◆第五話『キアの防人』
ラピス・キア・バルキッシュは夢を見ていた。
穏やかな風にあおられ、ゆらゆらと揺れる背の短い雑草たち。そばにはちろちろと流れる小さな川。
この緑豊かな場所は東方大陸ルージャン王国の辺境――キアだ。
生まれ故郷でもあり、人生の多くを過ごした土地でもある。
懐かしい感情が胸中に満ちはじめたとき、どこからかすすり泣く声が聞こえてきた。視線を巡らせると、川沿いに座ってすすり泣く少女が映り込んだ。
肩にかかるほどの長さの金色の髪を小刻みに揺らしながら、ごしごしと目に腕をこすりつけて涙を拭っている。
どうして彼女が泣いているのか。
その理由を知っている。
なぜなら彼女は自分だからだ。
――これはたしか……ずっとずっと昔。9歳の頃の記憶だ。
「どうして泣いてるんだ?」
ふと後ろからそんな声が聞こえてきた。
少女――ラピスはまた滲んだ涙をひとこすりしたあと、おもむろに顔をあげて声の主を見やる。
「あなた、誰?」
歳は同じか、少し上ぐらいの少年がそばに立っていた。質素な服装や口調からか、なんだか荒々しい感じを受けるが、いやな感じはしない。
腰には鞘入りの剣を携えている。
正統的な長剣のようだが、その長さは彼の背丈に似合った短さだ。
「俺? 俺は通りすがりの挑戦者だ」
「挑戦者は、試練の塔を制覇しないと名乗れないんだよ」
「それなら問題ないな。だってもう制覇してるからな!」
少年は勝ち誇るように胸を張る。
試練の塔は屈強な大人の戦士でも制覇できるかわからない難度なのだ。こんな……まだ自分とそう歳も変わらない子どもが制覇できるところではない。
「嘘ついたら夜な夜な塔の中に入れられるんだよ。それでゴブリンに頭かちわられるってお父さんが言ってた」
「お、お前の父ちゃん、なかなか過激なこと吹き込んでるな……」
彼は困惑しつつ片頬を引きつらせていた。
「まあいいや。それよりもっかい訊くけど、どうして泣いてたんだ?」
「……誰にも言わない?」
「言うもなにも、俺ここに知り合いいねぇしな」
キアの村は100人程度しかいない。
だから全員の顔は把握している。
たしかに彼を見たことはない。
先ほど言っていた〝通りすがり〟というのもきっと本当のことだろう。
いずれにせよ、いまは誰かに知ってもらいたかった。
そうすればこの悲しい気持ちが薄れると思ったのだ。
「わたしのおうちね、この塔の防人をしているの」
「なんだそれ、初めて聞いたな」
「塔にね、むやみに人が立ち入らないように見張る人のことだよ」
少年は「へぇ」と納得したように頷いた。
「でもわたし弱いから……強くならないといけなくて……だから、塔の魔物を相手に訓練をしようと思ったの。でも、敵が強くて……すぐに逃げてきたんだけど、そのときに塔の中にお母さんのペンダントを落としちゃって……」
話しているうちになくしたときの悲しい気持ちが再びせり上がってきた。あれはただのペンダントではない。母の形見でもあるのだ。
少年が組んだ両手を頭の裏にもっていきながら少し考える素振りを見せる。
「ん~……親も防人って奴で強いんだろ? だったら言って、取ってきてもらえばいいんじゃないのか?」
「そ、それはだめっ」
「どうしてだ?」
「それは……」
ただでさえ泣き虫だと思われているのだ。
これ以上落胆させたくはなかった。
こちらが返答に困っていると、彼はこちらに背を向けて歩きだす。
「とりあえず、そのペンダントがあればいいんだな。ちょっと待ってろ」
「え、どこ行くの?」
「決まってるだろ。試練の塔だよ」
あっけらかんとそう言って、少年はそのまま近くに聳える試練の塔の中へと入っていった。ラピスは少しの間、ぽかんとしてしまっていたが、慌ててあとを追いかけ、彼に続いて中に入る。
「だめーっ! 早く引き返して!」
「なんだ、お前もついてきたのか」
「ここは子どもが入るようなところじゃないのっ!」
「子どもってお前も子どもじゃん」
「わ、わたしはっ、防人はいいのっ」
自分勝手な理由だとはわかっているけれど、魔物を相手にして負けたら最悪怪我ではすまないのだ。
ラピスは彼のもとまで駆け寄り、その腕を必死に引っ張る。が、びくともしなかった。まるで大地に根づいた木のようだ。
「なあ、防人ってそんな怖がっててつとまるものなのか?」
どうやら彼の腕を掴んだ手から震えが伝わっていたようだ。ラピスは慌てて手を引っ込め、目をそらしながら答える。
「……だめだと思う」
「じゃ、もっと気楽に行こうぜ。そのほうがきっと上手くやれる!」
からっとした、屈託のない笑みだった。
なんの根拠もないのに彼の笑顔にはそうだと思わされるような、不思議な力があった。
ラピスは思わず目をぱちくりとしてしまう。そうして彼のことを見ていると、その背後から緑の小さな人型魔物――ゴブリンが飛びかかろうとしているのを捉えた。
「後ろっ!」
叫んだのが先か、あとか。
視界の中で銀の煌きが走り、気づいたらゴブリンの頭が飛んでいた。さらに後ろから追加で走ってきたゴブリンの腹に少年が剣を刺している。まるで動きを追えなかったけれど、彼が一瞬にして2体のゴブリンをしとめたのは明白だった。
「ま、こんなもんだよな」
少年がゴブリンの腹から剣を引き抜くと、ゴブリンの首を淡々と斬り裂いた。人によってはこの光景を残酷だと思うだろう。だが、あまりにも見事な剣さばきにラピスは思わず感嘆してしまった。
「……すごい」
長年、防人を務めてきた父と同じぐらい強いかもしれない。
いや……おそらくそれ以上だ。
「あなた、強いんだね。剣も、こんなに使える人、見たことない……!」
「まあな。俺に剣を持たせたら千人力だぜっ」
少年は先ほど塔を制覇したと言っていた。嘘だと決めつけてしまっていたが、これほど圧倒的な強さを見せられたら信じないわけにはいかない。
彼は剣を鞘に収めたのち、右手にぐっと拳を作る。
「でも、まだまだだ。もっと強い奴はいるし、もっと強い魔物もいる。そいつら全員に勝つぐらい強くならねぇと。目指してるところには辿りつけねぇからな」
「目指してるところ?」
「ああ、ジュラル島に行って五つの塔を制覇するんだ。そんで神と戦って……勝つ!」
ジュラル島を目指す者なら口にしておかしくないことだ。ただ、その先には必ずといっていいほど、褒美である「神に叶えてもらえる願い」が透けて見える。
だが、彼にはまるでそれが感じられなかった。
きっと純粋に戦いを楽しんでいるのだ。
「でも、たくさんの人が挑んでるのに、まだ誰も制覇できてないってお父さんが言ってたよ」
「だからって挑む前から諦めるのは違うだろ」
彼の言葉は真っ直ぐすぎる。
これで口をつぐんだのは何回目だろうか。
「お、あれか?」
ふと彼がそんなことを言って、少し進んだ先の隅で屈んだ。彼が取ってきたものを掌に載せて見せてくる。切れた紐の先に、親指程度の大きさの深い海色をした結晶がついていた。間違いない。
「お母さんのペンダント……っ」
「ほんとに入口付近だったな。ほら」
少年がにっと笑いながら、しっかりと手に握らせるようにして渡してくれた。
「大切なものなんだろ。もう落としたりするなよ」
「ありがとう……本当にありがとう……!」
ラピスはペンダントを両手で握りしめながら胸に抱いた。紐は切れてしまったけれど、結晶のほうは壊れることなく無事に戻ってきてくれた。それだけで充分だった。
幸せな気持ちで胸中が満たされたとき、見えていた視界が薄れはじめた。気づけば少年の姿も、塔の壁も見えなくなっている。
きっと夢の終わりがきたのだろう。
断片的にしか覚えていないことも多かったのに、いまになってこれほど鮮明に思い出すなんて、いったいどういうことだろうか。
とくに少年の手の感触はとても鮮明だった。
ごつごつしているわけでもないのに、なんだかとても安心するような力強さを持っていて……いまも握っているような、この手のように――。
ラピスは自身の意識がいつの間にか覚醒していたことに気づいた。ゆっくりとまぶたを持ち上げ、なによりも先に視界に映ったある人物の顔を前に、思わずきょとんとしてしまう。
「アッシュ……ブレイブ……?」





