◆第十一話『最後の99階』
10日後。
黒の塔99階にて。
各塔の最奥でもお馴染みとなった階段。
その最後となる3段目の床に全員が乗った、そのとき。
途端に足場がうねるように動きだした。
一瞬、床が空を飛びだしたのかと思ったが、そうではない。いつの間にか階段状だった足場が連結し、またざらついた鱗に変化している。
キシャァ、と耳を舐めるような不快な音が聞こえてきた。音の出所である転移門の遥か向こう側に目を向ければ、巨大な蛇の顔がこちらを睨んでいた。大口を開け、細い舌をちろちろと伸ばしている。
「こ、こんなでかい蛇見たことないんだけどっ」
クララが悲鳴のごとく叫ぶ。
いま足場にしているものと蛇の頭部が繋がっている。つまり――。
「この足場、あの蛇の体ってことかっ」
尋常ではない大きさだ。
いま足場にしている箇所でも横幅が試練の間のものより広いのだ。先ほどぱっと振り返ってみたが、蛇の尻尾は視認できなかった。つまりそれほど長いということだ。
ぐんっと体に上方から圧がかかった。
蛇が体を波打つように持ち上げたのだ。
息つく間もなく今度は蛇の体が下に戻ろうとしている。
このままでは上方へ打ち上げられてしまう。
「クララッ! 全員に《グラビティ》ッ!」
とっさに指示を飛ばした。
それからクララが《グラビティ》を全員にかけたのと、蛇の体が下に落ちはじめたのはほぼ同時だった。
全員がはいつくばる格好になる。思っていた以上に猛烈な勢いだ。《グラビティ》のせいで体が押し潰されそうだが、これがなければ間違いなく打ち上げられていたし、そうでなくとも体から剥がされていた。
「あと少しのところなのに!」
「けど、この中を進むのは厳しいね……っ」
レオとルナが苦しげに声をもらした。
転移門はもう見えている。
全力で走ればすぐに辿りつける距離だ。
しかし、ルナの言うとおり蛇が波打ちを続ける中、移動するのは難しい。進めなくはないが、過剰な圧がかかっている状態だ。下手をすれば無駄に体力を消耗するだけになりかねない。
と、蛇の波打ちが落ちついた。
わずかに上りの坂となっているが、支障になるほどではない。この機を逃すわけにはいかない、とアッシュは声を張り上げる。
「いまだっ! 走れっ!」
クララによって《グラビティ》が解除され、全員が立ち上がって駆けだす。なんの障害もなければすぐにでも辿りつける距離だ。そう思っていたが、蛇の頭部が視界の下部からぬっとせり上がってきた。
転移門の向こう側で振り返り、口から紫色の液体をどろりと吐きだしてきた。それは蛇の体から流れ落ちながらも、勢いよくこちらに向かってくる。その液体を見たラピスが険しい顔で叫ぶ。
「《アルカヘスト》と同じ色ッ」
それは以前、黒の塔で戦った10等級の大型レア種――ゼロ・マキーナが使っていた触れたものすべてを溶かす溶解液だ。あのときは《アルカヘスト》対策で造られたオートマトンのヒュージがいたからなんとか凌ぐことができたが、いまここに彼はいない。
「ここも時間制限つきかよっ」
転移門に辿りつくのはこちらのほうがわずかに早いと思われるが、《アルカヘスト》との差はほとんどない。少しでも遅れれば間違いなく呑み込まれる。
ただ、こちらが有利な状況に限ってなにかあるのがジュラル島の塔だった。
視界前方の両側に黒い靄が現れ、そこから人型の魔物が1体ずつ現れた。どちらも背丈がこちらの2倍程度といった大きさだ。
右側は女性の姿を模っていた。
どこに目を向けても紫の肌が見えるほど露出の多い衣装で、身の丈と同程度の杖を手にしている。
左側は無骨な戦士といった様相だ。
漆黒の鎧に身を包み、その手には身の丈に余る鎌を持っている。
どちらもこの10等級では見たことのない魔物だ。
おそらく赤の塔99階の最奥を守っていたスルトと同じ格の魔物だろう。いまもひしひしと感じる威圧的にも相当な強敵と見て間違いない。
「ったく、最高のタイミングで出てくるじゃねぇかっ!」
そう悪態をつきながら、アッシュは速度を上げた。
誰よりも早く左側の戦士に飛びかかろうとした、直後。前方に黒球がぬっと現れた。ばちばちと炸裂音を鳴らし、明らかに危険を孕んだ見た目だ。作りだしたのはおそらく女性型の魔物だろう。視界の右端で杖を振るったのを確認した。
ちらりと周囲に目を向ければ、そこかしこに黒球が浮かんでいた。これでは真っ直ぐに走れない。アッシュは戦士との距離を詰めるため、とっさに左方へ体をずらす。と、そばの黒球が弾け飛んだ。
いつの間にか距離を詰めていた戦士が鎌を振るい、その刃が黒球を斬り裂いたのだ。黒球は細かい粒を散らすやいなや、どんっと鈍い音を鳴らして急速に収束、消滅する。威力こそよくわからなかったが、やはりどう見ても危険な攻撃だ。
ただ、それ以上に驚いたのは敵の攻撃範囲だ。思った以上に鎌の刃が届く距離が長い。回避行動が少しでも遅れていれば確実に首が飛んでいた。
敵は長得物だ。接近すればこちらに分がある。そう考えて接近戦をしかけるが、すぐさま自身の考えを改めることになった。敵の大鎌を振る速度が予想を遥かに上回っていたのだ。こちらの連撃をことごとく受け止めてくる。
「ちぃっ」
さらには合間を縫って大鎌を豪快に振り回してきた。そのたびに周囲の黒球が弾け飛び、重い音が鳴る。黒球は女性型の魔物によってすぐさま生成されるので窮屈な状態は一向に変わらない。
ただ、いまも《アルカヘスト》は迫ってきているのだ。
悠長に対策を練るほど時間がない。
「――アッシュ、お願い」
黒球とは質の違う炸裂音が背後から聞こえてきた。
かと思うや、眩しい閃光が戦士にぶつかった。
ラピスが《限界突破》を放ったのだ。
ひどく鈍い音が鳴り、戦士が地に両足をつけた状態で遠方へと押しやられていく。そのままでは蛇の体の上から落ちるかと思ったが、鎌の刃を刺して勢いを殺していた。敵の鎧に傷はない。ラピスの《限界突破》を受けて平然としている魔物は初めてだ。
ただ、それでも敵との距離は離せた。
アッシュはすぐさま倒れかけたラピスを両腕で抱いて走りだす。
戦士が大鎌を突き立てたせいか、蛇が暴れるようにして体を動かしはじめた。転移門までの上り坂がわずかな下り坂に変化する。ただ、それでも《アルカヘスト》の勢いは止まらない。戦士の邪魔もあって間に合うかどうか際どいところだ。
そんな中でも幸いなのは視界から黒球が消えていたことだ。
見れば、少し先でレオとクララ、ルナが女性型の魔物に攻撃をしかけていた。女性型の魔物は苦しげな様子で空へと逃げるように飛びはじめる。
その機を逃さずにレオたちが転移門に辿りついた。
ルナが振り返って必死な顔を向けてくる。
「アッシュ、急いで!」
「先に行け!」
アッシュは駆けながら腹の底から叫んだ。
苦々しい顔で3人が先に転移門に入っていく。
「……アッシュ、きつかったら――」
「その先は言うんじゃないぞ!」
胸の中で弱々しい顔を見せるラピスにそう返しながら、足を動かし続ける。と、さらに蛇が暴れ、道が傾いた。多少の傾きなら支障はないが、これは度が過ぎている。このまま全力で走れば転びかねない。
「少し揺れるぞ!」
アッシュはラピスの細い体をさらに強く抱きながら、走る勢いを殺さずに尻から体を落とした。そのまま滑る格好で転移門へと向かう。
すでに《アルカヘスト》は転移門の下部分を呑みこんでいた。このままでは接触は避けられない。
アッシュは足場をわずかに蹴り、蛇から体を離した。調整したかいあって《アルカヘスト》に触れず、転移門に飛び込めそうだ。
と、視界の右上では女性型の魔物が杖を振り上げていた。いまの進路を変えられない状況で黒球を出されれば一巻の終わりだ。
アッシュはラピスを左腕だけで抱きながら、右腕で抜いた剣を女性型の魔物に思い切り放り投げた。傷をつけるには至らなかったが、それでも黒球の生成を遅らせることはできた。
あとは背後というより上方から迫りくる脅威だ。
見上げれば、戦士が諦めずに追いかけてきている。
だが、あれに関してはもう回避する手立てはない。
アッシュは心臓が激しく跳ねる中、ラピスを抱きなおしながら叫ぶ。
――間に合えッ!
◆◆◆◆◆
「とても疲れきった顔をしていますね」
「さすがに今回ばかりは死ぬ直前だったからな……」
「そのまま天に旅立たないあたり本当に運の強いお方です」
管理人の必須技術である嫌味を受け、アッシュは思わず肩を竦めた。
失ったものと言えば、最後に投げ捨てた剣ぐらいか。ただ、あの行動は突破するためには必要だった。幸い武器交換石も余っているし、また同じものを作ればいい。
「それにしてもついに到達されたのですね、おめでとうございます」
「嬉しくなさそうに祝ってくれてありがとうな」
嫌味を言ったつもりだが、管理人は笑みをいっさい崩さなかった。本当に図太い神経をしている。
クララが脇からひょこっと顔を出し、疑問を投げかける。
「全部の塔で99階を突破したら100階への道が開くって話だったけど、いつ開くの? まだ壁で塞がれたままだったけど……」
「そちらのことも含め、これからベヌスの館で説明がされることになっています」
「やっぱりそこなんだ」
クララだけでなく、全員がなんとなく予想していたようだ。
なぜ、という疑問は誰からも出てこなかった。
管理人が笑顔で頷いたのち、口を開く。
「はい、すでにベヌス様がみなさんの来訪をお待ちになっておられます」





