◆第十一話『繋がれた剣』
その日の夜。
アッシュは居間のソファでひとりくつろぎながら、手に入れたばかりの腕輪――《アイティエルの鎖》を眺めていた。
球遊びでもするように上に放り投げたり、鎖型の模様にあわせて彫られた溝に指の腹をそわせたり、ととくに意味のないことを続けている。
ふと、首へと後ろからするりと腕が回されてきた。
あわせて柔らかな髪がそっと触れてくる。
「――アッシュ」
耳元で囁かれたその声は妙な艶やかさを伴っていた。
こんな悪戯じみたことをするのはひとりしかいない。
「ルナか」
「さっきから何度も声かけてたんだけどね。お風呂、上がったよ」
ルナがそう答えながら後ろからもたれかかってきた。
首に回した腕をそのままに、こちらの肩に顎を乗せてくる。
風呂上がりだからか、強めの花の香りが漂ってきた。
雑貨屋でやけに高価な石鹸を購入する女性陣に疑問を感じることは多いが、いざこうして体験してみると必要な買い物だと言わざるを得なかった。
ルナの接触に心地良さを感じながら、アッシュは平然と応じる。
「悪い、気づかなかった」
「夜中にしのびこもうとしたらすぐ気づくくせに。考え事でもしてた?」
「そういうわけじゃ……いや、してたかもな」
ぼうっとしていたが、頭の中は疑念だらけだった。
そんなこちらの心境を読んだようにルナが手伸ばしてきた。手ごと包むように《アイティエルの鎖》を触ってくる。
「やっぱりこれのことだよね」
言葉を介すことなく自然と《アイティエルの鎖》を渡す形になった。彼女は腕輪の凹凸をたしかめるように両手で入念に触りはじめる。
「でも、ボクがつけたときは本当に使えなかったし、いけるんじゃない?」
ディバルと別れたあとのこと。ルナが試しに《アイティエルの鎖》を装着し、《血統技術》を使おうとしたところまったく発動できなかったのだ。ただ通常の矢が放たれるだけだった。
「だといいんだけどな」
「アッシュのは普通の血統技術とは違うかもだけど、きっと大丈夫だよ。っていうかそう信じないとせっかく倒したんだからね」
ルナの言うとおりだ全滅寸前の戦いを繰り広げてまで入手したのだ。成果があると信じて挑戦するしかない。
「でも不思議だよね。どうしてこんなもの作ったんだろ。血統技術ってほとんどの人にとっては有益なものなのにそれをわざわざ封印するなんて……」
「さあな。神様のことだ。俺たちにはわからない高尚な理由でもあるんじゃないか」
アッシュは皮肉をこめてそう放ちつつ、ルナの手に握られた《アイティエルの鎖》を見据える。
「でもま、ひとつたしかなことは……これが俺にとって唯一の希望ってことだけだ」
「剣、使えるといいね」
「ああ」
そう頷いたのち、アッシュはルナの腕をそっと外しながら立ち上がった。
「んじゃ、俺も風呂行ってくる」
「ねえ、アッシュ。背中、流してあげよっか?」
「上がったばっかだろ。体、冷やさないようにしろよ」
悪戯っ子のような笑みを浮かべているであろうルナの顔を想像しながら、そのまま振り返らずに風呂場へと向かった。
◆◆◆◆◆
翌朝。
アッシュはディバルとともに黒の塔82階に来ていた。
当初はひとりで来るはずだったが、待ち伏せされていたのだ。
「べつに来る必要はなかったろ」
「さっきも言ったろ。なにか起こったときに誰かいたほうがいいって」
「もし発動したらどうすんだよ」
《ラストブレイブ》が発動すれば周囲の人間に襲いかかってしまう。たとえともに戦ってきた仲間でも、親でも関係ない。だからひと気のないこの場所を選んだのだ。
ディバルが背後の転移門を横目に見ながら言う。
「そんときゃ逃げるだけだ。ま、それが無理だったとしても俺だったら問題ないだろ」
「たしかに」
「即答かよ」
柄にもなく顔を歪ませるディバル。
自分で言っておきながら少しは躊躇してほしかったらしい。
「親父なら死んでも死なない気がするしな」
「そういうことだ。安心して挑戦しろ」
ディバルがにっと口の端を吊り上げ、親の顔を見せた。
悪態をついたものの、誰かがそばにいるのは本当は心強かった。
アッシュは胸中で感謝しつつ、ディバルに背を向けた。
持ってきた《アイティエルの鎖》を左腕にはめる。
当然ながら体に変化はなかった。
やはり本番は《ラストブレイブ》の発動条件である、長剣を握った瞬間か。
右手を腰の左側へとゆっくり運ぶ。
そこにはレオから借りた9等級の長剣が提げられている。等級が高いのは、暴走して天使の待つ部屋へと進んでしまったときのことを考慮したためだ。
12歳で発現する《ラストブレイブ》。
あれ以来、自分の意志で長剣を振ったことは一度としてない。
――もっとも得意とする武器。
最近、得物に不自由を感じることが多かったこともあり、その焦がれる想いはひどく高まっていた。
興奮か不安か。
どちらかわからない感情に見舞われ、震える右手。きっかけを自ら作らんと息を吐いて、吸った。直後、勢いよく長剣の柄へと右手を添え、引き抜いた。
すぅ、と鞘をこすりながら姿を現した鈍色の輝きを放つ剣身。左手も添え、両手で柄を握った感触。長いときを経てもなお手に、体に……そして心に馴染んだ。
アッシュは長剣を胸の前に運び、切っ先を天へと向けた。剣身に映り込む自身の姿からは無邪気な子どものように高揚しているのがありありと伝わってくる。
忘れようと思ったことは少なくない。
だが、この感触を忘れることなどできはしなかった。
このときをどれほど待ち望んだか。
ようやく、ようやくだ。
興奮任せに剣を前へと振り下ろそうとした、そのとき。
「アッシュ、いますぐに剣を放せ!」
切羽詰ったディバルの声が聞こえてきた。
いったいなにを言っているのか。
長剣を持っても《ラストブレイブ》は発動していない。意識も残っている。これもすべて《アイティエルの鎖》のおかげだ。
自分は大丈夫だ。
そう伝えようとしたところ口が上手く動かなかった。どどど、と心臓の鼓動が異常なほど速くなり、全身からは異常なほどの汗が流れはじめる。
駆け寄ってきたディバルが必死に長剣を放そうとしてくる。が、指がまるで固まったかのように動かなかった。舌打ちをしたディバルが少し離れたかと思うや、剣を握った手に躊躇なく蹴りを放ってきた。
痛みからではなく、衝撃によって指がはがれた。床に落ちた長剣が騒がしい音を鳴らす中、アッシュはその場に両膝をついた。全身に力が入らず、そのまま倒れ込んでしまう。
自分の体にいったいなにが起こったのか。
そんなことを考えることすらまともにできなかった。
「おい、アッシュッ! しっかりしろッ! アッシュッ!」
最近はよく聞いていたが、いまだ懐かしさのある父親の声。どうしてそんなに必死に叫び続けているのか。そんなことを呑気に思いながら、アッシュは目を閉じ――ついに意識を失った。





