◆第十八話『白と黒』
「モグスさんいないね」
パン入りの紙袋を大事そうに抱えたクララが辺りを見回しながら言った。
先ほど毎朝の日課である《トットのパン工房》でパンを買ったところだった。今回はバゲットを1本だけ買っている。クララがこちらも食べてみたいと言ったのだ。
「昨日の今日だからな。さすがにまだアルビオンのところにいるんじゃないか」
「でも、まさかモグスさんが犯人だったなんて……見た目は優しそうだったのに」
「人は見かけによらないって奴だな」
とはいえ、クララはモグスを本能で拒絶していた節があった。純粋な心の持ち主だからこそ彼のような悪意の塊には敏感だったのかもしれない。
「でもあたしとしてはよかったかも。こ、香水の匂いきつかったし……」
「意外とひどいこというな」
「だってパンの美味しい匂いが消えちゃうんだもん」
いまにして思えば、モグスのきつい香水の匂いはデモニアの臭いを消すためのものだったのだろう。彼と出会わなかったことで今日は絶えず香ばしい匂いを感じられている。おかげで腹がいまにも悲鳴をあげそうだ。
と、クララがなにやら両手に抱えたパンをじっと見つめていた。
「ねね、少し食べたらダメかな? 匂いかいでたら我慢できなくなってきた……」
「ちょっとぐらいならいいんじゃないか」
「やたっ」
クララがバゲットの端をちぎって口に放り込んだ。
焼きたてとあってとても美味しかったのだろう。
んぅ~っ、と彼女は満ち足りた顔をしていた。
「あ、でも先に食べられたって知ったらルナがどんな顔するだろな。ひとりでせっせと準備してるってのに」
「むぁっ!」
ごくんとパンを呑み込んだのち、彼女が抗議の顔を向けてくる。
「食べてから言うのひどいよ!」
「俺にはなんのことかさっぱりだな」
「あ、ずるい! こうなったらアッシュくんにも――」
クララがまたもパンの端をちぎりだした。
きっと口に突っ込んでくるつもりだろう。
アッシュはそれを予測して駆け出した。
案の定、クララがちぎったパンを突き出しながら追いかけてくる。
「待ってよぉっ! これじゃあたしだけ悪者じゃんーっ!」
「帰ったらルナに謝るんだな!」
「アッシュくんにそそのかされたって絶対に言うからー!」
そんなクララの叫び声、もとい嘆き声を聞きながら、アッシュはログハウスに帰還した。
◆◆◆◆◆
本日の狩りは午後からに変更してもらった。
昨夜遅くまで活動していたことが大きな理由だが、ほかに行くところがあったからだ。
「悪いな。朝早くに」
「いや、問題ない。それにわたしもきみには用があったからね」
アッシュはアルビオン本部を訪れていた。
この応接間にとおされたのは3度目だろうか。
対面のソファにはニゲル・グロリアが座っている。
ほかには誰もいない。
「シビラから話は聞かせてもらった。彼女に協力してくれたそうだね。おかげで一連の事件を解決することができた。アルビオンの代表として深く感謝する」
「俺たちも被害者だからな。協力するのは当然だろ」
協力したのはまた狩り中に邪魔をされたくないからだ。
決してアルビオンのためではない。
そもそも彼に会いにきたのはこんな話をするためではない。
「それより訊きたいことがある」
「謝礼のことならできるだけ応えるつもりだ」
「そんなのはどうでもいい」
アッシュは声調を低くして切り出す。
「やったのか」
「それはどういう意味かな」
ニゲルに動じた様子はない。
ただ平然と疑問を投げかけてくる。
……本当に厄介な男だ。
「モグスはどこにいる? あんたのことだ。あんな危険な術の使い手をただ追放するだけで終わらせるとは思えない」
「きみはわたしをなんだと思っているのかな」
「目的のためには手段を選ばない人間だと思ってる」
「わたしがきみに抱いた印象と似ているね」
「一緒にしないでくれ。俺はあんたとは違う」
淡々としたやり取りにも関わらず空気はぴりりと緊張していた。きっと互いに腹を探り合っているからだろう。
「彼は投獄中だ。いまも詳しい事情を訊いている」
「なら様子を見せてくれ」
「それはできない」
あくまでとぼけるつもりらしい。
とはいえ、追求したところで口を割るような男でないことはわかっている。
ただ、ひとつだけ確認したかった。
「あいつは……シビラは知ってるのか?」
「きみがなにを言っているかはわからないが、ひとつわたしから言えることがあるとすれば……彼女は純粋すぎる」
「だから裏側は見せないってことか」
返答は無言だった。
たしかにシビラは純粋だ。
クララにも負けないほどかもしれない。だが――。
「あんたはそれでよくても、あいつはどう思うだろうな」
また返答はない。
ただ、ニゲルはほんのわずかだが視線を落としていた。
彼はすっくと立ち上がり、部屋の奥に向かった。窓から射し込む陽光が思ったより強かったのか、片手で陰を作ると、外の景色を見ながらこう問い返してきた。
「……きみは完全なる悪の排除は可能だと思うか」
◆◆◆◆◆
アルビオンの本部をあとにし、通りに出たときだった。
最近では毎日のように会っていた人物――シビラと鉢合わせた。これから狩りに行くところといった様子で装備はばっちりだ。
「アッシュ・ブレイブ……? なぜここに?」
シビラが目をぱちくりとさせながら訊いてきた。
アッシュは本部を軽く振り返ってから答える。
「ちょっとニゲルと話しててな」
「マスターと? 事件についてか?」
「ま、そんなところだ」
もっと詳しく訊きたい。そんな顔をしていたシビラだったが、ぐっと堪えていた。顔に出やすいのは相変わらずのようだ。
「そういえば昨夜は慌しくて言い忘れていたが……ありがとう。貴様のおかげで無事に犯人を捕まえることができた」
突然、頭を下げたかと思うや、シビラがそんなことを言ってきた。
最近まで会うたびに斬りかかられていたこともあり、アッシュは彼女の誠実なその姿に思わず面食らってしまった。そんな中、シビラがちらりと上目を向けてくる。
「今度、礼をさせてはもらえないだろうか」
「ニゲルにも言ったことなんだが、べつにアルビオンのためにやったわけじゃない。俺たちも狙われて迷惑だったから協力しただけだ」
シビラが顔をあげると、真っ直ぐにこちらを見据えてきた。
「これはアルビオンのメンバーとしてではない。わたし個人のものだ。今回、貴様には色々と助けられたからな……受けてもらわなければわたしの気がすまない」
彼女が誠実に加えて、とても頑固なことは短い付き合いながら充分に理解している。言葉どおり受けなければ帰してもらえなさそうだ。
「わかったよ」
「本当かっ!?」
「ああ。どっかで飯でも奢ってくれ」
「……そんなことでいいのか? わたしにできることならなんでもするつもりだが」
「じゃあ、ずっと笑顔で頼む」
アッシュは口の端を吊り上げながら言った。
途端、シビラの顔が真っ赤に染まる。
「そ、それは無理だ!」
「なんでもいいって言ったのは嘘だったのか? まさかシビラが嘘をつくなんてな……」
「嘘ではない! 嘘ではないが……くっ」
シビラがいかめしい顔で葛藤しはじめた。
やはり彼女には難しい注文だったようだ。
しかたないか、とアッシュは苦笑する。
「冗談だ。ま、怒ってるより笑ってるほうが嬉しいのは本当だけどな」
「そ、そうか……冗談か。しかし、自分で言い出したことだ。努力はしてみよう」
「それは楽しみだ」
シビラが大きくため息をつくと、顔から緊張をといた。
「……貴様といると、本当に調子が狂うな」
「いやだったら言えよ」
「そういうわけではない。ただ、この島にきて以来、ずっと張りつめた空気の中で戦ってきた。だから緩んだ空気に戸惑っているのだと思う」
「あ~、それはけなしてるのか?」
「褒めているんだ」
言葉どおり好意的にとってよさそうだ。
その証拠に初対面の攻撃的な態度が嘘のように、いまの彼女からは棘が抜け落ちている。
「ギルドでももっと肩の力を抜いたらいいんじゃないか」
「それはできない。わたしは曲がりなりにもマスターのメンバーだ。弱いところを見せるわけにはいかない」
「でも、ギルドってのは仲間なんだろ。そんな強がる必要はないんじゃないか?」
「そうかもしれないが……メンバーとはどこか距離を感じてな」
シビラが目線を落としながらか細い声で言った。
ニゲルが彼女には重要なことを話さなかった。
そういったこと以外にもなにか隔たりがありそうだ。
「ま、俺でよかったらいつでも話に付き合うぜ」
「そんなことを言うと本当に呼び出すかもしれないぞ」
「大歓迎だ。けど、その前にまずは笑顔とセットの飯だな」
「え、笑顔に関しては努力する方向で頼む……」
なんとも言えない顔で強張るシビラ。
彼女をいじるのはひどく面白いが、ほどほどにしておいたほうがいいだろう。彼女のことだ。癖でいつ斬りかかってくるかわかったものではない。
ふとシビラがアルビオン本部のほうをちらりと見ていた。
「悪い、引きとめたな」
「わたしもちょうど話したいと思っていたし気にしないでくれ。ただ、マスターたちを待たせているのでな。申し訳ないが、これで失礼する」
「おう、またな」
別れを告げてアルビオン本部前に立ったシビラだったが、扉を開けようとしたところで手を止めた。艶やかな黒髪をなびかせながら、くるりと振り返る。
「アッシュ・ブレイブ! 改めて礼を言わせてくれ……ありがとう!」
そう言い残して彼女は今度こそ本部の中へと入っていった。
一連の事件に関してだけではない。
ほかにも色々なことに対しての想いが、その言葉にはこもっているような気がした。
――それに去り際に見せた彼女の顔。
いまや脳裏にしっかりと焼きついたその顔を思い出しながら、アッシュはふっと笑う。
「……なんだよ。いい笑顔できるじゃねぇか」





