◆第十話『こっそりベヌス』
赤の塔99階を突破してから十日後。
青と緑の99階も同じぐらい苦戦しつつも、なんとか突破。すべての塔において100階到達という条件達成に向け、順調な歩みを見せていた。
「100階にはもう行けたのか?」
「まだだ。あと白と黒の99階が残ってる」
「ってもあと少しじゃねぇーか。辿りついたらどんなだったか教えてくれよ」
「おう。すぐだから楽しみに待っててくれ」
アッシュはすれ違う挑戦者と挨拶を交わしながら、夕陽の差す中央広場をひとり歩いていた。
本日の夜はクララとルナ、ラピスと外食を予定しているが、彼女たちはいま、そばにいない。塔から少し早めに帰還したこともあり、ログハウスで汗を流しているのだ。
その間の暇つぶしとして、委託販売所で相場確認をしたり市場のほうをぶらついたりしているところだった。
東側の通りをくだり、南東に構えた華やかな店――《スカトリーゴ》が映り込んだときだった。少し先の路地から通りに頭を出す幼いミルマを見つけた。以前、シエラと名乗って接触をはかってきたミルマの長のベヌスだ。
「そんな姿で夜に出歩くのはちょっと無用心なんじゃないか」
声をかけると、ベヌスが耳をぴくりとさせた。
さして驚くことなく振り返り、太陽を思わせる眩しい笑みを向けてくる。
「こんにちは、アッシュさん」
「……まだ続けるのか、それ」
「このほうがアッシュさんが喜ぶと思ったのですが、違うのですか?」
「本来の喋り方を知ってたら違和感しかないな」
表面だけなら愛らしいことは間違いないだろう。
ただ、裏を知っている限りもうその感情を得ることはない。
ベヌスがとても少女とは思えない、意地の悪い笑みを浮かべる。
「そうか、それは残念だ」
「ま、その姿でいまの喋り方も違和感たっぷりだけどな」
「望みの女がいるなら言ってみろ。この姿で演じてやるぞ」
「実に楽しそうだが、またの機会にとっておく」
他愛のない会話を経て、アッシュは本題に入る。
「それで、なにしてんだ? こんなところで」
「なに、ちょっとした散歩だ」
「散歩が路地でこそこそすることだったとは初めて知ったな」
「小休止、というやつだ」
先ほど路地からベヌスが向けた視線の先に映っていたのは間違いなく《スカトリーゴ》だ。その中のどこに目を向けていたかまではわからないが、なんとなく関わりの深い相手に向けていた気がしてならなかった。
「アイリスか?」
「わかっていながら訊くとはお前も人が悪いな」
「外見まで変えて接触してくる奴ほどじゃないと思うけどな」
ベヌスはふっと笑ったのち、こちらの目も気にせずに再び《スカトリーゴ》に目を向けた。いまはもっとも忙しくなる夜食前とあって、アイリスはせっせと準備に勤しんでいる。こちらに目を向ける余裕はない様子だ。
「以前、俺たちのことが気になるから見にきたって言ってたが、本当はアイリスのことが気になっただけなんじゃないのか」
「お前たちに会うため、ということに嘘偽りはない。ただ、いまお前が言ったような側面があったこともまた事実だ」
はぐらされるかと思いきや、意外にあっさりと認めた。ただ、そうなってくると大きな疑問が浮き上がってくる。
「あいつのなにが心配なんだ? 性格はちょっとどころかかなりきついが、ミルマとしてはこれ以上ないぐらい完璧なんじゃないか?」
「ああ、そのとおりあやつは完璧だ。しかし、完璧ゆえに自分のことを後回しにして周りばかりを気にしてしまうところがある」
「べつに悪いことじゃないだろ」
「その周り、というものが限定されていなければな」
「あ~……あんたのこと大好きみたいだからな」
アイリスはよくウルのことを気にかけている。
ただ、ベヌスに向けたそれは段違いに強いようだった。それこそ、崇拝という言葉がぴったりに感じるほどだ。
こちらの言葉に、ベヌスが困ったようにまなじりを下げた。
どこかずっと遠くを見るように、わずかに目を細める。
「だから、思うのだ。もし我がいなくなればあやつはどうするのか、とな」
「……いなくなるのか?」
「我としてはそのつもりはない」
「じゃあ、寿命か」
「少なくともそれが問題になることはない」
寿命を超越する術を持っているのだろうか。
ベヌスは神の使いというだけでなく、ミルマの長でもある。こんな仮の姿で出歩くなんて術を持っていることからも、その可能性は大いにありそうだ。
「なら、なにをそんなに心配してんだ?」
「……いずれ、お前にも話すときはくる」
以前、出会った際にも〝仮ではなく本来の姿を見せる機会がくる〟といったようなことを言われた。塔を昇るにつれ、ミルマの謎も解き明かされようとしている。
不思議な感覚だが、もとより塔を創ったのも、ミルマの主も同じ神アイティエルだ。なにもおかしなことはない。
「アッシュさん? そ、それに……ベ――シエラさん」
ふと後ろから覚えのある声が聞こえてきた。
振り返ると、そこにウルが立っていた。
買い物帰りだったのか、手に提げた鞄からは野菜が幾つか顔を出している。クルナッツばかり食べている印象があるが、しっかりと栄養もとっているようだ。
アッシュはベヌスにそっと問いかける。
「正体明かしたこと、話してないのか?」
「とくに報告することでもないからな」
当然のように言っているが、口元が緩んでいる。
間違いなく、あえて話していない顔だ。
「さっき偶然会ってな。ちょっと話してたところだ」
「こんなことを仰っていますが、ちゃんとした待ち合わせです。つ・ま・り、逢引というものですね」
「おい、さらっと嘘をつくな」
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいんですよ」
にっこりと笑みを向けてくるあたり生粋の性悪だ。
しかし、純心なウルはベヌスの言葉を完全に信じてしまっていた。頬をほんのり染めながら居心地が悪そうにしている。
「お、おふたりは仲がいいのですね」
「はいっ、それはもう」
ベヌスが腕にぎゅっと抱きついてきた。
胸を思い切り押しつけられた格好だが、相手は少女の姿をしている。ヴァネッサの胸のような弾力もなければ、柔らかさもほとんどない。しかも中身がベヌスとあって嬉しさの欠片もなかった。
愛嬌のある眉を下げ、目をそらすウル。
そんな彼女を見るなり、ベヌスがにぃっと悪魔のような笑みを浮かべた。こちらから離れ、ウルの顔を覗き込みながら質問を投げかける。
「もしかしてウルさんは、アッシュさんが好きなのですか?」
「そ、そんなことはっ…………はい」
反射的に否定しようとしたウルだが、次第に俯いてぼそりと呟いた。その顔は触れれば焼けどしそうなほど真っ赤だ。
「どのようなところがですか?」
「ぐいぐいいくな」
「こういったことには、とても興味があるので」
ベヌスの問いだからか。
ウルは多少の戸惑いを見せたものの、訥々と語りはじめる。
「ウルのお話に楽しく付き合ってくれるところとか、クルナッツをたくさん食べても怒らないところとか……あと辛いときにそばにいてくれることも……ほかにもたくさんありますが、なにより優しいところが……好きです」
言い終えるや、ちらりと視線を送ってきたウルだが、羞恥心に耐えられなかったか。その場で目をぎゅっと瞑ったまま硬直してしまった。
振り返ったベヌスが満足そうな笑みを向けてくる。
「だそうですよ、アッシュさん」
「光栄な限りだが、もう許してやってくれ」
これ以上、ウルを辱めればそのまま溶けてなくなってしまいそうだ。
ベヌスの悪戯に呆れていると、近くを2人のミルマがとおりすぎていった。案内人のシャオと、《ブランの止まり木》の女将クゥリだ。
「よっ、2人で飯にでも行くのか?」
そう声をかけたのだが、彼女たちはすたすたと離れていく。それほど喧騒が大きいわけでもないうえに距離もない。間違いなく聞こえていたはずだ。
「おい、どうして無視するんだ」
「挑戦者に声をかけられているのに知らない振りをするミルマもいるんですね。とくにおかしな声かけではなかったと思うのですが……これはベヌス様にご相談したほうがいいかもしれませんよ」
そうベヌスが白々しく発言した途端、シャオたちがぴたりと足を止めた。そのまま振り返り、とてつもない速度で戻ってくる。
「じょ、冗談ですよ、冗談」
「シャオさんの言うとおりです。た、たまには趣向を凝らした出会い方をしてみたいと思っただけです」
苦しい言い訳だが、2人の怯えた様子から理由はよくわかった。完全に面倒事――ベヌスから逃げていたと見て間違いない。
そうして新人ミルマたちが全身をこわばらせるさまをベヌスが楽しそうに観察していた、そのときだった。
「ベ・ヌ・ス・さ・ま」
とても圧が込められた声が後ろから聞こえてきた。
覚えのある声だと思ったが、やはりアイリスだった。
彼女はその綺麗な眉を吊り上げ、両手を腰に当てる。
「少しお遊びが過ぎるのではありませんか?」
「見つかってしまったか。もう少し遊びたかったのだが」
ベヌスが息をついて口調を崩した。
加えて、アイリスが挑戦者の前で〝ベヌス〟と口にしたことでウルやシャオ、クゥリがすべてを悟ったのだろう。
「え、もう明かされていたのですかっ!?」
驚いたように声を荒げるシャオ。
クゥリも声こそ出さなかったが、目を見開いていた。ウルは初めきょとんとしていたが、すぐにはっとなってベヌスに必死な顔で詰め寄りはじめる。
「ベ、ベヌスさま、ひどいですっ」
「お前たちの反応が面白くて、ついな」
相手がベヌスとあってそれ以上強く言えないのだろう。
ウルが「うぅ」と涙目で唸っていた。
そんな様子を横目に見ながら、アイリスが矛先をこちらに向けてくる。
「あなたも協力せずに止めてください」
「協力した覚えはないけどな。でもま、軽い悪戯程度だし、辱められたウルはともかく、アイリスがそこまで怒るようなことじゃないだろ」
「それは……そうかもしれませんが」
ベヌスに非がある方向に持っていきたかったのだろうか。アイリスはらしくない様子で勢いを失っていた。だが、すぐさま気持ちを切り替えるように息を吐き、真剣な顔をベヌスに向ける。
「ベヌス様、どうかお願いします」
以前から、アイリスはベヌスが外に出ることをあまりよく思っていない様子だった。ゆえに、おそらくベヌスの館に帰ることを願っているのだろう。
「しかたない。我はここで帰るとしよう」
諦めた様子でベヌスがため息をついた。
新人ミルマたちとウルがこっそり安堵の息をついていたのは言うまでもない。そんな中、アイリスだけはどこか悲しげな顔をしていた。
と、ベヌスがなにかを思いだしたように「ああ、そういえば」と声をあげた。次いで挑戦的な笑みを浮かべながら、この場に居合わせた4人のミルマたちの顔を見渡す。
「お前たち、準備は決して怠るな。日は近いぞ」
言葉を受けたミルマたちが揃って顔を引き締める。
先ほどまでの緩んだ空気はどこにもない。
アッシュは疎外感を覚えつつ、疑念を口にする。
「準備? またなにか祭りでもするのか?」
「さてな。ときが来たらわかる」
こちらがいずれわかるようなことであれば、挑戦者に関係のあることだろう。現状ではまるで想像がつかない。だが、ベヌスの笑みを見れば、面白いことが待っているのは間違いないだろう。
「ではな、アッシュ。白と黒の塔の突破、楽しみにしているぞ」
とても少女とは思えない貫禄でそう言い残すと、ベヌスが北通りに鎮座する自身の館を目指して歩きだした。はっとなったウルと新人ミルマ2人が慌てて「お供しますっ!」とついていく。
「次、またベヌス様を見つけたらすぐに教えてください」
ベヌスたちを見送っていると、隣に立つアイリスがそう言ってきた。頼むような言葉とは相反して、どこか忠告的な威圧を感じる。
「あんまり過保護が過ぎると嫌われるぜ」
「それでも構いません」
そう言うや、アイリスは背を向けて《スカトリーゴ》に戻っていった。
最後に向けてきた彼女の顔は底知れない決意に満ちていた。
いったいなにが彼女をあそこまでさせるのか。
この答えも、〝いずれ〟わかるのだろうか。
アッシュはすっと視線を上げる。
視界の中、緑の塔が夜の帳にかかり、頂から少しずつ黒ずみはじめていた。





