◆第九話『久方のソレイユの酒場』
本日の狩りは竜種との慣らし戦闘に留め、突破は翌日に持ち越しとなった。そして迎えた夜。アッシュは夕飯後、ヴァネッサに用があってソレイユの酒場に来たのだが――。
「アシュたん、ちゅっちゅしよーっ」
案の定、マキナに抱きつかれていた。
彼女に酒が入ったときはいつもこうだ。
いまも近づいてくる、酒で瑞々しさを帯びた彼女のぷっくりとした唇。そして漂ってくる、彼女自身のものと香水が混ざり合った甘い匂い。
男として魅力を感じないわけではないが、口を思い切り突き出した顔があまりに間抜けで劣情を催すことはいっさいはなかった。
彼女の額に手を当てたり、上半身だけを動かしたりして適当にいなしていると、駆け寄ってきたユインがマキナの腰をがしっと掴んだ。
「離れてください、この酔っ払い……っ!」
「べつにいいじゃんー。減るもんじゃなしー」
諦めずに近づこうとしてくるマキナだったが、「あっ」と声をあげてぱっと離れた。
「そっか。ユインちゃんもちゅっちゅしたいんだ。じゃあ、お先にどうぞ!」
「え、え……!?」
「おい、なに勝手なこと言ってんだ」
こちらの意見を無視してマキナが話を進め、ユインを前に押しだしてきた。ほかのソレイユメンバーから向けられる視線を一身に浴びながら、ユインが煙をあげそうなほど赤面する。
「こ、こんなみんながいるところでなんて……っ」
「なにー、人がいないところだったらするのー? って、うわぁっ」
ユインがほぼ無造作でマキナに殴りかかった。間一髪で躱したマキナだったが、あまりに鋭い一撃だったこともあってか焦りに焦っている。
「ちょ、ちょっとユインちゃん本気すぎ! いまの本気だった!」
「今日という今日は永遠の眠りにつかせてみせます……!」
そうして酒場内で始まったユインによるマキナ狩り。幾人かのソレイユメンバーは囃したてながらエールを片手に観戦をはじめる。
これもまた最近では普段どおり。
アッシュは呆れ半分、面白半分でエールをぐいとあおる。
と、隣にローブ姿の挑戦者が立った。一見して酒場とは不釣合いなほど清廉な空気を纏った彼女はソレイユの幹部――オルヴィだ。
「まったく、喧嘩をするなら外でしてくださいとあれほど……アッシュさんが困っているではないですか。ささ、アッシュさん、どうぞこちらに」
マキナたちの喧騒が聞こえてくる中、にこやかな笑みを浮かべながら、彼女が隅の席へと移動を促してくる。と、ちょうどユインの攻撃を躱したマキナが、こちらを指差しながら大きな声をあげる。
「あーっ! なにしれっと2人きりになろうとしてるんですかーっ」
「べ、べつにわたくしはそんなつもりでは」
「……ずるいです……オルヴィさん……っ」
マキナに続いてユインにまで責められ、たじろぐオルヴィ。だが、吹っ切れたように眉を逆立て、大きな声で応戦を開始する。
「だ、大体あなたたちがいけないのです! いつもアッシュさんを独占して! わ、わたくしともお話しを――」
始まった。
そして、やはりこれもまたいつものことだ。
アッシュは動じることなくエールを飲んでいると、視界の端で手招きをする女性が映った。マキナチームのお姉さん的存在のレインだ。
「こっちこっち」
笑顔でこっそりと声をかけてくる。誘われるがまま彼女の席へと移動すると、同席していたザーラがエール満杯のカップを手渡してくれる。
「ほら、飲みな飲みなー」
「お、悪いな」
マキナたちから距離をとったので、当然ながら耳にきんきんと響いていた声も遠ざかった。これで静かに酒を楽しめるというものだ。
いまもなお言い合い中のマキナたちを眺めながら、レインがのほほんとした口調で言う。
「賑やかねー」
「ほんとソレイユはいつも楽しそうだな」
明るいという意味ではソレイユほど元気なギルドはないだろう。あれほど言い合いができるのも、きっと仲がいいからだ。
そんなことを思ったとき、またもマキナが酒場内に行き渡るほどの大声をあげた。
「あーっ、今度はレインちゃんが抜け駆けしてる!」
「レインさん、あなたまで……!」
「あらあら」
……きっと仲がいいからだろう。
◆◆◆◆◆
狩りのあととあって疲れもあったかもしれない。
騒いでいたのも最初だけで早々に多くのものが酔い潰れた。
アッシュは機を見て酒場の外に出る。
入口前の段差に座って待っていると、後ろで扉が開く音がした。足音や空気感から見なくともわかる。ソレイユのマスター、ヴァネッサだ。
彼女は階段脇の手すりによりかかると、少し困ったように笑った。
「悪いね、うちの子たちに付き合ってもらって」
「いや、俺も楽しませてもらってるから問題ない」
「アッシュがくると目に見えて元気になるからねぇ。どうだい? うちに来るって話、考え直してみる気はないか?」
微笑を浮かべながらのさりげない勧誘。
だが、その目は本気だった。
アッシュは肩を竦めて応じる。
「勘弁してくれ、島中の男から背中を狙われそうだ」
「それでやられるようなタマじゃないだろう」
ヴァネッサが残念そうにため息をついた。
どうやら今回は引いてくれたようだ。
「悪くないなって思うときはあるけど、やっぱり俺はチームでの狩りに専念したい」
「……あんたらしいね」
「ま、レア種の狩りとかならいつでも協力するぜ」
「そのときはよろしく頼むよ」
いつかリッチキング戦のリベンジもしたい。
――もちろん《ラストブレイブ》を使わずに。
「71階行ったんだろう?」
「まだ入口だけどな。ただ野営道具を買ったから明日から本格的に攻略開始だ」
「後半になってくると突破に3日以上かかったりするから覚悟しておきな」
「やっぱ長くなってくるのか?」
「いいや、それだけ魔物の出現率が高いってだけだ。ちなみにあたしらは71階に踏み入ってからすべての塔で80階まで到達するのに3年かかったよ」
「……それは楽しみだな」
3人という少数であるのも理由だろうが……。
ヴァネッサたちほどの挑戦者で3年。
やはり8等級階層はこれまでとは別物と考えたほうがよさそうだ。
優しげな夜風が吹いた。
ヴァネッサがなびいた自身の髪をかきあげる。
「……こうしてるとリッチキング戦のあとを思い出すね」
「そんな懐かしむほど昔じゃないだろ」
「あんたたちがありえない早さで上がってくるからね。思った以上に長い時間が経ったように感じるんだよ」
彼女は呆れ半分にそう言うと、すっと目を細めた。
優しげな声で問いかけてくる。
「それで今日はどうしたんだい? なにか話があってきたんだろう」
「気づいてたか」
「少なくない酒を飲み交わしてるんだ。顔を見ればそれぐらいわかるよ」
言いながら、ヴァネッサが片手でカップを傾けるしぐさをしてみせた。夜だけに限定すれば、彼女とはレオと並んでいまやもっとも長い付き合いだ。表情ひとつで悟られるのはくすぐったいが、悪くはない気分だった。
「実はラピスから本当は長剣を使えるんじゃないかって訊かれたんだ」
「あたしは言ってないよ」
「わかってる」
ヴァネッサが約束を破るような人間でないことは充分に理解している。だからこそわからなかったのだ。どうして、ラピスが〝長剣を使えるのか〟という言葉を出したのか。
「ただ、この島ではリッチキング戦以外で使ったことはないんだよな」
「そもそも、ラピスがどうしてリッチキング戦のことをあれほど気にするのかも謎だからね。単純な興味の域を越えてる」
そこまで言い終えてから、ヴァネッサがなにか思い出したようにはっとする。
「アッシュ……あんた生まれたときからあの血統技術、発動してたのかい?」
「いや、あれが発現するのは12歳からだ。詳しい理由はわからないが、前に話した〝たったひとりの英雄〟……俺の先祖が初めて剣を持ったのがその歳だからって言われてる」
「それまで使ったことは?」
「むしろそれまでほとんど長剣がメインだ」
「使えなくなるのがわかっていたんだろう? どうして」
「さあな。ただ親父に言われたんだ。絶対に必要になるときがくるってな」
父親の真意はわからない。
ただ、これだけははっきりと言える。
長らくまともに使っていないいまでも、〝長剣がもっとも得意だ〟と。
ヴァネッサがあごに指をあてて少し思案したのち、おもむろに顔をあげて訊いてくる。
「もしかしてラピスの待ち人ってアッシュのことじゃないかい?」
「どうしてそうなる。……って、ヴァネッサもそのこと知ってたのか」
お世辞にもお喋りとは言えないラピスのことだ。そういった自分のことは他人にあまり話していないと思っていただけに意外だった。
「昔、あたしがラピスを誘ってたのは知ってるね」
「いまもだろ」
「しかたないだろう。あの子、危なっかしいからね」
「それについては同感だ。この前、過労で倒れそうになってたところに出くわしたんだ。俺たちが偶然とおりかかったからよかったものの、あのままなら間違いなく死んでだな」
「ったく……そういうことがあるからひとりは危ないんだよ」
ラピスもひとりで狩ることの危険性は理解していたはずだ。おそらく彼女の中で生まれた感情――〝待ち人と見合う強さを手に入れなければならないという焦り〟に判断力をそがれてしまったのだろう。
「まあ、話を戻すけど……あたしがあまりにしつこく勧誘するからか、理由を話してくれたんだよ。ある人を待ってるってね。そのときに幾つか聞き出したんだ。歳は同じか少し上ぐらいで、かなりの剣の使い手だったって」
――あんたじゃないのか。
そんな目をヴァネッサが向けてくる。
「っても、ラピスとの接点なんて……」
言いながら記憶の中で漁りはじめると、ひとつだけ引っかかるものがあった。彼女の名前にも入っているキアという地名だ。
「……まさかな」
「あるのかい?」
ヴァネッサも気になるのか、珍しく食いついてきた。
「実はラピスの出生地――キアに試練の塔を攻略するために行ったことがあるんだ。そんときに同い年ぐらいの奴に会ったのは覚えてる」
「じゃあ、それがラピスじゃないのかい?」
「けど、そいつ男の格好してたぜ。髪も長くなかったし、槍も持ってなかった。なによりずっと泣いてた。とても戦士って呼べる感じじゃなかったぞ」
防人なんてことを言っていた気はするが……なにぶん大分昔の話だ。さすがに一言一句覚えてはいない。その子どもの人物像もうっすらとぼやけて覚えているのが現状だ。
「子どもの頃の話だろう。そのぐらいあったら変わるには充分な時間だよ。まあ、勘違いって可能性も捨てきれないけどね。いずれにせよ、ラピスに確認すれば解決だろう」
「ってもな。どう確認するか」
昔に会ったことがあるか。
なんて口説き文句のような言葉しか思いつかない。
と、ヴァネッサがにやりと笑いながら言う。
「俺がお前の運命の人だ、って名乗り出ればいいんじゃないかい」
「槍で刺されそうだな」
「案外、抱擁されるかもね」
「……まずありえないな」
ラピスが心優しい人間であることは理解している。だが、やはり普段からつんけんしているせいで彼女がそんなことをしてくる光景がまったく想像できなかった。
「真面目な話、ラピスは〝長剣を持った強い人間を待ってる〟わけだ。〝長剣を持てない人間〟じゃ確認にはならない。リッチキング戦のこと――あの《血統技術》のことを話す必要があるだろうね」
「そう、だな」
こちらが詰まり気味に答えたからか。
ヴァネッサが顔を覗き込むように首を傾げる。
「なにか引っかかることでもあるのかい」
「前にも話したよな。たぶん、あの力なら100階までは到達できる。そんな力を持ってるにもかかわらず使わないってのは……なんつうか、やっぱちょっとな」
「……後ろめたい、か。自我を失ううえに仲間を傷つける可能性があるんだ。しかたないだろう」
その言葉は以前、自ら話した理由でもあった。
アッシュは自身の右手を見つめたのち、ぐっと握りしめた。
「もし自分から話すならラピスよりも先にクララとルナ、レオに話しておかないとな」
「それが賢明だね」
友人として優劣をつけるわけではない。
ただ、戦闘に関係することはチームを優先するべきだと思ったのだ。
と、ヴァネッサが悔しがるようにため息をついた。
「2人だけの秘密って響きは好きだったんだけどねえ……残念だよ」
「なんだ、拗ねてるのか?」
「ああ、そうさ」
「……えらく素直だな」
「ま、拗ねるってより焦るってほうが正しいかもしれないね。なにしろあたしがライバルだって認めた女がアッシュ争奪戦に参加するんだからね」
言葉ほど残念がっているようには見えない。
むしろ歓迎しているかのようだ。
しかし、それよりも――。
「まだ決まったわけじゃないだろ」
「あの子はずっとあんたのことを気にかけてたからね。きっと最初っから……心の中ではそうだって思ってたんじゃないか」
言って、かすかに眉尻を下げて微笑むヴァネッサ。
その目はすべてを悟ったかのように澄んでいた。
「さてと、飲みなおすとしようかね」
湿りはじめた空気を吹き飛ばすようにヴァネッサが快活な声をあげた。手すりから離れ、彼女は酒場の扉に手をかける。
「もちろん付き合ってくれるだろ?」
「こっちは明日朝早いからな。ほどほどにしてくれよ」
「わかってるさ。ほどほどにね」
話に付き合ってもらった礼もある。
多くの者が酔いつぶれた酒場の中、アッシュは〝ほどほど〟にヴァネッサと静かに酒を飲み交わした。





