◆第六話『天上の守護者へと、いま再び』
中央広場は赤みを帯びた夕刻から、暗がりを黄金色で照らした夜へと移っていた。
交換屋や鍛冶屋、雑貨屋を始めとした店が閉まる中、飲食店が活気を見せはじめる。中でももっとも賑わっているのは、南東に構えた飲食店の《スカトリーゴ》だ。
夜の部が開店した直後は、いつも列ができるほど挑戦者やミルマが殺到している。本日も例にもれず席が埋まっているようだが、普段はあるものがそこにない。その差異とは、いま目の前に立っているミルマだった。
「……いったいなんの用ですか? いま、一番忙しい時間なのですが」
声をかけてきたのは《スカトリーゴ》の看板娘――アイリスだ。相変わらずの不機嫌な表情だが、今回ばかりはこちらに非がある。
「悪い。眠る前に対戦相手の顔を拝んどこうと思ってな」
言いながら、アッシュは噴水の縁からすっくと立ち上がった。
明日、2度目の100階戦が行われる。始まれば日常からかけ離れた殺伐とした時間が続く。互いに戦闘後にどうなっているかもわからない。ゆえに、いまのうちに彼女と少し話したいと思ったのだ。
「うなされて眠れなくなるのでは」
「あ~、普段の嫌味を思いだしてってことか。たしかにそっちは考えてなかったな」
「……前回、なにもできずにわたしに負けたのを忘れたのですか」
軽口を躱すだけでなく、こちらにとって苦い思い出を突きつけてきた。アッシュは湧きあがる悔しさを押し留めることなく、言葉にして静かに吐きだす。
「忘れるわけないだろ。あそこまで一方的に負けたのは初めてだったからな」
「無理もありません。あなたとわたしの差は天と地ほどあるのですから」
「ああ、いやってほど思い知らされた」
「いっそ諦めてしまえばいいのでは。100階に辿りついただけでも大したものだと思います」
「ここを越えればついに神と戦えるんだぜ。こんな楽しいところで諦める奴がいるかよ」
ジュラル島に来る前からそうだが、来てからも気持ちは変わっていない。見据えていたのは塔の頂。そしてその先で待ち構えている神だ。
いったいどんな姿をしているのか。
いったいどんな攻撃をしてくるのか。
いったいどれほど強いのか。
神に近づけば近づくほど妄想は広がっていく。もはや、この気持ちを押し留めることなどできはしない。そうした気持ちを隠すことなく顔に出し、言葉に乗せた。
アイリスはどこか戸惑うような表情をしていた。
普段とは違う彼女の表情とあって、もう少し見ていたい欲に駆られた。だが、いつまでもその時間は続かなかった。
急に地面がぐらぐらと揺れはじめたのだ。
アイリスも不意を突かれたようだった。
慌てて足を動かし、その場に踏みとどまろうとする。
アッシュはとっさに彼女の腕を掴み、支えた。
彼女ほどの強者であれば、支えなど必要はなかったかもしれない。だが、反射的に動いてしまったのだ。
揺れはとても強く、まるで世界が揺れているのではないかと思うほどだった。《スカトリーゴ》から聞こえていた楽しげな声も動揺と恐怖に移り変わっている。
いつまでも揺れつづけるのではないか。
そんな考えが頭の中を過ぎったとき、ちょうど揺れが収まった。
「ジュラル島でも地震なんか起こるんだな」
世界中を旅していたとき、地震に見舞われることは幾度かあった。ただ、そうそう出くわすものではない。せいぜい両手の指で足りる程度だ。
「っと、大丈夫だったか」
アイリスの腕を掴んだままだったことを思いだし、安否を窺った。
彼女は地震が起こっている間、俯いたままじっとしていた。
まさか怯えているなんてことはないだろう。
そう思った矢先、彼女はすっと離れた。
さらに顔を上げ、鋭い目を向けてくる。
「そんな遊び感覚でわたしに勝てると思っているのですか」
地震が起こる前とは違い、声に力がこもっていた。
強い憤りが混じっているのはわかる。
ただ、それ以上にもどかしさが窺えた。
「たしかに遊びに近いかもしれない。けど、アイリスに勝ちたいって気持ちは本当だ」
彼女がいま、なにを考えているのかはまるで想像がつかない。だが、こちらとて想いの強さで負けるつもりはなかった。
「……わたしは、あなたにだけは負けたくありません」
アイリスがそう言い残し、くるりと背を向けた。
後ろでひとつに結った長い髪を揺らしながら、《スカトリーゴ》へ戻っていく。
ミルマたちが100階を守っているのは神に命じられたからだと思っていた。だが、アイリスを見る限り、そういうわけではないようだ。
彼女に勝てば、その理由を知ることができるだろうか。
アッシュはそんなことを考えながら、中央広場をあとにした。
◆◆◆◆◆
「今度は勝てる、よね」
「そのための準備をしてきたんだ。きっと大丈夫だよ」
「ええ、わたしたちは強くなった」
「そのとおりだ。僕たちならきっと勝てる」
「――みんな、今度こそ全員で勝って戻ってくるぞ」
中央広場で仲間と勝利を誓い合ったのち、各々が担当する塔へ向かった。
アッシュは白の塔に到着し、管理人に頂への道を塞ぐ壁を開けてもらった。現れた階段を上がっていく。
初めてのときとは違って不思議と緊張感はない。あるのは、すぐにでも戦いたいという欲求だけだ。それも階段をひとつ上がるたびに強くなっていく。
目も向けられないほどに完敗したあの日から、ずっと勝つための準備をしてきた。これだけ足踏みをしたのも初めてだったし、なによりこれほど勝ちたいと思った相手と出会ったのも初めてだった。
階段を上がりきると、初めてのときと同様に朝陽が迎えてくれた。視界の多くが赤で埋め尽くされた中、頂の中央に人影がぽつんと佇んでいる。
「あんたがどんな想いでそこに立っているかは知らない。けど、俺はあんたに勝つためにずっと準備してきたんだ」
アッシュは鞘から剣をゆっくりと引きぬいた。
朝陽の赤い光を受けて煌めく切っ先を、人影――頂の守護者へと向ける。
「思いっきり楽しませてもらうぜ、アイリス」





