくらずに下ろした形だ。ただ、どうなっているのかわからないぐらい精緻に編み込まれている。正直、これから舞踏会に行ってもおかしくはないほどのめかしようだ。
ラピスに続いて、クララが「あたしもあたしもー!」と名乗りを挙げる。すでに夜は深いが、ログハウスが賑やかになることは間違いなかった。と、そうして女性陣が盛り上がる中、視界の端で少しだけ寂しそうな顔をするレオが映った。
「レオも来いよ」
「い、いいのかい?」
「いいもなにも誘わない理由がないだろ」
「アッシュくん……!」
感極まったように目を潤ませるレオ。その勢いのまま近づいてくるや、手を伸ばしてきたので叩き落としておいた。
「いたっ! いまのは許してくれる流れじゃないのかいっ!?」
「いや、そっちを誘った覚えはないし、第一そんな流れになることは絶対にないからな」
本当になにも変わっていないのはレオぐらいだ。変わらないことで得られる安心感はあるものの、こと尻を触ってこようとする点だけはぜひとも変わってほしいところだ。
「うし、そんじゃさっさと帰るか」
仲間たちに声をかけ、塔から帰還せんと柱廊の外側へ歩き出したそのとき。前方の虚空がふっとぼやけると、人型を模すように色がつきはじめた。
後ろで一つに結われた青みがかった長い髪。楚々とした給仕服に身を包むすらりとした体。そして三角の耳に細長い尻尾。眼前に現れたのは神アイティエルの使いとして、このジュラル島で挑戦者をサポートしているミルマ──アイリスだ。
「思っていたよりも突破に時間がかかりましたね」
「アイリス? どうしてお前がここに……」
そう問いかけると、アイリスの眉間に皺が寄った。
「わたしが来たらダメな理由でもあるのですか?」
「いや、べつにそういうわけじゃないが」
アイリスはこの世界において唯一の神であるアイティエルの側近だ。わざわざ試練の間でもない101階の突破を祝うために来るとも思えない。ほかになにか理由があるのではと考えての疑問だったのだが……。
なにやらアイリスにはそれがひどく不満だったらしい。これは当分の間、彼女が看板娘として働く《スカトリーゴ》でまた肩身の狭い思いをさせられそうだ。
アイリスはまたもや睨んできたのち、ふぅと怒気を抜くように軽く息を吐いた。それからいつものごとく氷のような顔に戻すと、事務的な口調で話しはじめた。
「アイティエル様がお呼びです。これから館に来て頂けますか?」
1月3日まで毎日。
そこからは隔日更新予定です。
明日からは12時更新となりますのでよろしくお願いします。





