◆第三話『まどろみの底へ』
アッシュは意識の覚醒とほぼ同時に重いまぶたを持ち上げた。眼球がうずくような感覚に見舞われながら何度も瞬いてぼやけた視界を鮮明にさせる。
カーテン越しに射し込む光はない。
どうやらまだ陽は出ていないようだ。
2日かけての塔攻略後とあって疲労はかなり溜まっていた。眠りを妨げるものがなければ朝まで眠ることは間違いないと思っていたのだが……。
そうして違和感を覚えていたところ扉を開けるような音が聞こえてきた。ただ、かなり小さい。近くではなくリビングのほうだ。
クララにここまで音を潜められるとは思えない。
おそらくラピスか、ルナのどちらかだろう。
まだ眠いし、体もだるい。
様子を見にいく必要はないが……。
一度気になってしまうと眠りにつけそうになかった。
アッシュはスティレット、ソードブレイカーの2本を装備したのち、ログハウスの外へと向かった。
◆◆◆◆◆
音が聞こえてから少し間があいていることもあってか、ログハウスを出ても辺りに人は見当たらなかった。
ただ耳をすませば不自然な音が聞こえてきていた。
かん、かん、となにかが石に当たる音だ。
音を辿って森林の中を進んでいく。
やがて音の正体に確証を持てるまで近づいたとき、遠くに人影を見つけた。
アッシュはそばの木の陰に隠れて様子を窺う。
視界の中、ルナがひとり弓を射ていた。
遠くのでっぷりとした岩を目がけ、属性なしの矢を幾度も幾度も当てている。
相変わらず見惚れるほど綺麗な姿勢だ。
引かれた矢からしなった弓までもが体の一部のように見えるほどだった。
ただ、初めて彼女の射撃を見たときほどの魅力はなかった。
見慣れたわけではない。
異物が混じっていたのだ。
ルナの顔は苦しげで苛立ちに満ちていた。
焦っているのがありありと伝わってくる。
それからしばらくの間、ルナは無言で矢を射続けていた。
一射を大事にしようとする気持ちは伝わってくる。
だが、次を射る手は次第に早まっていく。
「アッシュ、いるんでしょ」
ふと弓を下ろしたルナが、こちらを見ずに声を張り上げた。
アッシュはばつ悪く感じながら彼女の前に姿を見せる。
「……気づいてたのか」
「勘かな。アッシュに気づかれずに出るのは難しいだろうなって思ってたし」
「あと少しだったぜ。実際、廊下じゃ気づけなかったしな」
「それは残念。次からもっと上手くやらないとね」
ルナは肩を竦めて控えめに笑うと、また矢を射はじめた。
アッシュは近くの手頃な岩に腰を下ろし、そのさまを見続ける。かん、かん、と矢尻が岩に当たって慣らす音が響きはじめる。朝の静けさを際立てるようで、不思議と聴いていて心地がよかった。
「どうしたんだ、こんな隠れて訓練なんて」
「アッシュってほんと意地悪だよね。わかってて訊いてるでしょ」
「……火力不足か」
「正解」
淡々とした返答だった。
だが、彼女が射た矢はこれまでより大きな音を響かせる。
「昨日の飛竜を落とせなかったことを気にしてるのか? ……言ったはずだ。あれは指示を出した俺の判断ミスだって」
「たとえそうだとしても、ボクの実力が〝あの程度〟だから起こったことだ。ボクがもっと強ければアッシュの判断は適切だった。レオが傷つくことはなかった。みんなに危険が及ぶことはなかった」
ルナが弓を構えながら下唇を強く噛んだ。
弦がいまにもはちきれるのではないか。
そう思うほどに矢が過剰に引かれる。
「血統技術もない。かといってアッシュのように上手く立ち回れるわけでもない。ボクにはなにも、ないんだ……っ」
放たれた矢が風切り音を鳴らしながら虚空を勢いよく進み、岩へと当たった。ルナの悲痛な叫びとは裏腹に矢はか細い衝突音を鳴らし、地面に落ちる。
ルナの言葉を否定するのは簡単だ。
ただ、彼女がそれを求めていないことは痛いほど伝わってきた。
「パン屋が開くまでまだ時間がある。もう少しここにいてもいいか」
「……うん」
アッシュはもどかしく感じながらも、その後もルナの訓練を静かに見守った。
◆◆◆◆◆
3日後。赤の塔78階を2日かけて攻略したこともあり、チームとしての活動を丸一日休みにしていた。
アッシュはのんびり目にログハウスを出たのち、委託販売所へと入った。
朝一番ではないが、15人ほどが掲示板の前に群がっている。
と、端のほうに見覚えのある2人組が目に入った。
ひとりは左頬に切り傷のある巨躯の男。
もうひとりは怜悧な顔立ちに長身痩躯の男。
《レッドファング》のベイマンズとロウだ。
彼らもこちらに気づいたようだ。
ベイマンズが手を上げ、ロウが笑みを向けてくる。
「よう、アッシュじゃねえか。狩りは昼からか?」
「いや、野営明けで今日は一日休みだ」
そう応じながらアッシュは違和感を覚えた。
彼らといつも一緒にいるはずの人物が辺りを見回してみてもいなかったのだ。
「ヴァンの奴はどうしたんだ?」
「それが行き先も言わずに消えちまってよ。俺たちにもわからねえんだ」
ベイマンズは舌打ちを挟み、続ける。
「《ナイトウォーカー》を使ってまで消えやがって。あの野郎、絶対やましいことがあるに決まってる」
「まあ、ヴァンにも私用のひとつやふたつあるだろう」
憤るベイマンズを苦笑しつつなだめるロウ。
ベイマンズに隠す用事と聞いて、真っ先に思い浮かんだのは女性との逢引だ。もしかするとヴァンはドーリエとデートをするために行方をくらましたのかもしれない。……その可能性は大いにありそうだ。
「そういえば……8等級階層は順調か?」
空気を入れ替えんとしてか、ロウがべつの話題を振ってきた。
「ああ、いま平均77階ぐらいだ」
「相変わらずの早さだな。わたしたちのときは年単位で攻略していたというのに」
「こっちは5人揃ってるってのもあるんじゃないか」
「だとしても、そう早く攻略できるものではない」
ロウが呆れつつどこか柔らかに笑んだ。
こちらの実力を認めてくれている。
それが伝わってきて悪い気はしなかった。
ふんっと鼻を鳴らしつつ、ベイマンズが挑戦的な笑みを向けてくる。
「ま、いやでも80階で止まることになるだろうけどな」
「みんなが手を焼いてるっていう魔物がどんな奴か、いまから楽しみでしかたないな」
勝ち気な笑みで応じた、そのとき。
「なんだよこれ。めちゃくちゃ高騰してるじゃねぇか!」
「誰か買い占めやがった!」
「くっそ。今日挑戦すれば絶対いける気がすんのに!」
掲示板のほうから悪態をつくような声が幾つも聞こえてきた。
アッシュは目を細めて掲示板のほうを見やる。
「属性石、8000ジュリー以下が売り切れてるのか」
「お前んとこの、あーなんて言ったか」
腕を組んで唸りはじめたベイマンズにロウが嘆息しつつ答える。
「ルナ・ピスターチャだ」
「あーそうそう、そのルナってのが買いまくってたんだよ」
「……ルナが?」
いやな予感がしてならなかった。
アッシュははやる気持ちを抑えながら問いかける。
「それ、いつのことだ?」
「いつってお前がくる少し前だ――って、おい、アッシュ!?」
アッシュは聞き終えるよりも早く駆け出していた。
委託販売所を飛び出し、鍛冶屋へと急いで向かう。
あまりに必死な顔をしていたからか。すれ違う挑戦者から奇異の目を向けられたが、いまはそんなことを気にしている場合ではない。
鍛冶屋前にくると、中に銀髪の挑戦者がいるのを見つけた。全体的に細身で、むき出しになった肩は雪のように白い。防具は《レガリア》シリーズの軽装――。
間違いなくルナだ。
「ルナッ」
アッシュは急いで鍛冶屋内へと駆け込んだ。
受付に向かっていたルナが振り返り、首を傾げる。
「あれ、アッシュ? どうしたの、そんな焦って」
「さっき委託販売所で聞いたんだ。ルナが属性石を買いまくってたって」
「……そっか、知られちゃったんだ」
そうルナがぼそりと呟いたときだった。
ガンッと重い音が響いた。
鍛冶屋のミルマが大窯のレバーが引き上げたのだ。
ミルマが大窯の戸を開け、中から取りだした得物――弓を持ってくると、少し呆れたように受付に置いた。
「今回も失敗だ」
空いた8個の穴には1個も属性石が埋まっていない。
ルナが弓を手に取り、力ない笑みを向けてくる。
「あはは……どうしよう。これ14回目なんだよね。お金、もうほとんど残ってないや」
ざっと計算しても100万ジュリー近い。
歯止めが利かなくなってしまったのか。
衝動的な挑戦にしてはあまりに大きすぎる損失だ。
属性石を出そうとしているのか、ルナがポーチを漁りはじめる。
「ごめん。でも、あと1回。あと1回だけ挑戦させて。そうすれば今度こそ――」
「もうやめておけ」
アッシュはルナの細い腕を握って制止した。
ルナがこちらを見ずに低い声で抗議してくる。
「止めないでアッシュ。オーバーエンチャントをして火力を上げないと……ボクはずっと役立たずのままで……」
「落ちつけ、ルナっ!」
アッシュは彼女の両肩を掴んだ。
こちらに向きなおさせ、しかと目を見据える。
彼女の瞳は揺れ、怯えていた。
仲間の誰ひとりとしてルナのことを役立たずだとは思っていない。ただ、いまのルナはそんなことを信じられない状態にあるのだろう。
まさかここまで思いつめていたとは。
いつも冷静で物事を広く見ているルナなら大丈夫だ。
きっとひとりでも解決できる。
そんな思いを勝手に抱いていた。
だが、違ったのだ。
「それで、どうするの? こっちとしてはそんな辛気臭い感じで頼まれるとやる気が出ないってのが本音だ」
「悪い。もう終わりで頼む」
アッシュは鍛冶屋のミルマにそう告げると、ルナを外に連れ出した。
彼女は叱られた子どものようにうな垂れている。
支えていなければ倒れてしまいそうなほど生気も感じられない。
こんな状態のルナを放ってはおくわけにはいかなかった。
幸い今日は休みだ。
なにができるかはわからないが、彼女と一緒にはいられる。
「ルナ。今日1日、俺に付き合え」





