◆第二話『続・大人の世界』
翌日。
朝の冷たい空気が温まり始めた頃。
クララはどんよりと顔を曇らせながら、ひとり中央広場を歩いていた。
「どうしよう……絶対変に思われたよね……」
毎朝の日課となっている《トットのパン工房》へのおつかい。その道中でアッシュを思い切り避けてしまったのだ。
もちろん避けたくて避けたわけではない。
昨夜、マキナやレインと話したことが頭にちらつき、どうしても面と向かって話すことができなかったのだ。キスだけでも想像したことがなかったというのに、その先のことまでなんて――。
思い出したら顔が熱くなってしまった。
ぷるぷると頭を振って慌てて気持ちを切り替える。
本日、チームの活動は休み。
いつもなら美味しいものを食べたり買い物をしたり。ログハウスでだらだら過ごしたりするところだが、今日は懐かしい場所を訪れようとしていた。
中央広場から青の塔が見える通りへと抜け、細い路地に入る。と、目的地である《ブランの止まり木》に辿りついた。
すでにこの場所を出てから半年が経っている。
そのせいか、扉を開けるのに若干の抵抗があった。
「ブランさん、いる~?」
ぎぎぎ、と扉が軋む音に紛れて声をあげる。
陽の当たりが悪いにもかかわらず昼間は断固として灯をつけないからか、中は相変わらずの暗さだ。
隅の受付のほうへ目を向けると、読書中のミルマが座っていた。本の上端から飛び出た三角の耳がぴくりと動く。愛くるしいしぐさだが、本が下げられたことであらわになったいかめしい顔のせいで台無しだった。
「なんだい、あんたか。あたしも暇じゃないんだよ」
予想どおりの歓迎ぶりだ。
クララは苦笑しつつ、背に隠していたものを受付に置いた。お土産にと買ってきた観葉植物を入れた手乗り鉢だ。以前、贈ったときにも意外と気に入ってもらえたのでまた選んだのだ。
「これ、どうぞ」
ふんっと鼻を鳴らしながらも、ブランは以前に贈ったものと並べる形で端に寄せた。また気に入ってくれたようでなによりだ。
「それでなんの用事だい」
「う、うん……ちょっと話しにくいことなんだけど……」
言いよどんでいると、ブランが顎をくいと上げた。
どうやら椅子に座れということらしい。
クララは近くの椅子を手繰り寄せ、ブランと対峙する格好で座った。なにから話そうか迷ったが、ひとまず頭に浮かんだことから口にしてみることにした。
「あのね、ブランさんって長生きしてるでしょ」
「それなりにね。ミルマの中じゃ3番目に古株だ」
「……だから、やっぱり男性経験も豊富なのかなって」
昨日、マキナやレインと話したことで自分がどれだけ恋愛にまつわる話に疎いかを思い知った。だからか、ほかの人からもそうした話を聴きたいと思ったのだ。
ブランが盛大にため息をもらした。
「わざわざこんなところに来てなにを言い出すかと思えば、そんなことかい」
「う……だってほかにそういう話できる人、あんまりいないから……」
「ま、訊く相手は間違っちゃいなかったけどね」
ブランがばたんと本を閉じ、隅に置いた。
きらりと目を鋭く光らせたかと思うや、饒舌に語りはじめる。
「いまじゃ背も曲がって皺も増えて乳も垂れてるけどね。これでも昔は言い寄る挑戦者があとをたたなかったんだよ。この宿だって大した設備もないのに予約待ちさ。ブランちゃんの料理が食えるなら死んでもいいなんて奴もいたね」
「……ブランちゃん」
「なにか言いたいことでもあるのかい」
「な、なんでもないです」
ミルマは容姿が整っている人ばかりだ。
昔、「ブランちゃん」と言われるほど可愛かったのもきっと間違いではないだろう。ただ、いまの印象が印象なだけに、どうしてもその姿を上手く想像できなかった。
クララは思ったことをぐっと呑み込んだのち、もっとも気になることを口にする。
「それだけ言い寄ってこられてたってことは……やっぱり恋人とかいたの?」
「……そりゃあいたさ。たったひとりだけね」
「そ、その人とはどうなったのっ?」
思わず身を乗り出してしまう。
そんな興奮するこちらとは逆に、ブランはひどく落ちついていた。
「どうもならなかったよ。早々に塔でくたばりやがったからね」
「う……ごめんなさい」
「相手は挑戦者なんだ。予想できた結末さ」
その言葉から落ち込んだ様子はいっさい感じられない。だが、垂れた耳をみれば強がっているのは明らかだった。
ブランは空気が暗くなるのを嫌ってか、早々に話題を切り替えてきた。
「さて、こっちの話はしたんだ。今度はそっちの話をしてもらおうじゃないか」
「え、あたしっ? あたしはべつになにも――」
「あの男……アッシュとなにかあったんだろう」
「いっ」
思わず肯定しているのと同じ反応をしてしまった。
目を泳がせながら、ぼそぼそと言う。
「べ、べつになにかあったわけじゃないんだけど……」
「意識しちまってどうしようもなくなったってとこかね」
「なんでわかるのっ」
「あんたは一度自分の顔を鏡で見てみることだね」
どうやらはっきりと顔に出てしまっていたようだ。
本当に恥ずかしいことこのうえないが、この際だ。
踏み込んで話してみることにした。
「でも、まだ好きかどうかもわからなくて……」
「あんたたちはどっからどう見ても兄妹だったからね」
「やっぱりブランさんにもそう見えてたんだ」
クララは自身の胸元に右手を当てた。
以前に感じた痛みを思い出しながら、ぎゅっと服を握る。
「あたしのこれ、やっぱり違うのかな……」
「さあね。ただひとつ言えることがあるとすれば、あんたがどうしたいかってことだ」
「あたしが……どうしたいか」
「たくさん悩んでもいい。ただ後悔だけはしない選択をしな」
昔、恋人を亡くしてしまったブランだからか。
その言葉にはとても重みがあった。
クララは胸元に当てた手から力を抜き、顔を上げる。
「うん、そうする。ありがと、ブランさん」
「……今日、あたしとした話はほかの奴にするんじゃないよ」
「はーい」
そうしてにかっと笑って応じたとき。
きぃ、と鳴きながら扉が開けられた。
「ブランさん、いま戻りました」
中に入ってきたのは精悍な顔つきの男だった。
彼はマルセル・バロニエ。
昔、レオの部下だったシュノンツェ出身の挑戦者だ。
「今日もしぶとく帰ってきたかい」
「ええ、まだまだ死ねませんよ」
さすがにこの宿の住民とあってブランの嫌味に対して免疫はあるらしい。
と、マルセルがこちらに気づいたようだ。
「あなたはアッシュさんのところの……」
「えっと……ど、どうも」
アッシュやルナがいないところで話したのは初めてだったこともあり、思わずどもった声で応じてしまった。失敗したな、と思いながら相手の出方を窺っていると、マルセルがなにを思ったか、がばっと頭を下げてきた。
「レオさんとの件ではご迷惑をおかけしました」
「え、えぇ。べつに謝られるようなことなにもされてないと思うんだけど……」
「……ではありがとうございます。おかげで色々と吹っ切ることができました」
あの一件のあと、彼はレオがマスターを務めるギルド――《ファミーユ》に入ったという。詳しい顛末は知らないが、きっと上手く収まったのだろう。そう確信できるほどマルセルの顔はすっきりとしていた。
「マルセルー? 早く用意してきてよー」
またひとり宿の中に入ってきた。
今度は女性の挑戦者だ。
褐色の肌に波打つように腰まで伸びた黒い髪。大きな胸やすらりとした手足、とどこか踊り子のように蠱惑的な色香を持っている。香水をつけているのだろうか、宿の中が一瞬で甘い匂いで満たされた。
彼女は入ってくるなりマルセルの隣に立つと、切れ長の目で威嚇するようにこちらを睨んできた。
「って誰この子?」
「彼女はクララさん。アッシュさんところのヒーラーだ」
「そこって一番強いチームなんでしょ? なのに、こんな小さな子が? ……見かけに寄らずすごいのね」
「こら、失礼だろ」
ずけずけと言われたが、べつに気にはならなかった。
ほかの人より見た目が幼いことは誰より自分が一番わかっているからだ。
マルセルがはっとなってこちらに向きなおる。
「あ、えっと紹介しますね。彼女はナディ。一緒にチームを組んでるメンバーです」
「それと~、マルセルの恋人だったりしま~す」
そんな間の抜けた声とともにナディと呼ばれた彼女はマルセルにキスをした。しかも頬ではなく唇だ。慌てて離れたマルセルによってそれはすぐに終わりを告げたが、彼の唇には生々しく口紅が残っていた。
「お、おいナディ。こんなところでっ」
「ええ、べつにいいじゃんっ。それともなに? 見られて困る相手だったの?」
「そういうわけじゃ……」
見るからに不機嫌なナディ。
対するマルセルはたじたじといった様子だ。
そうして微妙な空気が漂いはじめたとき、すべてをかき消すようにブランの怒声が飛んできた。
「あんたたち、そんなとこでいちゃつくんじゃないよ。ったく鬱陶しいことこのうえないね」
「す、すみません。すぐに用意して出るので。ほら、ナディ。外で待っててくれ」
「はーい。べぇ~」
ナディはブランに舌を出すと、早々に宿をあとにした。マルセルのほうは慌てて2階への階段を上がっていく
そんな中、クララはひとり放心していた。
この場から脱する機会を逃したわけではない。
ただ、初めて目にした唇同士のキスを前に頭が沸騰していたのだ。
……あれが大人の……恋人同士のキス……。
そうして先の光景を自分とアッシュに重ねてしまった瞬間――。
「あぅぁ~~っ」
ばたん、と椅子から勢いよく転げ落ちてしまった。





