◆第九話『去りゆく者のために』
まだ正午も迎えていない中で開いている飲食店は少ない。それこそ《スカトリーゴ》と《トットのパン工房》ぐらいだ。ただ、アイリスとの一件もあるため、《スカトリーゴ》は選択肢から外さざるを得なかった。
訪れた《トットのパン工房》にて。
中央広場を眺められる窓側の席で、アッシュはウルと向かい合って座っていた。
ベヌスの館を出てからもウルは元気がないままだ。
ただ、精神的なものだけではなく憔悴しきったように顔色も悪い。
「あんまり食べてなかったろ。ちゃんと食べないと倒れるぞ」
彼女にはクルナッツジュースのほか、野菜を挟んだバゲットサンドを頼んでいた。
「……食欲が」
「少しかじるだけでもいい」
ウルは気が進まないようでなかなか手を伸ばさなかった。だが、食事を無駄にすることへの抵抗が働いたか。ゆっくりと両手で掴み、口へと運んだ。
長い咀嚼を経たのち、再び彼女の口が開けられる。
「美味しいです」
「だろ。っても俺が作ったわけじゃないけどな」
「ほんとうに……美味しい、です」
ぽつりぽつりとウルの目から涙がこぼれ落ちていた。
実際に美味しかったこともあるだろう。
だが、それだけでないことはいまのウルの心境を考えれば想像に難くなかった。
しばらくの間、無言で見守ったのちに声をかける。
「少しは落ちついたか?」
「はい……ごめんなさい。泣いてばかりで」
ウルは目をこすったのち、深呼吸をした。
だが、その体はまだわずかに震え、顔はもどかしげに歪んでいる。
「本当はわかっているんです。ウルのしていることが意味のないことも。でも、どうしてもブランさんがいなくなるって思うと、胸が苦しくなって……っ」
頭で理解していても受け入れられない。
それだけウルにとってブランは大きな存在なのだろう。
「昔、ブランさんに救われたんだってな」
その話題を出した瞬間、ウルがまぶたを跳ね上げた。
誰から聞いたのか、と言いたげだ。
「アイリスからだ。心配してたぜ、ウルのこと。さっきだってきっと好きであんなことをしたんじゃない。ま、それは一番ウルがわかってるかもだけどな」
「……はい。アイリスさんはいつもウルのことを考えてくれていますから」
アイリスの愛情を感じとり、わずかな安堵を見せるウル。だが、その瞳は複雑に揺れたままだった。ウルは唇をきゅっと締めたのち、再び話しはじめる。
「昔からアイリスさんはなんでもできる完璧なミルマでした。失敗なんてしませんし、誰よりもベヌス様に信頼されていました。そんなアイリスさんとは反対にウルは失敗してばかりで……」
アイリスを羨み、疎んでいるように聞こえなくもないが、そうではない。ただウルは自身の不甲斐なさに苛立ちを感じているのだろう。
「いまでこそ挑戦者の方々と問題なく話せていますが、昔は少し抵抗があって。シャオちゃんと似たように怯えてしまっていたんです。それで周りの方々にたくさん迷惑をかけてしまって……」
ウルが人見知りだったという話。
それはアイリスから聞いたものと同じだった。
「そんな自分がいやで落ち込んでいたときでした。ブランさんと出会ったのは」
「半ば強引に《ブランの止まり木》で働かされたって聞いたぜ」
当時のことを思い出してか。
ウルはわずかに苦笑したのちに話を継ぐ。
「初めのうちはそうでした。でも、あとからウルが頼み込んで働かせてもらうようになったんです」
「ブランさんの働く姿に憧れて……だったよな」
「それもあります。ただ、当時の《ブランの止まり木》に泊まっていた挑戦者の方々は温厚でとても話しやすかったんです」
知らない話だ。
その情報を加えると、さらに〝ブランの気遣い〟が見えてくる。
「もしかしてウルが人間に慣れるために呼んでくれたのか」
「いま思うと、そうなのかなって。いえ、きっとそうだと思います」
素直な性格ではないブランのことだ。
ウルの言うとおりきっと間違いないだろう。
「ブランさんはあまり自分の気持ちを話してくれません。でも、本当はすごく優しいことをウルは知っています。そしてウルは、そんなブランさんが大好きです。だから……」
――ずっと一緒にいたいと思っていたのに。
途切れた言葉は、おそらくウルの胸中でそう紡がれたのだろう。
ウルの目から涙はもうこぼれていない。
だが、必死に堪えているのが顔からありありと感じられた。
こんなにもウルは弱っている。
にもかかわらず酷なことを伝えなければならなかった。
アッシュは一度、静かに息を吐いたのちに告げる。
「ブランさん、明日の朝に島を出るみたいだ」
「……そんなっ。まだ時間はあるはずですっ!」
「早く発つことにしたらしい」
信じられないといった様子でウルは俯いた。
虚ろな目のまま脱力したその姿からはまるで生気が感じられない。このままではウルの元気な姿が見られなくなるような気がしてならなかった。
「ちゃんと挨拶をしよう」
「……いや……です……っ」
「後悔するぞ」
下唇を噛みながら両手に拳を作るウル。
いまの彼女は明らかに冷静ではない。
無理もないが……もっと周りを見るべきだ。
「ブランさんがいないならもうどうでもいいなんて考えないでくれよ。アイリスだけじゃない。俺も、俺の仲間たちも元気なウルが大好きなんだ」
ジュラル島に住まう多くの者がきっと同じように思っているはずだ。それほどまでにウルの元気な姿は、こちらまで元気にさせてくれる力がある。
「ブランさんも同じ気持ちだと思うぜ」
ウルの体からわずかに力みが消えたような気がした。
ブランの出立に合わせて無理矢理連れてくることも考えていた。だが、それではやはり根本的な解決にはならない。
「明日の朝、待ってる」
きっと想いは届いているはずだ。
そう信じて、アッシュはひとり店をあとにした。





