◆第十話『父の背中』
すでに白の天使の全身は黒で染まりきっていた。
そこへ黒の天使だった黒点が吸収されたことでさらに深みを増し、ついには生気を感じるほどの艶を得た、瞬間――。
硝子が割れたかのような音を鳴らし、天使を繋いでいた鎖が砕け散った。自由を得た天使がその背から生えた勇壮な翼を広げながら、1歩2歩と踏み出しはじめる。
まだ戦わなくてはいけないのか。
そう思いながら、アッシュはゆらりと立ち上がった。
悲鳴をあげる体に鞭打ちながら得物を構える。
と、天使の肌に小さな亀裂が入り、光を漏らした。亀裂は根を張るようにどんどん伸び、ついに天使の体全体へと走った、そのとき。
殻が割れるように黒で染められた肌が剥がれ落ちた。現れたのは眩い光を放った純白の肌。それを見た瞬間にアッシュは悟った。
先の白の天使がまだ生きていたのだ、と。そして黒の天使を取り込んだからか、あるいは黒の天使が消滅したからか。白の天使の姿はより清廉で美しくなっていた。
白の天使は優しく微笑んだかと思うや、翼をはためかせて飛び上がった。まるで天にでも昇るかのように神々しい光を残し、ゆるやかにその姿を消していく。やがてその光が完全に視認できなくなったとき、からんからんと音がした。
白の天使が残したのか、太めの腕輪が落ちていた。
アッシュはフラつきながら歩き、腕輪を手に取る。
鎖を思わせる模様が彫られていることからも、これが《アイティエルの鎖》で間違いないだろう。どうやら白の天使を生かしたまま黒の天使を倒すという条件は間違っていなかったようだ。
目的の品を手に入れられ、ほっと息をつこうとしたところではっとなった。なんとか勝利したものの、こちらの被害は甚大。とくに後衛組の2人は――。
「クララ、ルナは無事かっ!?」
そう声をかけながら振り向いた、そのとき。
全身が温かな白い光で包まれた。
感じていた痛みがどんどん引いていく。
見れば、クララが不恰好なうつ伏せ姿で杖を持ち上げ、全員に《ヒール》をかけていた。そのそばでは座り込んで疲れ果てているルナの姿も確認できる。
「い、生きてまぁ~す……」
「こっちもなんとか……ね」
どちらも最悪の場合も考えられる攻撃を受けていた。
生きていてくれたことにただただ感謝した。
「おつかれさん。途中、手助けしようか迷ったが、我慢して正解だったな」
そんな呑気な声をあげながら、ディバルが階段を下りてきた。こちらが手に持った腕輪を覗き込むようにして観察してくる。
「これが《アイティエルの鎖》か」
「……たぶんな」
「んじゃ目的も果たしたことだし、とっとと帰れ」
「みんな戦闘直後でボロボロだ。少しは休ませて――」
「急げ」
そうこぼしたディバルの顔は真に迫っていた。
最奥の壁を見据えながら、一気にその身を戦闘態勢へと移行させる。
「……親父?」
先ほどこの部屋の主である黒の天使は倒した。
もう警戒をする必要はないはずだ。なのにどうして――。
そう思ったときだった。
最奥の床から10本の黒い影が天井へと迸った。
それらが糸のように細まりやがて消えると、入れ替わるようにして黒の天使が現れた。その形状、威圧感。ともに先ほど戦った黒の天使とまったく同じだ。
「さっき倒したはずじゃ……」
「しかもこんなに……」
絶望の声を発するラピスとレオ。
先ほど死にかけながらようやく倒した敵が10体も現れたのだ。無理もない反応だった。
そんな中、唯一ディバルだけが毅然とした様子で黒の天使たちと対峙している。
「あとは俺が処理する」
「……親父、もしかしてこのために」
この隠し部屋に至る道は案内も必要ないほど簡単だった。どうしてついてきたのかと疑念に思っていたが……ディバルは一度倒したことで知っていたのだ。黒い天使を倒したあと、同じものが大量に湧いて出てくることを。
「いいか、それを得るためにお前は力を使ってない。それはお前と、お前の仲間が一緒に戦って得たものだ」
静かながらそう強く言い聞かせてくると、ディバルは黒の天使たちへと向かった。その右手を腰に提げた剣の柄へと持っていく。やはり《ラストブレイブ》を使う気だ。
アッシュは舌打ちしたのち、入口側へと全力で走りだす。
「みんな急いでここから離れるぞ!」
「でも、アッシュくんのお父さんがっ」
「大丈夫だ! 親父は死なない!」
むしろ離れなければ全滅するだけだ。
こちらの切羽詰った声を聞いてか、ようやくクララを含む仲間たちは重い足を動かしてくれた。
階段を上がり終えた直後、凄まじい揺れに見舞われた。さらに黒の天使のものと思しき断末魔の叫びも聞こえてくる。釣られて仲間たちが振り返ってしまっていた。
「見るな! 目を合わせたら殺されるぞ!」
こちらの必死な声に仲間たちははっとなり、振り返るのをやめてくれた。だが、全員が予想どおり揃って絶句したように顔を恐怖の色で染めている。
これまで《ラストブレイブ》の力を言葉で説明したことはあったが、全員が実際に見るのは初めてだ。当然の反応だった。
アッシュは言い得ぬ後ろめたさに苛まれながら仲間とともに隠し部屋から離脱。88階の入口側へと戻り、白の塔から帰還した。
◆◆◆◆◆
塔前の広場に戻ってきてから続いていた無言の間。
そんな中、最初に口を開いたのはクララだった。
「アッシュくんから聞いてたけど、すごかったね……」
「100階までひとりでいけるって言ってたけど、納得したよ」
「たったひとりの英雄……か。神話は本当だったんだね」
ルナに続いてレオも感嘆の混じった声をもらす。
ただ、ラピスだけは険しい顔で白の塔を見上げていた。
「でもおぞましさを感じたわ。わたしはあんなのを使ってるアッシュを見たくない」
その言葉には胸に突き刺さしてくるような痛みと同時に、深い沼からこの身をすくい上げてくれるような優しさが詰まっていた。
「ラピスの言うとおりあれは俺にとって忌むべき力だ。自分の意志じゃ戦えないし、目が合った奴を片っ端から殺していくしな」
あの力――《ラストブレイブ》を使ったことは数えるほどしかないが、一度としていい気分になったことはなかった。叶うならもう2度と使いたくはない。
クララが「ねね」と不安そうな顔で話しかけてくる。
「ディバルさん、帰ってこられるのかな? 好きなように動けないんだよね?」
「あそこまで昇ってきたんだし大丈夫だろ。それに親父は意識をある程度は特定のほうへ向けられるみたいだからな」
「あれ、アッシュくんは無理って言ってなかったっけ?」
「どうしてか俺には無理なんだ。理由はわからないけどな」
意思を割り込ませる余地などまるでないのだ。
いったいどうしてディバルだけがある程度制御できるのか理解できなかった。
そうしてしばらく仲間と話していると、ゲートからディバルが帰ってきた。
「おっ、お前たちも無事に帰ってこられたみたいだな」
他人に体を乗っ取られているような気分になることもあり、ディバルも《ラストブレイブ》の使用後はいい気分ではないはずだ。実際に昔の彼もそんな発言をしていた。にもかかわらず彼はけろっとしている。
「親父」
「おっと、その先は言うなよ」
ディバルが機先を制するように言葉を遮ってくると、にかっと快活な笑みを浮かべた。
「まっ、放任主義な親の、ちょっとした償いって奴だ」
世界各地を旅しながら子どもに戦闘経験を積ませるなんて育て方はたしかに一般的とは言いがたいかもしれない。だが、ただの一度もディバルを責めたことはなかった。むしろ得られたものは多く、感謝しているぐらいだが……。
ディバルなりに父親として気にしていたようだ。
自らが使ったわけではないが、《ラストブレイブ》によって助けられたことには思うところはある。だが、その力を使ったディバルに仲間ともども助けられたのは事実だ。
アッシュは胸中に生まれたもやを押し殺し、素直に感謝することにした。
「とりあえずアイティエルの鎖を使うにしても今日は休め。いくら《ヒール》で回復したっつってもお前たち見てて痛々しいぐらいボロボロだからな」
肌に刻まれた傷はほとんど収まっているが、体の内部まで届いた鈍痛や傷やらは残っている状態だ。それにみすぼらしいと言えるほどに装備も欠損している。
「ああ、そうする」
そう返事をすると、ディバルが満足気に頷いた。
軽く肩を叩いてきたのち、そばを通り過ぎて中央広場側へと歩いていく。
隣に並んだラピスがしみじみと口にする。
「いいお父さんね」
「……いま言われると否定できないな」
アッシュはそう返し、父のたくましく広い背中を見送った。





