◆第十話『絶望の中に灯る光』
意気消沈している暇なんてなかった。
猛然と肉迫した主から黒々とした爪が振り下ろされる。
とっさに後ずさり回避には成功したが、間髪容れずに鋭い牙が襲いくる。
アッシュは舌打ちしながら、さらに後方へと飛び退いた。
「そんなに喰いたきゃ、これでも喰ってろ!」
折れて使い物にならなくなったスティレットを主の口へと放り込んだ。
主は口を閉じるなり、紅玉の瞳を怪しく煌かせながらじっとねめつけてくる。
さて、どんなお礼をしてくれるのか。
面白半分、恐怖半分で待っていると、再び開けられた大口から火球が飛んできた。
なんて熱烈なお返しだ。
アッシュは横へと身を投げた。
床を転がったのち、すぐさま膝を立てて飛び起きる。
同時、壁に激突した火球が地鳴りのような音を響かせた。壁が頑丈なようで幸い広間が崩れるなんてことはなかったが、大きな黒いコゲがしかと刻まれている。
この塔で遭遇したダイアウルフ同様、火を吐くことは想定していたが……。
大きさも威力も桁違いだ。
冷たい汗がつぅーと背中を流れていく
アッシュは主を警戒しながら、左手で抜いたソードブレイカーを右手に持ち替える。
強度はスティレットより上だが、これはあくまで相手の武器破壊のための道具。
刃の鋭さには重きを置いていない。スティレットで徹せなかった主の皮を斬り裂くなんてことはまず無理だ。
つまり残された道は一つ。
逃げるしかない。
「つっても、逃げ道なんてどこにもないしな……」
アッシュはちらりと周囲の様子を探る。
と、なにか違和感を覚えた。
床や壁に彫られた幾何学模様。
天井がヴォールトであることをはっきりと確認できる。
広間を訪れたとき、こんなに明るかっただろうか。
ただ単に目が慣れただけにしては差が大きい。
――いったいどうして。
その疑問が脳裏に流れたとき、主の荒々しい息遣いが迫ってきた。
どうやら悠長に打開策を練らせてはくれないらしい。
噛み付きから二度の引っかき攻撃を辛うじて回避し、再び視界の中に主を収める。
と、壁面に飾られた盃に火が灯っているのが一緒に映り込んだ。
あれは最奥の盃ではない。アッシュは慌ててほかの盃も確認してみると、6つの盃のうち3つに火が灯っていた。
いつ灯ったのか。
いや、それよりもなぜいまになって灯ったのか。
またも襲い掛かってきた主の攻撃を躱しながら、最初に転移した場所へと目を向けた。
なにやら床に三角を描くよう3つの点が光っている。
塔の入口で見たリフトゲートの魔法陣が脳裏に過ぎる。
6つの盃。
六芒星。
偶然にしてはデキすぎている。
もしかすると6つの盃すべてに火が灯れば、外へ出るためのゲートが開かれるのかもしれない。確証はないが、試す価値はある。
灯し方についてはおそらく時間経過で間違いないだろう。悔しいことに広間に入ってからというもの、長く生存していることぐらいしか達成していないからだ。
――とにかく逃げ続ければ脱出への道は切り開ける。
また1つ火が灯った。
心中で「よし、あと2つ!」と勢いづいた、そのとき。
主が遠吠えをあげた。
広間の中で反響した音が徐々に小さくなっていく。
やがて静かになると、今度は大量の足音があちこちから聞こえてきた。
増援か。アッシュは周囲への警戒をいっそう強める。
壁面の上部に幾つも掘られていた小窓のような穴から、次々にダイアウルフが飛び出てきた。9階までに見た通常型だが、数は10とかなり多い。
「……こっちは狩られる側ってことか」
主の咆哮を合図にダイアウルフたちが一斉に襲いかかってきた。
前後左右、さらには上空からも攻撃をしかけてくる。
この場に至るまで散々相手をさせられたこともあり、ダイアウルフの動きは把握できていた。おかげで致命傷は避けられているが、さすがに多勢に無勢。衣服とともに皮膚が少しずつ裂かれていく。
すぐに仕留められず苛立ったか、様子を窺っていた主も攻撃に参加してきた。ダイアウルフたちを押しのけ、床ごと砕くように噛み付いてくる。
アッシュはとっさに主の懐へと潜り込み、尻側から脱出する。と、1体のダイアウルフが見計らったように飛びかかってきた。
ソードブレイカーの櫛側を相手の牙に押し付けるが、勢いに負けて背中から倒れてしまった。すぐさま敵の腹を蹴り上げる。呻いて横倒れになったところをソードブレイカーで突き刺す。
と、ガンッと鈍い音が鳴った。
「おいおい、お前らまで硬いのかよ……!」
これまでのダイアウルフならソードブレイカーでも刃を徹すことはできたが、この10階のダイアウルフには通じないらしい。
動じている間にもほかのダイアウルフが迫ってきていた。回避が間に合わずにソードブレイカーで受けるが、体勢不利で弾かれ、手からこぼしてしまう。
勢いよく床を滑ったソードブレイカーは運悪く主のそばで止まると、その巨大な足に踏み潰されて粉々になった。もう笑うしかない。
主が前足で床を強く叩くと、また遠吠えをあげた。
10体のダイアウルフたちが主のそばへ駆け寄り、横一列に並ぶ。
なにをするつもりかは紅い瞳を見れば一目瞭然だった。
「……あ~、それなら左右には避けられないな」
アッシュは身を翻し、全力で走った。
自分の影がくっきりと映り、周囲が赤々と照らされる。
おそらくダイアウルフたちが一斉に火球を吐き出したのだ。
このまま逃げても前方には壁しかない。
が、少し視線を上げればちょうど盃の飾られた凹みがあった。アッシュは勢いよく跳躍し、凹みの縁に手をかけると、体を振った反動で一気に上りきった。
ほぼ同時、凄まじい振動に見舞われた。
おそらく火球が壁に衝突したのだろう。
凹みから落ちそうになったが、盃を掴んでなんとか堪えきる。
一息ついたとき、いきなり周囲の明るさが増した。
いま、隣にある盃に火が灯ったのだ。
これで5つ目。
残るはあと1つ。
アッシュは凹みから顔を出して下の様子を窺う。
主とダイアウルフたちは唸り声を漏らしながら、こちらを見上げている。
ここで待機していれば逃げ切れるかもしれない。
そんな甘い考えを抱いたものの、即座に打ち砕かれた。
主を踏み台にしてダイアウルフが飛びかかってきたのだ。
アッシュは上の縁を両手で掴むと、それを支えに足裏でダイアウルフを押し返していく。強く蹴らないのは相手の肉体が相当な硬度を持っているからだ。下手をすれば足を痛めかねない。
――まだか。まだ、6つ目の火は灯らないのか。
5体のダイアウルフを返り討ちにしたところで足場が大きく揺れた。
主が壁に体当たりをしかけたのだ。
さらに一度だけでなく何度もしかけてきている。
盃が大きく揺れだした。
このままでは倒れかねない。
「くそっ」
アッシュは意を決して主の背中へと飛び移った。
這いつくばり、フサフサとは言い難い剛毛をぐっと掴む。
鬱陶しいとばかりに主が暴れはじめた。
ぐわんぐわんと頭が揺れ、意識が朦朧としてくる。
まだか。
6つ目の火は――。
視界が目まぐるしく変化する中、暗い空間にいきなり光が満ちるのを確認した。
ついに最後の盃に火が灯ったのだ。
すぐさま最初に転移されてきた場所を確認する。
先ほどは3つだった光点が、いまや6つとなっていた。
さらにそれらを繋ぐように光の線も引かれている。
あの模様は、まさしく塔の入口で見たリフトゲートと同様の魔法陣だ。
やはり盃の点火が脱出への条件だったようだ。
あとはあそこに辿りつくのみ。
魔法陣から視線を外した瞬間、壁が接近していることに気づいた。
どうやら主は自ら壁にぶつかってこちらを押し潰すつもりらしい。
「くそっ!」
アッシュは主の背中を思い切り蹴って飛び下りた。
直後、主が壁に勢いよく激突し、広間全体に轟音が響き渡る。
魔法陣に近づくまで主に乗ったままでいようと思ったが、こうなったら自分の足で辿りつくしかない。着地からすぐに体勢を立て直し、一目散に魔法陣へと向かう。
――おかしい。
なぜダイアウルフたちによる追撃がないのか。
着地と同時に襲いかかってくると思っていたのだが……。
好機とはいえ、不気味過ぎる。
ふいに周囲の光に赤みが増した。
足を止めず肩越しに背後を確認すると、最悪の光景が広がっていた。
横一列に並んだ主とダイアウルフたちが一斉に火を吐いていたのだ。
大火球を中心に、まるで翼のように小さな火球が横並びに向かってくる。
「ははっ、最高のタイミングで撃ってくれるじゃねぇか……!」
アッシュは目的地――魔法陣に視線を戻すと、足首が軋むほど地を蹴った。
肩が外れるのではと思うぐらい腕を振った。
魔物に背を向けながら、こんなに全力で走ったのは久しぶりだ。
魔法陣まであと少し。
だが、火球もまたすぐ後ろまで迫っていた。
背中が焼けつくような感覚に見舞われた、その瞬間。
アッシュはなりふり構わずに頭から魔法陣へと飛び込んだ。
間に合え――ッ!





