◆第三話『トットのパン工房』
初めに感じたのは爽やかな匂いだった。
まるで萌え出たばかりの若草のような――。
ただ、どれだけ心地良くともソレが異物であることは変わりない。
アッシュは反射的に手を伸ばし、ソレを引き寄せた。
先ほどまで寝ていたベッドに押し倒し、組み伏せる。
「あ、あはは……アッシュ、起きてたんだ」
わずかにこわばったその声は聞き慣れたものだった。
アッシュは寝ぼけ眼をゆっくりと開ける。
カーテン越しに陽光が射し込む中、ぼやけた視界が鮮明になっていく。やげて映り込んだのは予想どおりの人物――ルナだった。
押し倒したせいだろうか。
彼女が身に纏う薄手の部屋着は乱れていた。
慎ましやかな胸の上半分があらわになっている。
「……いや、完全に寝てた」
「それにしてはすごい動きだったけど」
「異物が近づいたら反応できるように親父に仕込まれたんだ」
「どうしてそんなこと……」
「決まってるだろ。寝込みを襲われたときのためだ」
世界中を旅していたとき、夜盗や魔物に襲われることは少なくなかった。たが、この特技のおかげですべて撃退することに成功している。
「でも、そうか。たしかにルナの匂いだったな……」
「匂いでわかるなら異物認定はどうにかならないかな」
「そこまで瞬時に判断は難しいな」
「じゃ、じゃあ……すぐにわかるぐらいたくさん嗅いでもいいよ……なんて」
ルナは顔を横に倒すと、か細い声で言った。
頬だけでなく首まで真っ赤に染まっている。
「って冗談だよ。さすがにアッシュもそんなことしないよね」
「さてそれはどうかな」
「え、ちょ、ちょっと待って。本気!?」
彼女の胸元へと少しずつ顔を近づける。
ルナがあたふたしたのち、ぎゅっと目を瞑った。
シーツをぎゅっと握り、全身をこわばらせている。
普段の陽気で泰然とした姿はどこにもない。
アッシュはベッドからすっと離れた。
あくびをしながら立ち上がり、いまだ目を閉じたままのルナへと声をかける。
「なにしてんだ。さっさと起きろよ」
「……え?」
からかわれたことに気づいたらしい。
ルナは眉根を寄せ、頬を膨らませる。
「アッシュってほんと意地悪だよね……」
「悪戯しようとした仕返しだ」
こちらがにっと笑って答えると、ルナは大きく息を吐いた。
「もう少し余裕を持ちたいよ」
「いまのままでいいと思うぜ」
「せめてあしらわれないぐらいにはなりたいかな」
ルナは身軽にベッドから飛び起きると、乱れた服を整えた。
「気を取り直して朝食の用意でもしようかな」
「いつも悪いな」
「好きでやってることだから。それじゃ、アッシュはパンをお願いね。あとクララも」
「了解だ」
こちらの返事を聞いたあと、ルナはいつものからっとした笑顔を残して部屋を出て行った。さて、とアッシュは伸びをする。
「お姫様をたたき起こしに行くとするか」
◆◆◆◆◆
「うぅ、眠いよぉ~~」
「ほんと毎朝変わらないな」
「だって眠いのは眠いんだもん~」
アッシュはクララとともに密林の中を歩いていた。
向かう先は中央広場。
目的は朝食用のパン購入のためだ。
ログハウスに移住してから毎朝の日課となっている。
「アッシュくんもひどいよ。もう少し寝させてくれてもいいのに」
クララが半開きの目をこすりながら言う。
服を着替えただけで髪の手入れをしていないからか。
彼女の髪はところどころが跳ねている。
「べつに朝飯まで寝ていたいならそれでもいいぞ。その間にルナは朝食の用意、俺はパンを貰うために中央広場を往復するだけだ」
「うぐっ」
「ひとりだけ楽して食べる飯はうまいか?」
「……これからもよろしくお願いします」
「賢明だ。でも自分で起きられるようになれよ」
はーい、と気の抜けた返事をするクララ。
以前、「アッシュってクララのお母さんみたい」とルナに言われたことがあったが、本当にそんな気分だ。しかたないな、と思いながらアッシュは息を吐いた。
「ま、朝の空気を吸うってのはいいもんだぞ」
「うん、それはすごく思う」
クララが静かに目を閉じて深呼吸をする。
通常時でも特別に澄んだジュラル島の空気だ。
ひんやりとした朝の空気がうまくないわけがない。
クララは深呼吸を終えると、目をぱちっと開けてとてとてと先を急ぎはじめる。
「アッシュくん、もうすぐ中央広場だよ。はやく~」
「ったく、さっきまでうだうだしてたくせに調子がいいな」
◆◆◆◆◆
中央広場の東側。《スカトリーゴ》と同じ通りに目当ての店――《トットのパン工房》はあった。名前のとおりトットと呼ばれるミルマが経営している店だ。
すでに店には大勢のミルマが押しかけていた。
大半があちこちの宿屋で女将を務める者たちだ。
挑戦者の姿もちらほらと見えるが、かなり少ない。
「おはようございます! アッシュさん、クララさんっ」
列に並んで順番が来ると、受付のミルマ――ウルが朝日にも負けないほど眩しい笑顔で迎えてくれた。
「ああ、おはよう」
「お、おはようっ」
クララの詰まった挨拶にも、ウルはにこりと相好を崩して応じていた。
早朝に売られているパンは2種類のみ。
箱型のパンドミと杖型の長細いバケットだ。
「どうぞですっ」
ウルがなにも言わずにパンドミを差し出してきた。
すでに何度も買いに来ていることもあって覚えられているのだ。
50ジュリーと交換で受け取る。
包み紙越しに伝わってくる温もり。
漂ってくる香ばしい匂い。
焼きたてであることがふんだんに感じられた。
「ほんとどこにでもいるよな、ウルは」
「あ、あくまでお手伝いですからねっ」
暇じゃないんですよ、と必死に抗議してくる。
それは理解しているが、その出現率はジュラル島一だ。
クララがぼそりと言う。
「もしかしたら何人もいるのかも」
「……ありえるな」
「き、聞こえてますよっ。ウルはひとりですっ」
そんな冗談を言い合ったのち、ウルに別れを告げて引き返した。
人ごみをかきわけて通りに戻ると、大量のパンを両手に抱えた小太りの男が目に入った。最近、よく朝にパン屋で出逢うようになった挑戦者――モグスだ。
「よっ、モグスも来てたんだな」
「おはよう、アッシュ。それにクララさんも」
言いながら柔和な笑みを浮かべるモグス。
少しこもった声にのんびりした喋り方だ。
そこに毒はなにも感じられないが、クララは警戒して背中に隠れてしまった。最低限の挨拶として、ちょこんと頭を下げてはいたが。
「悪いな、いつも」
「気にしてないよ。こんな身なりだからね」
「べつに怖がる要素ではないけどな」
そうフォローをしたとき、カシャンカシャンと金属のこすれる音が聞こえてきた。見れば、挑戦者が2人1組で中央広場を巡回している。肩につけられた盾の徽章からわかるとおり、アルビオンのメンバーだ。
ログハウスを購入し、早朝の中央広場に顔を出すようになってから10日ほど経ったが……。
ここ3日間、続けて彼らの姿を目にしている。時期的に見てもアルビオンの名を語る犯人の捜索が関係しているのかもしれない。
「相変わらず朝から頑張るなー」
「本当よくやるよね。ただしんどいだけなのに」
そう口にしたモグスの目はやけに冷めていた。
「モグス、アルビオンには否定的なんだな」
「というより少し窮屈だなって感じるんだ」
「ま、それはわからなくもないな」
常に監視されているのはあまりいい気がしない。
とはいえ、彼らのおかげである程度の治安が保たれていることもまた事実。まるで島の管理者のような態度をとることさえ除けば、多くの挑戦者にとって有益であることは間違いない。
ふいに「ぐぅ~~っ」と凄まじい音が聞こえてきた。
モグスが自身の腹を押さえながら苦笑する。
「あ、あはは……悪いね、僕のお腹がせっかちで」
「これ以上引き止めたらモグスの腹に嫌われそうだ」
「トットのパンを突っ込んでくれればすぐに機嫌がよくなるよ」
「それは高くつきそうだ。それじゃ、また明日の朝な」
「うん、またね」
モグスがこちらに背を向けて、のっしのっしと歩きだす。あの体で狩りができるのかと疑問がつきないが、彼は古参らしいのでいらぬ心配だろう。
彼を見送ったのち、アッシュはいまだ背に隠れるクララへと問いかける。
「そろそろ慣れただろ」
「見慣れはしたけど、なんか苦手なんだよね……」
「なんかって大雑把だな」
「せ、生理的に?」
なかなかにひどいことを言う。
「あとちょっときつめの香水の匂いがするんだよね」
「あ~、それはたしかにな」
あのような体型だ。
汗が出やすく、それを香水で誤魔化しているのかもしれない。
「それより……あたしもお腹空いてきちゃった」
「俺もだ。ルナも待ってるし、急いで戻るか」
「うんっ」
元気よく返事をしたクララが軽い足取りで先を行く。
あの様子なら今日の狩りも心配なさそうだ。
そんなことを思いながら、アッシュは彼女のあとを追った。





