◆第十六話『この笑顔の先に』
ニゲルの手から剣がこぼれ落ち、からんと音を鳴らす。
アッシュはスティレットをすっと引き抜いた。
ニゲルが胸元を押さえながらふらついた足取りで1歩、2歩と下がり、がくりと片膝をつく。だが、戦意は失っていないようだ。こちらを睨みながら噴きだした血で汚れたままの口を動かす。
「なぜ一突きで殺さなかった……?」
「なんだよ、気づいてたのか」
「……殺すのを、ためらうようなっ、人間ではないだろう……!」
生かされたことに納得いっていないのか。
不満を吐き出すようにニゲルが叫んだ。
「殺しが主義じゃないってだけだ。けど、どうするか。理由はわからないが、クララを狙ってたんだよな。そうなると、やっぱ殺すしかないか……」
できるだけ殺したくはないが、生かしたことで仲間に危害が及ぶなら話はべつだ。いくらでもこの手を汚す覚悟はできている。
「……安心しろ。わたしには、もう……彼女を殺すことはできなくなった。この島にいる限りは……な……っ」
――この島にいる限りは。
その意味を問い詰める間もなく足音が聞こえてきた。
「……どうやら、迎えがきたようだ」
ニゲルの視線を追った先に立っていた者を見て、アッシュは思わず目を瞬いてしまう。それは《スカトリーゴ》の看板娘――。
「アイリス?」
なぜ彼女がここにいるのか。纏う真面目な空気からして、少なくとも散歩でないことはたしかなようだ。彼女はニゲルのそばに立つと、淡々と話しかけた。
「ニゲル・グロリア。ベヌス様とのお約束を忘れてはいませんね」
「もちろんだ……言い訳をするつもりはない」
そう口にしたのを境にニゲルから険が完全に消えた。
アッシュは状況を把握しきれず、疑問を口にする。
「約束ってどういうことだ?」
「わたしは……すべてを賭けた。ただ、それだけのことだ……」
そうニゲルが答えた途端、その身を包んでいた鎧、腕にはめていた腕輪が無数の光となって散った。さらに転がっていた彼の剣もまた燐光となって消えていく。
粗野な格好となったニゲルがアイリスに向かって言う。
「ミルマよ、最後に……頼みがある。《アルビオン》のメンバーにわたしが敗北したこと……そしてギルドの解散を伝えて欲しい」
「……いいでしょう」
「感謝する」
ニゲルが目を伏せ、そう口にしたときだった。
「マスターッ!」
シビラの叫び声が飛んできた。
振り返った先、彼女は満身創痍ながら剣を支えになんとか立っていた。苦悶に顔を歪めながら、こちらにゆっくりと向かってきている。
ニゲルが急くように「頼む」とアイリスに言う。
そのやり取りから、ニゲルがどこかへ行こうとしているのだと悟った。アッシュは割って入るように問いかける。
「おい、シビラになにか言ってやらないのか」
「彼女の道に、わたしは必要のない人間だ……かける言葉はない」
ニゲルの視線を受け、アイリスが頷いた。
その瞬間から、ニゲルの体がどんどん薄れていき――。
ついには空気に溶けるように消えていった。
ニゲルが消えたからか、シビラはその場で力尽きたように膝をついていた。果たしてこれでよかったのかはわからない。ただ、ニゲルなりのケジメだったのだろう、とアッシュは思った。
「では、わたしはこれで失礼します」
アイリスがこちらに背を向け、何事もなかったかのように去ろうとしていた。アッシュは慌てて声をかける。
「待ってくれ。あいつがどうなったかだけ教えてくれないか」
「詳しくお教えすることはできません。ただ……これだけは言えます」
アイリスは振り向かず、こう言い残した。
「彼がこの島に戻ってくることは決してないでしょう」
◆◆◆◆◆
「よー、アッシュ。いま帰りかー?」
「お、アッシュじゃねぇか。今夜どうだ? 一杯奢るぜ!」
「アッシュ~! 今度わたしらと一緒に狩りしない~?」
賑やかになりはじめた夕刻前の中央広場にて。アッシュはほかの挑戦者とすれ違うたびに声をかけられていた。それらに手をあげて応じては適当にいなしていく。
「アッシュくん、もうすっかり有名人だね」
「以前までは悪目立ちしてたけど、いまはもう島の英雄みたいな感じだね」
隣を歩くクララとルナが呆れ気味に言った。
「悪目立ちって……また女好きとかじゃないだろうな」
「そうだけど?」
なにもおかしいことはないとばかりに答えるルナ。
クララが前のめりになって割り込んでくる。
「ルナさん、それ以前までじゃなくていまも言われてるみたいだよ」
「みたいって……」
「マキナさん情報です!」
そう答えたクララはなぜか得意気だ。
次に会ったとき覚えていろよ、とマキナを恨みつつ、アッシュは視線を巡らせた。
三大ギルドのひとつ、《アルビオン》が起こした事件からすでに3日が経っていた。多くの負傷者を出し、一時は混沌としたジュラル島もいまやすっかり落ちつきを取り戻している。
やはり図太い挑戦者が多いからか。はたまたミルマが変わらず笑顔でいてくれるからか。いずれにせよ、この島独特の陽気な空気が好きなので日常が戻ってくれて嬉しい限りだった。
「あ、あれってシビラさんだよね」
クララが指差した先、中央の噴水近くにシビラが立っていた。彼女もこちらに気づいたようで視線が交差する。とくに示し合わせたわけではないが、彼女とは話したいこともあったのでちょうどよかった。
「悪い。ちょっと先に帰っててくれるか。少し話してくる」
「いいけど……」
言いながら、ルナがすっと腕に抱きついてきた。頬に口がつきそうになるぐらい顔を寄せてくると、耳にまとわりつくような声でささやいてくる。
「浮気しちゃダメだよ」
「なにバカなこと言ってんだ」
「あいたっ」
ルナの額を軽くぺしっと叩いて離れた。
「クララが本気にするだろ。ほら」
「あわわわわ……っ」
案の定、そばではクララが初心さを全快にしていた。
口元を押さえながら顔を真っ赤に染めている。
「ボクは本気なんだけどね」
ルナが舌をちろりと出して悪戯っ子のように笑う。
今度、また仕返しをしてやろう。
そう思いながら、アッシュはシビラのもとへと向かった。
「相変わらず女にだらしないな」
先ほどのやり取りを見られていたらしい。
開口一番に不本意な言葉をかけられた。
「不可抗力だ」
「本当か? きみぐらいになれば避けるのはたやすいだろう」
「仲間相手にいつも気を張ってたらもたないだろ」
アッシュは肩を竦めつつ、噴水の縁に座り込んだ。
「それよりどうだ、ギルドのほうは?」
「結局、残ったのは7人だ」
そう答えながらシビラが隣に座った。
ニゲルによって一度は解散した《アルビオン》だが、シビラによってすぐに再建がなされた。しかし、全員が戻ってくることはなく、結果は彼女が話したとおりというわけだ。
「あんなことがあったあとだしな」
「マスター……ニゲル・グロリアの存在でもっていたようなギルドだ。彼がいなくなった時点でこうなることは予想できた」
全員が進んでというわけではなかったようだが、シビラを除いた者がニゲルの計画に加担していたのだ。残った人数が7人というのはむしろ多いと言えるだろう。
「それに後ろめたさに耐えられず島を出た者も少なくない」
「あいつ……ナクルダールも出たんだろ」
「彼に関しては、きみに負けたのがよほど悔しかったみたいだ。一度故郷に戻って腕を磨きなおしてくると言っていた」
「たしかにあいつは後ろめたいとか思うような感じじゃあないしな」
島に戻ってきたとき、勢いのまま勝負を挑まれそうな気がしてならなかった。仮にそうなった場合、今度はできれば血なまぐさいものではなく、楽しみながら闘いたいものだ。
「あいつは? あの聖騎士の」
「ああ、ジグラノか。彼女も島を出た……彼を探しに」
彼、とはもちろんニゲルのことだ。
シビラがまるで遠くを見るように目を細めた。
「きみは彼が生きていると思うか?」
「あいつがミルマと交わした約束ってのがわからないからな。なんとも言えないが……ただ、あいつのことだ。どっかで図太く生き残ってるんじゃないか」
「そう……かもしれないな」
シビラの顔は複雑に歪んでいた。
無理もない。なにしろ少なくない時間をともにしていたのだ。たとえ決別がすんでいたとしても簡単に振り切れるものではないだろう。
「ただ、そうなると困るな。彼の危険な思想が世界の争いを激化させるかもしれない」
「そんときはそんときだ。また止めてやればいい」
アッシュはあっけらかんと答えた。
シビラが目をぱちくりとさせたかと思うや、少し困ったように笑う。
「本当に……きみと話していると悩むのがバカらしくなってくるな」
「それはバカにしてるのか?」
「いいや、褒めてるんだ」
シビラが前触れもなく顔を近づけてきた。
それから右頬にしっとりとして、柔らかな感触を覚えたのは一瞬のことだった。離れたシビラがしたり顔を向けてくる。
「どうやらわたしも仲間として見てくれているみたいだな」
先ほどルナの接近を許したことについて仲間だからと弁解はしたが……まさかシビラがこんなことをしてくるとは思ってもみなかった。
こちらが呆気にとられているのをよそにシビラがゆっくりと立ち上がった。
「きみがいてくれたからわたしはあの男に立ち向かえた。自分の道を信じて進むことができた」
彼女はその艶やかな黒髪を舞わせながら振り返る。
「ありがとう、アッシュ!」
近くの噴水から飛び散る幾つものしぶき。射しはじめた夕陽を受けたそれらはまるでひとつひとつが宝石のようだった。だが、それらがかすむほどにシビラの笑顔は美しく、また輝いていた。
――シビラが笑えば相手は誰でも笑顔になる。
以前、彼女に伝えたことをまさか自分で体験することになるとは思いもしなかった。
みんなが笑顔になれる世界。
それは果てしなく困難な道のりだ。
だが、この笑顔があればきっと成し遂げられるに違いない。
そう確信しながら、アッシュは勇敢な白き戦士を視界に収めつづけた。





