◆第四話『赤い花の部屋』
とおされた居間はどこを見ても真っ赤な色が目についた。
壁や天井、床だけではない。置かれた調度品も赤いものが多く、そうでないものも赤と合うよう深めの茶色に整えられている。
アッシュは圧倒されながら目を瞬く。
「なんつうか、ほんと真っ赤だな」
「……あんまり見るんじゃないよ。ああ、そこに座っててくれるかい」
そう言ったのは、この部屋の主であるヴァネッサだ。
以前、部屋の近くを薄手の下着姿でうろついていた彼女だが、今回は膝まであるゆったりとした衣を羽織っていた。とはいえ胸元は少し開かれ、深い谷間をかすかに覗くことができる。彼女のことだから、きっとあえてなのだろう。
アッシュは言われたとおり椅子に座った。
丸テーブルを囲む椅子はほかに2脚。中途半端な数だが、おそらくヴァネッサのチームメンバーであるオルヴィとドーリエをよく部屋に招いているからだろう。
ヴァネッサが戻ってきた。
対面に座りながら片手で持っていた2個のワイングラスを置く。
「2人で飲むのは久しぶりだね」
「悪い。色々とごたごたしてたからな」
ヴァネッサとは4日に1度ぐらいの頻度で飲んでいたが、最近はアルビオンの事件から続いてベルグリシ討伐に向けての準備――となかなか時間を作れなかったのだ。そんなこともあって、久しぶりに彼女と飲むのは楽しみでもあった。
ヴァネッサが持ってきたワインのコルクをおもむろに抜く。
なんだか見覚えのあるワインだなと思っていたところ、記憶の中で一致するものがあった。以前、ロウがベイマンズの機嫌をとるために購入したジュラル島の超高級ワイン――。
「お、おい。それって《ベヌスのワイン》だよな。いいのか?」
「好きな男をもてなすんだ。これぐらい当然さ」
「……えらくストレートだな」
「いまさら隠す必要もないだろう?」
ヴァネッサは恥じらいもなく答えると、挑戦的な笑みを浮かべた。グラスに深紅のワインが静々と注がれていく中、アッシュは嘆息して応じる。
「言っとくが、いまは応えるつもりはないからな」
「女よりも塔を昇って強い魔物と戦いたいなんてね。ほんとどうかしてるよ。けど……そういうあんたに惚れたんだ。いつまでも待つつもりでいるよ」
ワインボトルを置いたのち、彼女は右手で梳くように垂れた前髪を後ろに流した。そのしぐさひとつとっても気品に溢れている。まるでどこぞの姫――いや、女王といった様相だ。それほどまでに彼女の見目は美しく、そして凛々しい。
これほどの女性が自分を好いてくれているというのだ。男として思うところはあるが、それでもやはりいまは塔を昇ることが大事だった。
互いに軽くグラスをかかげ、口につける。
芳醇な香りの中、とても濃厚な甘味に舌が包まれた。まるで果物をそのまま舐めているような感覚だ。ただ、それがくどいと感じる前に強い酸味が押し寄せてくる。しっかりと舌に残る味だ。癖が強く好みはわかれるかもしれないが、個人的には好みの味だった。
――飲めば活力が漲り、翌日最高の状態で狩りに臨める。
その謳い文句のとおりか、心なしか体のほうも一口で温まっているような気がした。
ヴァネッサがグラスから口を離すと、そのしっとりと水気を帯びた唇を動かす。
「この前は助かったよ。あんたがいなけりゃ色々なもんを失うところだった」
「……俺だけの力じゃないけどな」
元アルビオンの猛者たちをひとりで相手をすることになっていたら、さすがに勝ち目がなかった。そうならなかったのもシビラやラピス。そしてクララとルナという仲間がいたからこそだ。
「あたしはてっきりあの血統技術を使うのかと思ってたよ」
「あれは対人で使うには過ぎた力だからな」
「とはいえ少なくない装備の差があっただろう。あの男は9等級……対してあんたは6等級の装備。勝てる見込みはほとんどないと思うのが普通だ。実際、あたしもアレなしでは厳しいと思ってた」
ヴァネッサがその綺麗な爪でグラスの細い足を軽く弾いて、小さな音を鳴らす。
「けど、あんたは勝った。ほんと……あたしが思ってた以上の男だよ、アッシュ」
うっとりとした表情とともに向けられる好意の眼差し。2人だけの静かな空間もあいまってか、とてもむず痒かった。アッシュは気取られないようにとワインを口に含み、その酸味で平静を保った。
「じゃあ、そのヴァネッサの中の俺をまた越えてやらないとな」
「らしい返答だね」
そう言ってヴァネッサは笑うと、グラスを口につけた。その味を堪能するようにしばらく目を伏せたのち、ゆっくりと口を開く。
「……なにか悩み事でもあるのかい?」
「どうしてそう思う?」
「なんとなくだよ。ただいつもと違うって思っただけさ」
今度は開いた目でじっと見つめてくる。少なくない数の酒を飲み交わした仲とあってか、どうやら隠し事が難しくなってしまったようだ。
「よかったら話してくれないかい」
「そう、だな……」
他言を禁じられているわけではないが、積極的に話すようなことでもない。その点、ヴァネッサなら安心して話すことができる。
レオのギルド《ファミーユ》のメンバーからレオをチームに誘って欲しいと言われたこと。実際に行動に移したものの断られたこと。そして、新人マルセルがレオの元部下であったこと。
それらをかいつまんで話した。
「……なるほどね」
ヴァネッサが軽く息を吐きながら背もたれに身を預けた。
「意外と平然としてるな。レオのこととか、もう少し驚くと思ったんだが」
「あ~……初めて聞いたことだったらあたしも驚いてたかもね」
「もしかして知ってたのか?」
そう問いかけると、彼女は少しためらいがちに口を開いた。
「話してなかったけど、あたしの故郷――シュノンツェなんだよ」
「レオと一緒じゃねえか」
「……ヴァネッサ・グラン……このグランってのはシュノンツェの地名からきてるんだ。訛りが入って違う呼び方になってるだけで、あの男のグラントってのも同じなんだよ」
前から似ているなとは思っていたが、まさかそういった理由があったとは。
「ってことはもしかして昔のレオのこと知ってるのか?」
「あたしは王都住まいじゃなかったからね。実際に見たことはなかったけど、よく耳にはしていたよ。英雄レオの話はね」
ジュラル島でのレオの姿を知っている身としてはやはり信じがたいが――彼が英雄と称されるほどまでに活躍していたのは間違いないようだ。
「昔のシュノンツェは穏やかな国だったんだ。けど、内部のごたごたで血の気の多い一派が王政を牛耳ってね。そこからいまの侵略戦争し放題のシュノンツェが出来上がったわけなんだが……いまの王が即位してからはその色がより濃くなってね」
「性格的な問題か」
「それもあるんだろうけどね。一番はやっぱり〝絶対に負けない〟からだろう」
「……レオか」
こくりと頷いたのち、ヴァネッサがこばかにしたように語りだす。
「レオ・グラントがいればシュノンツェに敗北はない。レオ・グラントさえいれば世界は我々のものだ。王はいつもそう口にしていたそうだよ」
「レオの血統技術を見たんだけどな。あれをもし戦争で使っていたとしたら……通常の人間じゃ相手にならないだろうな」
シュノンツェほどの大国であるなら専属の治癒師も少なくないはずだ。そんな中でレオを前面に押しだして進軍すればまず負けることはないだろう。
レオがシュノンツェを出た理由。
おぼろげではあるが、見えてきた気がする。
「そんなことを知っていたもんだからね。ジュラル島にきたときは本当に驚いたよ。祖国の英雄と同じ名前の挑戦者がいるってんだからね。初めは信じられなくて偽物だと思ったぐらいさ」
シュノンツェでそこまで有名だったのだ。世界でも知っている者は少なくないはずだが、レオはそれでも名前を偽ることをしなかった。そこにもまた彼の感情が隠れているような気がした。
「やっぱ恨んだりしたのか? レオの奴、でかい戦争の前に姿をくらましたんだろ」
「べつになんとも思ってないさ。あたしが暮らしてたのはシュノンツェの中でもとくに田舎だったからね。戦略的な価値もほぼ皆無さ」
――知っているのはこれぐらいだ。
まるでそう言わんばかりにヴァネッサはワインを飲んだ。こちらも知りたいことは知れたし満足だ。しかし、ひとつだけ純粋に気になることがあった。
「そういやヴァネッサは島にくるまでなにしてたんだ?」
「……それを訊いてくるかい」
「答えたくなけりゃ無理しなくても――」
「いや」
短い言葉で遮ってきた。
ヴァネッサはかすかに顔を俯けながら上目遣いで確認してくる。
「せっかくアッシュがあたしに興味を持ってくれたんだ……話すよ。けど、笑わないと約束してくれるかい?」
「ああ、もちろんだ」
こちらがそう即答すると、ヴァネッサが諦めたように息を吐いた。充分な間を置いたのち、目をそらしてから意を決したように口を開く。
「……な……やだよ」
「ん? もう一度頼む」
「花屋っ、だよ。先祖代々ずっとうちは花屋だったんだ……だから、あたしも……」
彼女の顔は、酒のせいとは言うには無理があるほどに赤くなっていた。そこに普段の凛々しい姿はない。ただの羞恥に悶える少女といった感じだ。
「やっぱりか」
「…………え?」
「いや、ヴァネッサからよく花の匂いがしてたからさ。香水っていうよりなんてーか自然な感じの奴だ。だから、俺の中でヴァネッサはもともと花って感じの印象なんだよ」
きょとんとするヴァネッサを見ながら、アッシュは思ったことを口にする。
「花屋か。ヴァネッサにぴったりだな」
その瞬間、一度は収まった彼女の顔の赤みが一気に戻った。いや、むしろ先ほどよりも赤く、範囲も耳や首までに及んでいる。そんな状態を彼女自身もわかっているようで慌てて顔をそらしていた。
「……これ以上、あたしをどうしようってんだい」
「どうしたヴァネッサ? 顔、赤いぞ。珍しく酔ったか?」
「わ、わかってて言ってるんだろう……っ!」
ぎりりと睨んでくる彼女だったが、こちらが楽しげに笑っていたからか。怒るのを諦めて盛大に息を吐いていた。
「ったく、あたしはとんでもない男に惚れちまったみたいだね……いいかい、今日はとことん付き合ってもらうよ。無理とは言わせないからね」
「ああ、そのつもりだ」
そう答えながらアッシュはボトルを手に取ると、彼女によって傾けられたグラスにその口をつけ、ゆっくりとワインを注いでいった。





