◆第一話『知らない世界』
「それは恋だね! うん、間違いないよ!」
その日の夜。
ソレイユの酒場にて。
昼間、アッシュに対するシビラの恋心を目の当たりにしたときに抱いた感情について、クララはマキナに相談に乗ってもらっていた。のだが――。
「ちょ、ちょっとマキナさん、声でかいよっ」
「うわっ、ごめんごめんっ」
10人ほどのソレイユメンバーがこちらを見ていた。その目は総じて興味津々といった様子だ。わざわざ隅の席に移動してもらった意味がまるでなかった。
マキナが愛想笑いで誤魔化したのち、ひそめた声で話しはじめる。
「ほかの人がアシュたんと仲良くしてるのを見て胸が痛くなる……まさしく嫉妬そのもの! 恋の始まりだよっ!」
また出てきた「恋」という言葉。
これまで生きてきた中であまり耳にすることがなかったからか。恥ずかしい話をしている気がしてならなかった。
そんなこちらの気持ちを知ってか知らでか。
マキナがカップをあおってエールを含むと、しみじみと口を開いた。
「にしても、あのララたんがねえ。って、なにか浮かない顔だけど、どうしたの?」
「……迷ってるっていうか、わからないことがあって」
いまだ自分の中で整理できていないことがたくさんある。そんな自分の気持ちを話すことに抵抗はあったが、話さなければ前には進めない気がした。
クララは膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめ、ゆっくりと吐露する。
「アッシュくんのことは好きだよ。あたしが困ったとき、いつも助けてくれるし……なによりこうしていまも島にいられるのはアッシュくんのおかげだし」
「そこまでわかってるなら迷うことなんてないじゃんっ」
前のめりになって顔を寄せてくるマキナ。
その興奮ぶりに気圧されつつ、クララは話を継ぐ。
「でも、アッシュくんってあたしにとってお兄ちゃんって感じだから」
「あ~……たしかに2人を見てるとそんな感じだね」
「だから、その……妹の立場から兄をとられるって思っただけなのかなって」
恋というのははっきりとわからない。
対して親しい人が自分のそばからいなくなったときの寂しい感情は理解できる。実際に幼い頃、家族を失ったときに感じた想いだ。
なるほどねー、とマキナが体勢を戻した。
腕を組んでしばらく思案したのち、話を再開する。
「つまりララたんはアシュたんのことを兄として好きなのか、ひとりの男として好きなのかわからないってことだね」
「うぅ……あらためて言われるとなんだか恥ずかしいけど……うん」
「んもうっ、ララたんはほんと可愛いなぁ」
言って、マキナがにんまりと笑う。
なんだか甘くて美味しいものを食べたような顔だ。
「ま、べつに兄妹仲っていってもほんとに血が繋がってるわけでもないしさ。試しに恋人関係を目指してみるってのもありじゃない?」
「そ、そんなに軽い感じでいいのかな」
「だいじょぶだいじょぶ。それで壊れる関係でもないでしょ」
「だったらいいけど……でも恋人を目指すって言っても、なにをすればいいのかわかんないかも」
「そりゃあ、恋人がすることと言ったらひとつしかないよ」
少し得意気な顔で人差し指を立てるマキナ。
クララは思いついたことを口にしてみる。
「手を繋ぐ……とか?」
「違う違う。キスだよ、キ~スっ。愛を確かめあうには、やっぱりお互いの唇を合わせるのが一番だからね」
言って、マキナは自身の人差し指と中指を口元に押し当てた。そのぷっくりとした特徴的な唇を潰し、やけに艶かしい投げキッスを放つ。
唇と唇。
じっと見ていたマキナの瑞々しい唇が、いつの間にやら記憶の中のアッシュの唇に移り変わった。そこに自身の唇が向かっていく映像が頭の中で流れはじめる。やがて互いの唇が触れようとした、そのとき。
かぁっと顔が熱くなり、映像が途絶えた。
「ありゃ、ララたんにはまだ早かったかな?」
どうしてかはわからない。ただ、とてもいけなくて、恥ずかしいことを想像したような気がしてならなかった。
「にしてもアシュたんはほんと人気だね~。うちのギルドでもアシュたんのこと狙ってる人多いし。わかってるだけでも3……ん~4人はいるかなぁ」
マキナが頬杖をついて店内を見回すと、空いた手で指を折って数えはじめた。
「そ、そんなに……」
「実際はもっと多いと思うけどね。なにしろアシュたんがうちの酒場に来るとみんな面白いぐらい色気づくし。わたしの知らないところでも言い寄ってたりするかも」
まさかそこまで人気があるとは思いもしなかった。
昼間に見た、シビラの幸せそうな笑顔。
あの顔をたくさんの人がアッシュに向けている。
その光景を想像すると、なんだか胸の中がもやっとした。
「いずれにせよ激しい戦いになることは間違いないね、うん。もしかしたら塔を攻略するより難しいかもっ」
――塔の攻略よりも難しい戦い。
塔の1階で長い間行き詰まり、《青塔の地縛霊》なんて言われていた自分に果たして戦い抜けるだろうか。不安でしかたなかった。
「でも、マキナさんってやっぱりすごいね。女のあたしから見てもお洒落だし、かっこかわいいって感じだもん。……やっぱり男性経験も豊富なの?」
「ま、まあね。島の外じゃ歩けば男が寄ってくるからそれはもう大変だったよ。そう、あれは5年前……ジュラル島を目指して旅立とうとするわたしを見送りに10人もの男が駆けつけたことはいい思い出だね」
「じゅ、10人も……すごいっ」
「で、でしょ。あは、あはははっ」
ほめられて照れているのか。
マキナはからから笑うと、カップを口につけた。だが、どうやら空になっていたようで不満そうに中を覗きこんでいる。
「あれ、いつの間に。ちょっとついでくるねー」
マキナがカウンターのほうへと慌しく走っていく。
ひとりになると、なんだか一気に居心地が悪くなった。べつに敵地というわけではないが、親しい人が多いわけでもない。そうして周囲の視線から逃れるように俯いていると、正面に誰かが立った。
「ここ、いいかしら」
彼女は《ヒーラー》のレイン。
マキナチームのお姉さん的存在だ。
「ど、どうぞ……」
「ありがとう」
レインがしずしずと椅子に座った。
あわせて彼女の胸がテーブルに載り、ふにゃりと崩れる。
……何度見てもすごい大きさだ。
そうして見惚れていると、レインがこちらの顔を覗き込んできた。
「マキナちゃんとの会話、少し聞こえちゃってね」
「え……えぇっ」
「あ、でも大丈夫。ほとんど聞こえてないから、そこは安心して」
ふふっ、と柔らかに微笑むレイン。
本当に大人といった感じで余裕たっぷりだ。
「恋愛相談よね」
「そ、そんな感じ……です」
レインは少しばかり困ったようにまなじりを下げた。カウンターでエールをついでもらっているマキナのほうを横目に見ながら、こっそりと言う。
「なにを言われたか大体予想はつくけど……実はあの子、男性経験ないから」
「え、うそっ」
「人一倍お洒落に気を遣ってるのもそれを隠すためだったりするし」
意外も意外だった。
あの垢抜けた風貌から男性経験が豊富なのだと思い込んでいた。実際マキナもそうした風に振舞っていたが……あれはすべて強がりだったということか。
「じゃ、じゃあ教わったことも間違ってたりするのかな」
「なんて教わったの?」
「キ、キスしろって」
「あの子ったら……」
レインが呆れたように息を吐くと、片手で軽く頭を押さえた。
「キスは、しっかりと順序だてて相手との距離が縮まってからね。いきなりだと最悪の場合、嫌われちゃうかもしれないわ」
「そ、それは困るっ」
自分の気持ちはたしかめたいが、アッシュに嫌われることだけは避けたかった。レインの助言をひとつでもこぼすまいとクララは必死になってぐいと前のめりになる。
「でしょう。それにね、距離が縮まったらキスだけじゃ終わらないのよ」
「キスだけじゃ……終わらない」
クララはごくりと唾を呑み込んだ。
いったいその先になにがあるというのか。
「そうね、たとえば――」
レインも顔を寄せ、こっそりと耳打ちをしてきた。
その内容を聞いた途端――。
クララはなにも考えられなくなった。
いや、実際は考えることが多すぎて頭が破裂しそうな感じだった。
後ろから慌しい足音が聞こえてくる。
どうやらマキナが戻ってきたようだ。
「たっだいま~! あれ、レインちゃん来てたの?」
「ちょっとクララちゃんとお話しをしてたの」
「ララたんと? ってどうしたの、ララたん! すごい顔赤いんだけど!? ララた~~んっ!」
聞こえてくるマキナの声がどこか遠くに感じた。
ぼうっとする意識の中、クララは思う。
……大人ってすごい。





