◆第七話『100階の踏破印』
熱に当てられる時間が長かったからか、全身から多くの汗が噴出していた。いまさら気づけたのは外気に触れたからだ。柱で区切られた空側から、穏やかな風が流れてくる。そのたびに肌が冷え、自分が生きているのだと実感させてくれた。
アッシュは安堵しながら仲間の様子を確認する。
クララやルナ、ラピスはぐったりとしているが、怪我をした様子はない。問題は最後に転移門に入ったレオだ。
振り返った先で、レオが座り込んだまま呆然としていた。緩慢な動きで首を回し、きょとんとした顔をこちらに向けてくる。
「ア、アッシュくん、僕、本当に生きてるのかい?」
「ああ。ちゃんと足もくっついてる。だから、とりあえず手を伸ばすのをやめろ」
こちらの尻に向かって伸ばされたレオの手を叩き落とした。レオが「あいたっ」と声をあげながら手を引っ込めたのち、徐々に表情筋を緩める。
「……本当だ。これは本物のアッシュくんだ!」
「変なことで自分の生死を確認するな」
喜んでいいのかはわからないが、どうやら体だけでなく心のほうも無事なようだ。
「あのスルト、攻撃してくるのが遅かったよね」
「1、2段目の魔物を持ち越すのが前提だったのかも」
ラピスとルナが転移門を見つめながら難しい顔で話していた。
「ってもそんなに余裕があるわけじゃなかったしな。さっきみたいにせいぜい1体程度が限界だろう。それに……最後の攻撃だ。あれを放たれた時点でもう逃げるしか選択肢がなかった」
もし最後の攻撃を1発目から放たれていれば全滅していた。それほどまでに異様な攻撃だった。99階が炎の海と化す姿はあまりに衝撃的でいまでも容易に思いだせる。
「でも、僕たち突破できたんだよね」
「うんっ、あとは柱廊だけ!」
レオがにかっと笑みをこぼす中、クララが元気に立ち上がって先へと目を向けた。普段なら次の階の踏破印を刻むため、魔物がひしめく柱廊を昇ることになるのだが……。
「にしても、おかしいんだよな」
「ええ、まるで魔物の気配がしないわ」
「やっぱりラピスもそう感じるか」
10等級からは意識を向けなくても、柱廊の魔物の気配をひしひしと感じられた。それがいまはいっさい感じないのだ。
アッシュは立ち上がり、いまだくつろいでいるレオに目を向ける。
「レオ、調子はどうだ?」
「大丈夫だよ。すぐにでもいけるぐらいにはね」
レオがすっくと立ち上がった。
万全だと言わんばかりに手に持った剣と盾を軽く掲げる。ほかの仲間はどうか、と様子を窺ったところ、いつでもいけるといった状態で頷き返してきた。
「ちょっとだけ覗いてみるか。っと、その前に……《ワープリング》の出口をここに設定しておかないとな」
右手を隅の壁側に伸ばしながら発した。
その先で黒い靄が一瞬だけ現れたのち、空気に溶け込むように消滅する。設定が成功した証だ。
「これでいつでも戻ってこられるね」
クララが満足気な顔で言った。
ゼロ・マキーナ討伐から約1ヶ月という短い期間ですべての塔の99階まで到達できたのは、この《ワープリング》があったからにほかならない。本当にもう手放すことはできない便利な品だ。
「んじゃ、行くとするか。一応、警戒は怠るなよ。なにが待ってるかわからないからな」
そうして歩きだしたのだが……。
進んでも進んでも待っているのは魔物のいない光景のみ。右手側の柱ごしに映る空を悠々と眺められるほどに平和な時間だけが流れ――。
ついに魔物と戦闘になることなく柱廊が終わりを迎えた。
「本当になにも出なかったね。なんか拍子抜けな感じ」
「なんだ、魔物と戦いたかったのか?」
「楽に上がれるならそのほうがあたし的には最高ですっ。あ、踏破印だっ」
たたたっ、とクララが駆けだし、踏破印を刻みはじめる。彼女に続いて全員が踏破印を刻んだのち、先ほどからずっと気になっていたものに目を向けた。
先を阻むように壁があった。
中央に人一人が収まりそうなほど大きな球形の宝石がはめこまれ、そこから根を張るように周囲へと線が伸びている。簡素な意匠だが、なにか妙な威圧感があった。
「……行き止まりか」
「転移魔法陣はなさそうかも」
クララが座り込んで壁の前の床を手で触っていた。
転移魔法陣がないとなると、ますます壁の存在理由がわからない。
「試練の間とはなんだか違う様相ね」
ラピスがその細い指を壁に這わせながら言った。
たしかに雰囲気からしてこれまでの試練の階とは違う。
なにか違和感を覚え、本能が赴くまま柱廊に戻った。
すれ違ったルナから疑念の眼差しが向けられる。
「どうしたの、アッシュ?」
「ちょっと気になることがあってさ」
そう答えたのち、柱に手をかけながら外側に上半身を投げだした。窮屈な体勢で見上げると、天井の先にある壁はほとんど続いていなかった。どう見ても1階に相当しない。
「やっぱりそうだ。この上、もう塔のてっぺんだ」
「え、じゃあ100階の主とは外で戦うことになるんだ」
ついてきたルナも軽く顔だけを覗かせていた。
アッシュは「かもな」と答えつつ、体勢を維持しつづける。
そんなことを続けていたからか、レオが不安そうな声で訊いてくる。
「さ、さすがにそこから昇るなんてことはないよね」
「たぶん無理じゃないか。ルナ」
「ちょっと待ってね」
手を差し出すと、ルナが察して矢を出してくれた。
受け取った矢を上方へ投げてみる。
と、途中で見えない壁に弾かれてしまった。
「やっぱ無理そうだな」
「なにか真っ当な方法があるんだろうね」
アッシュはルナの手を借りて体勢を戻した。
ルナの言うとおり、なにか条件を満たせば道が開ける可能性は高そうだ。
「とにかくこのままここにいても埒が明かなさそうね」
いつの間にかそばまで来ていたラピスが言った。
すでに縁に足をかけ、いつでも飛び下りられるといった様子だ。
「だな。一旦飛び下りて管理人に訊いてみるか」
◆◆◆◆◆
「ついに100階に到達してしまったのですね」
「相変わらず残念そうだな」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。スルトに誰かが殺されてしまったときにかけるお言葉を幾つかご用意していたなんてことも断じてありません」
「とりあえずその言葉を聞かずに済んでよかったぜ」
塔から飛び下りて帰還するなり、塔の管理人に声をかけていた。もはやお馴染みとなった会話という名の応酬を終え、ようやく管理人が本題に入る。
「それで……100階に上がれないというお話でしたね」
「うんうん、踏破印のところに壁があって進めなかったんだよね」
頷きながら大雑把に状況を説明するクララ。
管理人はもったいぶることなく淡々と口にする。
「100階への道はすべての塔の99階を突破することで開かれます」
「そういう仕組みか」
「はい、たったそれだけです」
簡単でしょう? とでも言いたげだ。
たしかに言葉だけを見れば簡単に見える。だが、先の99階突破を思いだすと、とても簡単とは言い切れなかった。とはいえ――。
「どっちにしろすべての塔を攻略する必要があるからな」
「ええ。面倒な手間がなくてよかったわ」
ラピスが淀むことなくそう続けた。
ほかの仲間たちも頷いている。
怖気づくことのないこちらの様子を見てか。
管理人がどこか楽しげに笑みをこぼした。
「ひとまず条件を達しましたら、どの塔の管理人でも構わないのでお声をかけてください。その際に、次にすべきことをお伝えします」
「了解だ」
もともと塔を昇ることは決まっていたが、目先の目標が明確に定まった形だ。やる気がみなぎってくるが、やけに騒がしい周囲によって気持ちがそらされた。
「おい、聞いたか。アッシュたちが100階に到達したってよ」
「マジかよ。いつかは行くんじゃねえかって思ってたが……ついに、か」
「こうしちゃいられねえ! みんなに知らせねぇとっ!」
どうやら管理人とのやり取りが聞こえていたようだ。
塔前の広場で待機中だった挑戦者たちが驚愕の表情でざわついていた。
このままでは居心地が悪い。
全員の意見一致で足早に塔前から中央広場に移動することになったが、そこでも状況は変わらなかった。むしろ先ほどよりも悪化しているほどだ。
「な、なんだかこれまでにないぐらい注目されてるね」
「無理ないかも。それだけ挑戦者にとって100階到達は大きなことだし」
怯えた様子のクララに、ルナが苦笑しながら言った。
100階がどんなところかを訊きたいといった気持ちがあちこちの挑戦者から見て取れるが、誰も近付いてこようとしない。そんな中、淀みない足音が後ろから近付いてきた。
「聞いたよ、ついに100階到達を果たしたんだってね」
振り返った先にいたのは、ヴァネッサ・シビラチームだった。





