◆第十話『大事なもののために』
ラピスが声をあげ、クララを突き飛ばした。
おかげでクララは毒液の進路から外れたが、代わりにラピスが右肩に受けてしまう。しかし、その肌がおかされることはなかった。《スコーピオンイヤリング》が毒を無効化したのだ。
ただ、問題はそのあとだった。
小型の飛竜が決死にも思える突撃をしかけてきたのだ。
ラピスが必死に身をよじって躱そうとする。が、あまりに体勢が悪かったため、完全回避とはいかなかった。彼女の首元近くの防具を削られた。《フェアリー》シリーズの鮮やかかつ幻想的な布地が舞い散る。
幸い肉を抉られることはなかったが、敵の爪がラピスのつけていた首飾りに引っかかった。紐がぷちんとちぎれ、その先端についていた瑠璃色の結晶が宙を舞う。
彼女は慌てて手を伸ばすが、空振りに終わった。
瑠璃色の結晶はからんからんと音をたてて大穴のほうへと落ちていく。
ラピスが大穴に身を乗り出して手を伸ばそうとしていた。アッシュは急いで駆け寄り、彼女の手を握って引き寄せる。
「ラピスッ! 落ちるぞ!」
「でも……ッ」
悔しげな声をもらすラピス。
すでに瑠璃色の結晶は見えない。
視界の端で幾本もの矢を受けた小型の飛竜が墜落し、大穴の霞の中に消えていくのが見えた。どうやらルナが排除してくれたようだ。
クララがラピスに駆け寄る。
「ラピスさん、大丈夫!?」
「……ええ。大丈夫。少し防具を削られただけだから」
そう返したラピスの表情は暗いままだ。
瑠璃色の結晶が落ちた先――大穴の底をずっと見ている。
その異様な様子を見て、クララがおそるおそる口にする。
「もしかして……大事なものだったの?」
「母親の形見らしい」
アッシュは代わりに答えた。
途端にクララが悲痛に顔を歪ませる。
「そんな……あたしのせいで……いますぐ取りにいかないと。アッシュくんっ」
「言われるまでもないな」
もとよりそのつもりだ。
ラピスがすがるような目を向けてくる。
「……いいの?」
「いいもなにも、いかない理由がないだろ。ただ、問題はどうやって下りるかだが――」
「あそこに下におりられそうな道があるよ」
そう言ったのはレオだ。
彼が指差した先、左方の縁から下へと続く坂があった。
あそこからなら無理をせずに穴を下りられそうだ。
「ほら、行くぞ」
アッシュは意気消沈したラピスを立たせたのち、仲間とともに穴の底を目指して歩きだした。
◆◆◆◆◆
長く続いた霞がかった地帯を抜けると、ようやく底が見えてきた。
全員で足を止め、坂の縁から覗き込む。
試練の間3、4個分はあるかというぐらい広い場所だ。なにやらさんごのような紫色の物体が地面のあちこちから生えている。
遠いので正確にはわからないが、高さは人間と同じぐらいか。時折、呼吸をするように紫色の瘴気を吐き出している。塔の特性からして毒で間違いないだろう。
「あった、あそこっ!」
クララが弾んだ声をあげた。
彼女の指差した先――手前の壁周辺に生えていた毒さんごのてっぺんに青く煌くものが載っていた。間違いなくラピスの首飾りについていた瑠璃色の結晶だ。
ラピスが目に色を戻し、走り出そうとした、そのとき――。
底に大きな影が差した。
アッシュは怖気のようなものを感じながら、とっさに影を追って見上げる。と、くすんだ銀の肌を持った飛竜が映り込んだ。
ほかの飛竜と基本的な形状は同じだ。大きさもほとんど変わらない。だが、明らかに違う点が1つだけあった。尻尾がなく、代わりに正面と同じ頭が生えているのだ。
双頭の竜はその大きな翼をゆるやかに動かし、底に下り立った。興奮したような咆哮をあげたのち、瑠璃色の結晶が乗っていた毒さんごを呑み込んでしまう。
「た、食べられちゃった……」
「そんな……」
クララが顔を引きつらせ、そばではラピスが絶望したように膝ついていた。
双頭の竜は毒さんごの咀嚼を終えると、まるでまずい部分を吐きだすかのように紫色の液体を吐き出した。凄まじい量で、広い穴の底の半分を覆い尽くしてしまう。
やがて干からびるように毒液が消滅すると、双頭の竜はまたべつの毒さんごのもとへ向かってのしりのしりと歩きだした。
「……レア種か」
正規ルートから外れた場所を棲家にしている魔物だ。間違いないだろう。
「飛竜や地竜が大きいから、小型が中型かわからないね」
「いずれにせよ、見るからにやばそうな敵だね」
レオに続いてルナがそう口にすると、揃ってごくりとつばを呑み込んでいた。どうやら異質な敵を前にして体がこわばっているようだ。
「諦めましょう」
そう口にしたのはラピスだった。
きっと彼女も敵の強さを悟ったのだ。
クララが「でもっ」と声をあげるが、遮るようにラピスが首をゆっくりと振った。
「8等級のレア種は、これまでのレア種とはわけが違う。たぶん、ほかのチームもまともに狩ったことがないと思う」
穴の底でいまもさんごを食べる双頭の飛竜を見ながら、ラピスは力なくこぼす。
「それに……あんな毒を吐く相手よ。もう溶けてる可能性が高いわ」
たしかにラピスの言うとおりかもしれないが……。
ルナが真剣な顔で問い詰めるように訊く。
「ラピスはそれでいいの?」
「……命には代えられないわ。きっと母も許してくれる。だって大切な仲間を助けられたんだもの」
ラピスがおもむろに首飾りのあった胸元を右手で握りしめると、すっと手を開いた。静かに息を吐いたのち、ゆっくりと立ち上がる。
クララが目を潤ませながら震えた声をこぼす。
「……ごめんなさい。あたしのせいで」
「気にしないで。本当に大丈夫だから」
ラピスが普段は見せないような柔らかな笑みをみせて応じる。ただ、それが強がりであることは誰が見ても明白だった。
「あいつを倒して取り返そう」
アッシュは端的にそう言った。
ラピスが信じられないとばかりに目を瞬かせる。
「……わたしの話、ちゃんと聴いてたの? 8等級のレア種は――」
「だからどうした。ほかのチームでもまだ狩ってない敵だから諦めるのか?」
こちらの淀みない言葉にラピスが気圧されたように口をつぐんだ。
アッシュは横目で双頭の竜を確認しながら言う。
「俺もあれはかなりやばい奴だとは思ってる」
「だったら――」
「でも、大切なものなんだろ」
理由はそれだけで充分だ。
「……でも」
いまだに踏み出そうとしないラピスをよそに、アッシュはほかのメンバーに問いかける。
「俺は行く。みんなはどうする?」
伝わってくる威圧感から敵が並大抵の強さでないことはわかる。間違いなく難しい戦いになるだろう。ここで仲間が拒否しても無理はない。
最悪、ひとりでも挑むつもりだったが――。
「あたしも行く」
クララが決意に満ちた顔で声をあげた。
アッシュは思わず目を見開いてしまう。
「珍しいな。いつもなら帰ろう帰ろうって言うのに」
「ほ、本当はそう言いたいけど、こうなったのもあたしのせいだし……でも、そういうの抜きにしても、ラピスさんの大事なものなら取り返したい」
クララなりに考えた結果のようだ。
そんな彼女に続いて、ルナとレオも武器を構えて1歩前に出てくる。
「無謀だって止めたいところだけどね。でも事情が事情だ。付き合うよ」
「あの毒はさすがの僕でも刺激が強そうだけど……でも、僕はみんなの盾だからね。もちろん参加するよ」
2人とも先ほどまで恐れを抱いていたとは思えないほど勇ましい顔つきだった。
――仲間のためなら。
その理由だけでどんな強敵とも立ち向かえる。
アッシュは改めて思う。
本当に最高の仲間たちだ、と。
「ラピスが乗り気じゃないのは俺たちを心配してくれてるからだろ。けどな、俺たちはもっと強い神を倒そうってんだ。こんなところで足踏みしてたら、ついてこられないぜ」
言って、アッシュは勝ち気な笑みを浮かべた。
ラピスが驚いたように目を見開いたかと思うや、俯いてしまう。
「……本当になにも変わってないのね、あなたは。いつだって、そうやって……前ばかりを見て……でも、だからこそ――」
ぎゅっと手に拳を作りながら、彼女はぼそぼそと呟いた。大きく息を吐いたのち、気持ちを入れ替えるように震えていた唇をきゅっと結び、がばっと顔をあげる。
「お願い、みんな。わたしのために力を貸して」
そこにはもう先ほどまでの弱気な彼女はいなかった。
いるのは戦士のラピス・キア・ヴァルキッシュだ。
アッシュは仲間とともに力強く頷いた。
もう憂いはない。
背負ったハンマーアックスを手にし、いまも穴の底にいる未知の強敵――双頭の竜を睨みながら声をあげる。
「よし、行くぞ……!」





