◆第五話『初めての6等級階層』
幅広ながら圧迫感のある廊下だった。
床に敷かれているのは血のように赤い絨毯。煉瓦組された石壁には等間隔に蝋燭が置かれ、合間にはおどろおどろしい絵画が飾られている。窓はいっさいない。
「なんだかこれまでとはまったく違う雰囲気だね……」
「神様も趣向を凝らしてるってことじゃないか」
アッシュは早速とばかりに先に進もうとする。
と、クララからぐいっと服のすそを引っ張られた。
「アッシュくん、帰ろうよぉ。これ絶対お化け出るじゃんー……」
「そういう敵はもう何度も見てきただろ」
「何回も見たからって慣れるものじゃないよ……」
彼女が弱々しい声を出したとき、少し前の右側壁からうっすらと透けたなにかがすっと姿を現した。フードつきのローブを羽織った格好。両手で湾曲した長い刃の鎌を持っている。ひらひらと舞う裾からは足はなく、宙に浮いた状態だ。
ひっ、とクララが声を漏らした。
服を掴んでいた彼女の手に力がこもる。
彼女を後ろに庇いながら、アッシュはスティレットを抜いて身構える。
「スペクターかッ」
試練の塔でも戦ったことがある魔物なので知っていた。
敵もこちらに気づいたようだ。両手で鎌を掲げると、耳をつんざくような金切り声をあげた。ただ不快なだけでなく不安や恐怖を煽る声だ。
「か、体が……」
「動かないっ」
クララとルナが硬直していた。
先ほどの金切り声で体が竦み上がったのだ。
スペクターが得意とするフィアーだ。
好機とみてか、スペクターがこちらに向かってくる。その姿を一瞬消してはまた現れるといったことを繰り返していた。
黒の塔30階のグリムリーパーと酷似した移動方法だ。しかし、あちらよりは消えている間が短い。おかげで移動先を予測しやすかった。
アッシュは敵が姿を消した直後、次に出現する空間を予測し、斬撃を放った。目的の空間に到達すると同時、敵がその姿をあらわにさせる。とっさに鎌で受けようとしていたが、斬撃の勢いが勝ったらしい。鎌を弾きあげた。
大きく仰け反った敵へとアッシュはすかさず肉薄、スティレットで縦に両断した。こもった断末魔を残してスペクターはローブとともに渦巻きながら虚空に吸い込まれ、消えていく。
「二人とも、無事か!?」
アッシュは落ちた宝石を確認することなく振り返る。先ほど硬直していたクララとルナが自由を取り戻していた。
「う、うん。もう大丈夫」
「こっちも問題ないよ」
ただ、あまりに突然のことだったからか、両者ともに冷や汗を流している。
「……でも、どうしてアッシュだけ無事だったんだろう?」
「あの叫び声はフィアーって言ってな。対象の恐怖を増幅させて体を竦ませるんだ」
そう説明すると、ルナから怪訝な顔を向けられた。
「つまりアッシュはまったく恐怖感がなかったってこと?」
「そうなるな」
「……相変わらず怖いもの知らずだね」
半ば呆れたように言われた。
怖いもの知らずではあるかもしれないが、まったく恐怖を抱かないわけではない。本当に強い相手と対峙した際は多かれ少なかれ恐怖する。最近ではリッチキングやシーサーペント。遡ればもう幾つか経験している。
「でもそれだと、あたし絶対かかる自信あるんだけど……」
クララが片頬を引きつらせながら言った。
「最悪、耳を塞げばいい。多少の恐怖感しかないなら目をそらすだけでもいけるはずだ」
「じゃあ、耳を塞ぎます!」
即答だった。
どうやらすごく怖いらしい。
と、呑気に会話をしている間に敵の増援が来たようだ。霊体系の魔物が持つ独特の冷気を感じ取り、アッシュは振り向いた。そこかしこの壁からスペクターがぬっと出てくる。合計4体だ。
「クララ、ルナ! スペクターの初動はあまり速くない! 見つけたら片っ端から先制攻撃をしかけろ!」
アッシュは叫びながら、近場のスペクターに襲いかかった。迎撃に振られた鎌を躱し、勢いそのままにスティレットを刺し込む。さらに斬撃を放って2体を牽制するが、漏らした1体に《フィアー》を放たれた。
敵の金切り声が止んだと同時、クララの《フロストレイ》が敵に襲いかかった。鎌ごと体を弾かれたその1体目掛けてルナの矢が追撃。瞬く間に消滅させた。
どうやら2人とも先ほど教えた対策をしっかりと実践し、フィアーを無事に防いだようだ。
アッシュは彼女たちに負けじと残った2体に飛びかかり速やかに処理した。やはり黒の塔においてスティレットの殲滅力は抜群だ。
これで一息つけるかと思いきや、追加のスペクターが少し先の壁や床、天井から沸いてきた。今度は6体だ。
「大歓迎だな」
「お、多すぎじゃない?」
「……入口でこれって頭が痛くなるね」
スペクター1体の戦闘能力はそれほど高くはない。
だが、無限に相手ができるわけではない。
「俺が道を切り開く! 2人は漏らしたのを頼む!」
アッシュは斬撃で奥の敵を牽制しつつ近場の敵を排除。次なる近場のスペクターに飛びかかるといったことを繰り返しながら、奥へと突き進んでいく。
スペクターの増援は絶え間なく続き――約30体ほどを倒したところで、ようやく正面に見えていた突き当たりに辿りついた。
「あ、あれ……敵沸かなくなった?」
全力疾走を終えたあとだからか、クララが息を乱しながら言った。
たしかにスペクターの増援がぴたりと止んでいる。
「区画で安全地帯みたいなのが幾つか設置されてるのかもね。ほかと違うところは……この蝋燭が3本の燭台かな」
隅に置かれた腰の高さほどの木造台。その上には、ルナが言うようにほかの場所にはない燭台が置かれていた。
「次の安全地帯にもそれがあったら間違いなさそうだな」
あいにくと次の燭台は近くに見当たらなかった。
右手側には下り階段があった。
廊下に見合ってこちらも幅が広い。
15段ほど下りた先の踊り場も相応だ。
「2人とも、いけるか?」
「ボクは大丈夫」
「あたしも。本音はいますぐ帰りたいけど……」
クララの二言目を無視して、アッシュは階段を下りはじめた。後ろから「む、無視しないでよーっ」と聞こえてくるが気にしない。
と、踊り場に飾られていた一枚の絵画からぬぅっとなにかが出てきた。一瞬、スペクターかと思ったが、違う。はっきりと実体がある。
その姿は人間の眼球をそのまま巨大化したようなものだった。体のあちこちから人間の腕ほどの長さをもった触手をうねらせながら、ふわふわと浮遊している。
アッシュはその魔物に見覚えがあった。
ゲイザーだ。
背筋が凍るような感覚に見舞われながら叫ぶ。
「奴の視線先には絶対に立つな!」
敵の紫色の瞳から赤い光線が放たれた。
クララ、ルナが左右に身を投げる。と、先ほどまで彼女たちが立っていた場所がまるで水をこぼしたような範囲で灰色に染まった。
クララがそのさまを見て、恐怖に顔を歪める。
「な、なにこれ……!?」
「あの光線を浴びると段階的に石化する!」
そう答えながら、アッシュは敵に飛びかかった。触手が阻むように伸びてくるが、斬撃を放つと引っ込んだ。その隙に人間の頭大ほどもある瞳目掛けてスティレットを押し込んだ。ぎゅいぃ、とゲイザーが不快な鳴き声をあげ、床に転がる。
「一旦さっきの場所まで戻れ! 急げ!」
アッシュは即座に振り返り、指示を出した。
全員で脇目も振らずに階段を上りきり、先ほどの安全地帯に戻る。
「まさかゲイザーがいるとは思わなかったな……」
アッシュは乱れた呼吸を整えたのち、そう零した。
「ちょ、ちょっと待って。石化を解除する魔法なんてないよっ!?」
「解除には雑貨屋で売ってる《妖精の涙》が必要だね……」
焦るクララとは逆にルナは落ちついている。
だが、その表情は決して楽観したものではない。
「アッシュ、どうするの?」
「スペクターとゲイザーが一緒に来たら……最悪だよね」
クララが危惧しているとおり、それら2体が同時に出現した場合は最悪だ。スペクターの《フィアー》だけでなく、ゲイザーの石化光線にも気をつけなければならない。
石化解除用の《妖精の涙》を持っていない現状、壊滅の可能性もある。見学と称して51階を突破しようと内心で思っていたが、これは断念するしかなさそうだ。
アッシュは肩に入れていた力を抜いた。
「残念だが、見学はここで終わりだ。撤退するぞ」





