◆第五話『世界の綻び』
アッシュはため息まじりに委託販売所をあとにした。
そのまま北通り脇に置かれたベンチにどかっと座る。
目の前に建っているのはベヌスの館だ。
昼過ぎという中途半端な時間とあってか、クエストを受注しに出入りする挑戦者はそう多くない。陽射しを受けるだけの、のどかな時間が過ぎていく。
100階突破から2日が経った。
神との戦いを10日後に控えているため、体がなまらないようにと今朝も少し塔で魔物を狩ってきたところだ。ただ、昨日も今日も、どこか戦闘が空虚なものに感じてしかたなかった。選んだのは99階と決して弱くはない魔物がはびこっているにもかかわらずだ。
こうしてひとり散歩をしているのも、このもやっとした気持ちをどうにか処理したいという考えからだった。ちなみに結果はというと、なにも解決していない。
どうしたものか、と半ば無意識に視線を上げると、島の北端にそびえる白と黒の塔が映り込んだ。さらに視線を上げ、それら2つの塔の頂をじっと見つめていたときだった。
「こんにちはです、アッシュさん」
ふいに横合いから声をかけられた。
見れば、そこには穏やかな笑みを浮かべたウルが立っていた。
「お、ウルか」
「はい、ウルです。どなたかと待ち合わせですか?」
「適当に散歩中だ。といってもいまは休憩中だが」
肩をすくめつつそう答える。
と、ウルがもじもじとしながら窺うような目を向けてきた。
「あ、あの……お隣に座っても構いませんか?」
「仕事はいいのか?」
「と~っても忙しいのですが、たまたまいまは空いている感じです」
「それは幸運だ」
ウルが意地を張ったのは間違いなかったが、あえて詰問せずに答えた。そのせいか、ウルは罪悪感をわずかに覚えたようだ。ばつが悪そうに目をそらしつつ、隣に座る。
「なんだか浮かない顔ですね」
「やっぱりわかるか」
ウルはのほほんとしているが、他人のことをよく見ている。きっと声をかけてきたのも、こちらの様子を見てのことだろう。そうした彼女の気遣いはひどく心地良い。おかげで、気づけば胸中にたまったものを吐きださんと口が動きはじめていた。
「この島じゃ装備を集めて強化することが自分を強化することにも繋がってただろ。それが最高の装備をやるって言われて、なんか手持ち無沙汰な感じなんだよな」
この短期間でできることは体を維持することだ。下手に強化しようと過度な運動をすれば疲労がたまり、当日に最高の状態で挑めなくなる。つまり、端的に言えば力を持て余した状態というわけだ。
「アッシュさんは、本当にアッシュさんですね」
ウルがくすりと笑みをこぼしたのち、続ける。
「初めて会ったときから全然変わりません。まるで子どものように純粋な目で、塔の頂を――いえ、もっと上を見ていて。ウルにはそれがとても眩しかったのですが、同時にすごくいいなとも思っていて。だから、ウルは……」
おもむろに向けられた彼女の瞳は、いつの間にか熱を帯びていた。そのまま無言で少しの間、見つめてきたかと思うや、彼女ははっとなった。
「あっ、子どもっていうのは、けなしているわけではなくてっ」
「わかってる」
流れをぶった切る彼女の発言に、思わずふっと笑ってしまった。
ウルが俯いて「うぅ」と唸りはじめる。空気を壊したことか、あるいは言葉選びを間違ったと思ったのか。いずれにせよ、彼女らしい結末だ。
普段どおりのウルを見たおかげだろうか。
先ほどまで胸中に溜まっていたもやがいくらかマシになっていた。
「ま、ウルたちミルマの悩みに比べりゃ、大したことはない悩みだ」
背もたれに身を預けながら、空へとそう吐きだす。
それは自然と出た言葉だったが、連想して最近ずっと抱いていた疑問を思いだした。
「やっぱりアイリスと同じように、ウルも自分の手でアイティエルを助けたいって思ってるのか?」
「はい、それはもちろんです。アイティエル様はわたしたちの主ですから。ただ……アイリスさんは、ウルたちよりもずっと辛い想いをしていると思います」
「……どういうことだ?」
多くのミルマがいる中でなぜアイリスだけなのか。
ウルは少しだけ沈黙したのち、静かに語りはじめる。
「わたしたちミルマは老いとともに天へと還り、そしてまた新たな命を授かります。その際に記憶は消えてしまうのですが、本質が変わることはありません」
「本質……性格ってことか」
「そうとってもらって構いません。おそらく人の間で魂と呼ばれているものと同じだと思います」
変化が訪れにくくはあるが、安寧が保障された仕組みとも言える。なにしろ悪いミルマが生まれないからだ。ジュラル島を長く維持するためには、とても理にかなっている。
ウルが「ただ」と話を継ぐ。
「そんな中でアイリスさんだけは多くの記憶を残して何度も生まれ変わっているのです」
「どうしてアイリスだけが?」
「アイティエル様に残されたお力があまりないためです。それゆえ、アイティエル様をお護りするという理由から、もっとも力のあるアイリスさんが選ばれたのだ、と。そう、ウルは聞いています」
「……そういうことか」
ようやく納得がいった。
アイティエルが負の力に染まった自らの半身を封印することに、どれだけの負担を抱えているのかはわからない。ただ、規模が規模だ。おそらく想像もつかないほどの苦しみが彼女を苛んでいることだろう。
そんな彼女のそばにずっといながら、アイリスは何十年……何百年という長い間、解決できずにいたのだ。募った悔しさははかりしれない。
このジュラル島を訪れたのは己の力を試すためだ。
叶うのなら、あまり余計な感情を挟みたくない。
だが、塔の頂を越え、神との戦いの舞台まで辿りつけたのは、仲間と……そしてジュラル島で出会った多くの挑戦者たちとの繋がりがあったからだ。
……上手くいかないもんだな。
そう胸中で自嘲しながら、アッシュは人知れず拳を作った。
瞬間、視界が上下に大きく揺れた。
それも一度ではなく、荒々しく何度も続いている。
巨人が地面を踏み荒らしているなんてものではない。
島が――いや、世界が揺れているような感覚だ。
気づけば辺り一面に影が差していた。
弾かれるように見上げた先、空が黒い雲に覆われていた。





