◆第四話『黒の塔50階』
「食べてのんびりしたからかな、ちょっと眠くなってきちゃった……」
「頬でもつねるか?」
「い、痛いのはやだよっ」
遅めの昼食をとったのち、黒の塔50階へとやってきた。しっかりと休憩したこともあり、疲労はほとんど残っていない。ただ休み過ぎたからか、クララがあくびをしていた。
ルナが緩んだ空気を引き締めるようにきりりとした声で話しはじめる。
「同じ50階とはいえ、黒の等級だからね。厄介な攻撃をしてくる可能性もあるし、充分に注意していこう」
「気ぃ抜いて全滅なんて笑えないしな」
アッシュはあえて物騒な言葉を入れて同意する。と、クララが寝ぼけ眼から一転、目をぱっちりと開けていた。どうやら効果覿面だったようだ。
「し、死にたくないので頑張りますっ」
そうしてクララが気合い充分となったところで試練の間へと突入した。いつものように奥のゴブレットに炎が灯り、薄暗い広間が照らされる。
最奥で待っていたのは質素な布着で肌を包んだひとりの青年だった。俯いたまま両腕をだらりと垂らしている。まるで生気を感じられない。
クララが目を細めながら首を傾げる。
「……人間?」
「みたいだが……まぁ、それだけじゃないだろうな」
試練の間に配置されているのだ。
ただの人間であるはずがない。
「つっても、動かないならこっちから仕掛けるか」
アッシュは2本の短剣を手に敵のもとへと駆け出した。いまだ敵は動きを見せない。このまま接近して一気に仕留める。そう意気込みながら、ついに広間の中央を越えた、そのとき――。
「アッシュ、止まるんだ!」
後方からルナの声が飛んできた。
ほぼ同時、青年が顔をあげるなり犬のような遠吠えをあげた。自身の胸を突き出すように両腕を左右に広げると、その肉体が見る間に膨張。さらに針金のような黒い体毛によって覆われる。
その変貌は一瞬のうちに終わった。
獣と化した青年はこちらを捉えると、床をひと蹴り。瞬く間に肉迫してきた。
アッシュは急停止、弾かれるようにして後退する。と、先ほどまで立っていた床が敵の振り下ろした拳によって荒々しく破壊された。
飛び散る破片を目にしながら、背筋が凍るような感覚に見舞われる。とてつもない威力だ。ルナが声をかけてくれなければ肉片と化していたかもしれない。
「なんだ、こいつ……!」
「ライカンスロープ! 月の光で変化する獣化人だ!」
「月ったって、どこに――」
アッシュは跳びはねるように後退する最中、ほのかな光が頭上側から射していることに気づいた。素早く見上げた先、天井近くに三日月が浮かんでいた。夜空ではないが、試練の間の独特の暗さもあいまって違和感はほとんどない。
強烈な殺気を感じ、視線を戻した。敵がまたも豪快に床をひと蹴りし、こちらに接近してくる。人間では到達できない速さだ。アッシュは半ば反射的に敵の突き出した右手にソードブレイカーをかち合わせる。が、あまりの衝撃に左腕が後方へ弾き飛ばされた。
「ちぃっ」
敵が今度は左手を伸ばして追撃してくる。アッシュは弾かれた左腕を振り回すようにして体を回転。そのまま敵の懐から脇へと抜け、背後に回り込んだ。
こういった単純に攻撃力と敏捷性の高い相手が一番厄介だ。しかし、それでも攻撃が徹るなら、やりようはある――。
アッシュは敵の背中へとスティレットを突き込んだ。どすっと重い音を鳴らして柄に引っかかるまで深く刺さる。有利属性ゆえか、抵抗はほぼなかった。手応えは充分だが、仕留めるには至らなかったらしい。敵は暴れるように後方へと手を振るってきた。
たまらずアッシュは後退したところ、思わず目を疑ってしまう。今しがたスティレットで敵につけた背中の傷が見る見るうちに塞がっていたのだ。
「……なんつう再生力だ」
ぐるる、と唸りながら、敵がこちらに振り向いた。直後、その背中を極太の青い光線が叩いた。クララの《フロストレイ》だ。敵はかすかによろめくが、それだけだった。かすかに体毛に霜がついただけで傷も見当たらない。
ルナによって射られた3本の矢が白い光を伴いながら敵の背中に刺さる。軽い音から察していたが、あまり深くは刺さらなかったようだ。敵は刺さった矢を強引に抜き取り、荒々しく放り投げる。
「えぇ、全然効いてる気がしないんだけどー!」
「こいつもやっぱり硬いね……ッ!」
どちらの攻撃もまったく徹っていないわけではないが、敵の再生力を考えれば効果はほぼなしといったところだ。おそらく再生力を上回る損傷を与えなければ倒すことはかなわないだろう。
鬱陶しそうに敵がクララたちのほうを睨んだ。まずい。彼女たちに標的が向かないように、とアッシュはすかさず敵との距離を詰め、接近戦を挑んだ。単純ながら圧倒的な破壊力をもった敵の一撃を受け、いなすたびに肝が冷える。
「こいつ、さっきより速くなってやがる……ッ!」
受ければ弾かれる程度だったが、いまや軽く腕がしびれている。
「ライカンスロープは満月に近づくほど強くなるんだ!」
「じゃあ、それまでに倒せってことか!」
ちらりと頭上を確認したところ、月は半月にまで近づいていた。
猶予はあまりないようだ。
ふと敵の動きが急激に遅くなった。
見れば、敵の足下に《ゴーストハンド》が絡みついていた。
「いいぞ、クララ!」
「強化しておいてよかった!」
アッシュは敵の周囲を駆け回りながら、スティレットで猛攻撃をしかける。幾らか弾かれたが、背後をとった際に2撃を喰らわせることに成功した。すでに再生が始まり、傷口が塞がりはじめているが、この調子で攻撃し続けられれば勝機はある。
敵が空気を震わすような咆哮をあげた。いったい何事かと思っていると、敵の足に絡みついていた《ゴーストハンド》が消滅していた。敵の猛攻が始まり、アッシュはまたも受けに回る。
「クララ、上書きを!」
そう要求しても一向に《ゴーストハンド》はかからない。
いったいどうしたのかと思っていると、ルナから情報がもたらされる。
「クララが《サイレンス》をかけられた!」
「そんなこともできるのかよっ」
おそらく先ほどの咆哮が《サイレンス》の効果を持っていたのだろう。
《サイレンス》は一定時間、対象の魔法使用を封印できる。同じ6等級の《ディスペル》で解除はできるが……6等級に達してすらいないうえ魔術師がクララ以外にひとりもいない。つまり解除不可ということだ。
クララはサイレンスで魔法を使えない。
ルナの攻撃も現状では火力不足。
こうなればひとりでどうにかするしかない。
満月になったら敵はどれほどの強さになるのか。興味はあるが、はっきり言って現状でも手に負えないほどだ。これ以上、強くなられると撤退するほかなくなる。
火力不足とはいえ、赤、緑の塔と撤退続きだ。
ここぐらいは勝ちたいところだが、どうする――。
思案中にも敵の豪快な攻撃が襲ってきていた。その威力は最初よりも段違いに上がっている。受ければ腕がもげるかもしれない。またも撃ち下ろされた敵の拳が床を穿った。弾け飛んだ破片が頬をかすめ、血を散らす。
アッシュは冷静に敵を見据え続ける。先ほどの《ゴーストハンド》を受けていたときのように動きが鈍れば一気に決められる可能性はあるが……。
ふと、ソードブレイカーに埋め込まれた2つの黄色い宝石――麻痺の強化石が目に入った。これを食らわせられれば、敵の動きを一瞬止められる。耐性があれば効果はないが、試してみる価値はある。
問題はソードブレイカーをどうやって敵に食らわせるかだ。残念ながらこの武器では敵の攻撃を受け止められたとしても皮膚を斬ることはできない。
だったら――。
アッシュは恐怖を押し殺して前へと一気に駆けた。敵が腹を抉るように左手を薙いでくる。それをしゃがみ込んでかいくぐったのち、敵の左脇腹から胸部の中心に向かってスティレットの先端を走らせた。
浅くではあるが、すっと斬った感触。
敵に堪えた様子はないが、本命はスティレットではない。
斬った線をなぞるように、今度は胸部側からソードブレイカーを走らせた。外皮は硬くとも、さすがにその内側までは硬くないはず。その目論みどおり、刃で肉を裂いた感触がたしかに伝わってきた。あとは効果が出るかだが――。
敵がかすかに体を震わしながら、不自然な格好で硬直していた。どうやら効果はあったようだ。
麻痺の強化石は2つに増やしているが、それでもほんのわずかな間しか効果はない。アッシュはソードブレイカーをすぐさま収め、攻撃手段をスティレット一本に絞った。敵の心臓に一突き。抜いてさらに2度斬り刻んだのち、敵の頭上を飛び越え、落下ざまに頸へと思い切り刺し込んだ。敵の肩に乗り、さらに深く押し込む。
さすがにこれで倒しただろう。
そう思ったが、敵の消滅は始まらない。それどころか麻痺の効果が切れたようだった。敵がのろりと動き出す。まだ攻撃が足りないのか。ここまで傷を負わせたというのに――。
視界の端で煌きが走った。
とす、とす、と弱々しい音をたてて次々に矢が敵の胸元に突き刺さっていく。その音に合わせて足音も近づいてくる。見れば、ルナが矢を射ながら駆け寄ってきていた。
「ルナッ!? なにしてんだ! 止まれ!」
制止を呼びかけるが、ルナに止まる気配はない。
それどころか決死の表情でなおも近寄ってくる。
と、驚くことにルナの矢が刺さるたびに敵が呻いていた。先ほどは毛ほども痛がっていなかったはずだが、いったいどうして。
アッシュは先ほど自身がソードブレイカーの刃を徹すために使った手法を思い出した。ルナはスティレットによって刻まれた斬り傷を見事に射抜いているのだ。
敵が怒り狂ったように咆えながら、ルナを見やった。
このままでは標的にされてしまう。
「俺を忘れてもらっちゃ困るぜッ!」
アッシュは頸に刺していたスティレットを引き抜き、今一度深く突き込んだ。敵が大きくよろけ、膝を折る。そこへルナが叫びながら肉迫し、力強く引き絞った矢をほぼ間合いなしに敵の胸部へと放った。
それが決め手となったか、敵――ライカンスロープは慟哭をあげた。その場にくずおれ、影となって消滅していく。天井に浮かんでいた月も満ちることなくその姿を消していた。
アッシュはスティレットを収めながら、頬についたかすり傷をこする。
「助かったぜ、ルナ」
感情が昂ぶったままなのか、ルナはしばらく肩で息をしていた。大きく深呼吸をしたのち、少し困ったような顔を向けてくる。
「……ここで決めるしかないって思ってね」
「けど、いまみたいのはもう勘弁してくれよ。ひやひやしたぜ」
ルナが首を傾げながら、窺うような目を向けてくる。
「心配した?」
「そりゃあな」
「じゃあ、ちょっとは頑張った甲斐があったかな」
言って、ルナがはにかむように笑んだ。
そんな顔をされてはもう強くは言えなかった。
「ん~~~っ!」
唐突に聞こえてきた唸り声。
声の主はクララだった。
彼女は口を閉じたまま唸り続けている。
「まだ解けてないのか」
「それだけ敵の《サイレンス》が強力だったってことだね」
「しかしこれ、魔法を使えなくするだけじゃなくて喋れなくもできるんだな」
アッシュは興味深そうにクララを観察する。
当の本人は不満そうになにか叫んでいるが、やはりなにを言っているのかわからない。
「他人を強制的に黙らせたいときにも有効そうだね」
「クララが弱音を吐いたときに使えれば便利なんだけどな」
「それだといつもってことになるかも」
アッシュはルナと2人して笑い合っていると、「ん~~!」と唸り続けていたクララが「ぷはぁっ」と息を吐いた。どうやらサイレンスが解けたらしい。
「ちょっと2人とも、あたしが喋れないからって好き勝手言って! ひどいよっ!」
「じゃあ、そんなクララに提案だ。まだ夕食には早いし、いまから51階に行こうぜ」
「疲れたので反対します!」
手を挙げて叫ぶクララ。
案の定な答えだった。
「少し覗くだけだ。いいだろ?」
「うぅ~~っ」
先ほどあえて〝いつも弱音を吐く〟とルナと言い合っていた効果があったようだ。クララは顔に不満の色を残しながらも観念したように息を吐いた。
「ちょ、ちょっとだけだからね……」





