悪役令嬢は、打倒ヒロインを目指す
「なんて、なんてことなの…」
1人の少女が、己の自室で打ちひしがれていた。普段の彼女を知っている者が見れば、驚きで2度見してしまうほどである。腰まで伸びた流れるような金糸を床に垂らし、服に皺がついてしまっているが、現在の彼女がそれを気にする余裕はなかった。
ベルフレイア・アルンストは、9歳の女児である。貴族の娘として生まれ、今まで何不自由なく生きてきた、典型的なご令嬢であった。両親は彼女に甘く、欲しい物は簡単に手に入り、容姿も整っており、将来はかなりの美人になるとまで言われてきた。
そんな環境で暮らしてきた彼女は、所謂我がままで傲慢な性格に育った。使用人を気に入らないからと親に頼み辞めさせたり、気に入ったドレスを手当たり次第買いあさったり、己より身分の低い同年代を奴隷のように扱ってきたり。数え上げれば切りがないほど、ベルフレイアは9歳でやりたい放題してきたのである。
そう昨日――前世の知識を思い出すまでは。
「この私が、ゲームと呼ばれるものの……悪役だなんて…」
今までゲームという単語も、悪役なんて知識もなかったベルフレイアにとって、この記憶はあまりにも唐突過ぎた。蘇った知識から考えるに、これは前世の記憶と呼ばれるものなのかもしれない、と彼女は思考する。そしてベルフレイアにとって幸か不幸か、前世は知識だけしか思い出さなく、その意識までは引き継がなかった。
それでもいきなり膨大な知識と追憶が蘇ったことは、彼女の中の自意識を刺激した。その中でもベルフレイアに最も驚愕を与えたのは、この世界が前世で乙女ゲームと呼ばれた世界であることだった。しかもそこには、同じ名前と境遇と容姿を持った自分がいた。ヒロインとライバル関係になる存在として。
「悪役って、悪い人ってことよね…」
前世の道徳観というものを知ってしまったベルフレイアは、今までの自分の行いを考えてみると、確かにそうだと思ってしまった。前世の価値観で考えれば、まさしくとんでもない令嬢である。恨みを買うだろう、嫌われるだろう、悪役だろう。まさに3拍子だ。
ベルフレイアの心境を一言で言うなら、「えっ、マジで?」である。彼女はこの9歳まで、まったく自分が悪いことをしていると思っていなかったのだ。使用人なんて、辞めさせてもすぐに新しい人間が来た。お金の大切さなんて、9歳の子どもにはわからなかった。高貴な身分の者が、その上に立つのが当たり前だと思っていた。
それが当たり前ではない、と初めて知った彼女は衝撃を受けた。だから、彼女としてもゲームという世界で悪役になっていたことに納得してしまった。確かに自分なら、間違いなくこのゲームのような生き方をしていたな、と。故にゲームという突拍子のない知識を、ベルフレイアは受け入れてしまった。
しかし――
「認めるわ。確かに私は悪役だったようね。このヒロインって子は、私より身分が低いし、私の婚約者と良い仲になっていた。私なら絶対に嫌がらせをしたでしょう。顔だって、ヒロインなんでしょうから、この私より上かもしれない。性格もいいはずよね」
ベルフレイアが前世を思い出したきっかけは、昨日一つ年上の婚約者であるシュレイン・エトワードと対面した瞬間だった。こんなにも美しい人を初めて見た、と胸を高鳴らせた一瞬、既視感に襲われた。そこから一気に、知識が流れ込んできたのだ。
いきなり倒れてしまったベルフレイアは、先ほどまでベッドで休んでいた。そして流れ込んだ知識を整理し終わった彼女は、思わず床に突っ伏してしまったのである。そして自分の思いを言葉にしていくことで、ベルフレイアは決意を固めていった。
ベルフレイア・アルンストは、今まで一度も負けたことがなかった。それが将来、婚約者を取られ、学園を追放され、世間から爪弾きにされるとわかったのだ。負け犬人生真っ逆様である。そんな将来に、彼女の中の何かが燃え上がった。
「だからって、この私が負けたまんまなんて絶対に認めてやるもんですか! 私が本気を出したら、絶対に勝つに決まっているわ! 見ていなさい、私の永遠のライバルよっ! 美貌も人望もぜーんぶ勝ってみせるんだからっ!」
今までの行為に反省はしても、ベルフレイアのプライドは高いままだった。プライドが高いと言うことは、上を目指す上昇志向が高いことともいう。つまり、ものすごく負けず嫌いだったのだ。
悲惨な未来に悲観したり、ヒロインと関わることをやめよう、とかそんな逃げの姿勢など言語道断。真正面からヒロインに立ち向かい、粉砕してみせる。彼女の負けず嫌い根性は、まだ見ぬヒロインを、己の生涯を賭けてでも倒すべきライバルとしてロックオンした。
もちろん、悪役などと言った噛ませ犬など、倫理観を知った彼女は切り捨てた。目指すべきライバルは、そんなレベルでは勝てない。前世でいうところのチートな存在なのだ。そんな相手と競い合うことに武者震いが起きる。そしてそんな人物に勝利してみせる自分という未来に、ものすごく興奮した。ベルフレイアは今、今生で一番輝いていた。
「そうと決まれば、自分を磨かなきゃいけないわ。7年後の決戦に向けて、出来ることを全力でやらなくちゃ。ヒロインは今も牙を磨いで、魅力を上げているんだから。ふふふ、燃えてきたわ…」
9歳の女児とは思えない気迫を滾らせながら、ベルフレイアは口角をあげる。こうして、打倒ヒロインに向けての彼女の修行は始まったのであった。
******
「エトワード様! お願いがありますっ!」
「……アルンスト嬢か。先日いきなり倒れられたが元気そうだな」
「はい、元気です! 体調不良などになっては、修行が出来なくなってしまいますから。これからは健康面も気を付けていきます!」
「そ、そうか。……ところで先日の婚約の件だが、先に言っておく。俺は君に興味は――」
「あぁ、そうです。エトワード様、お願いがあるんです」
「いや、俺の話をまず――」
「私に勉強を教えてください! エトワード様、確か頭が良い設定でしたよね。私を学園で、いいえ、この国でもトップの才女にッ!」
「話を聞けよっ!」
恋愛とかは後回しで、まずは己を磨くことに専念することに決めたベルフレイアの行動力はすごかった。知識があれど、彼女は9歳の少女である。その恋愛観は、この世界の題材となった乙女ゲームになっていた。つまり、ステータスが高くない女に、男はときめかないと思っていた。
故に、先日まで悪役街道まっしぐらだった自分に、好感度上げができるほどの魅力はないと決定づけた。今のベルフレイアがシュレインにいくら良くしても、友達以上にはならない。何故なら底辺ステータスで、恋人になったなどということは、あのゲームを何度回想してもなかった。
だから彼女は、婚約者であるシュレインと仲良くなるのは、ステータスを上げてからだと考えた。好感度を上げながら修行など、そんな中途半端で甘いことをしていては、ライバルに負ける。ヒロインは初対面にもかかわらず、学園生活という短い間に攻略してくる恐ろしい相手だ。悪役とはいえ、7年間婚約者をしていた自分を蹴落とす猛者。その恐ろしさに、彼女はゴクリ、と唾を飲み込んだ。
それでも全く接触がない、というのは己の優位性を捨てることと同じ。ならばどうするか、と考えたベルフレイアは彼を修行の協力者として巻き込むことに決めた。ゲームの学園では、シュレインは生徒会長として主席を飾る人物。まさにチートなヒロインの隣にふさわしい男なのだ。そんな彼を、使わない手はない。
「勉強ってどういうつもりだ。何より、なんで俺が」
「なんでって、エトワード様は神童と呼ばれるぐらいの秀才なんですよね。将来は文武両道で、人望もあるお方になられる人です。そんな人が近くにいたら、教えを乞うのは当然ではないですか?」
「なっ……、お、俺にそんな媚を売ったってなっ!」
「事実です! 確信です! 絶対です! 決定事項です!」
「お、おう」
ベルフレイアのあまりの迫力に負け、思わず肯定を返すしかシュレインにはなかった。親が勝手に決めた政略結婚のために、婚約者となった一つ下の少女。彼女の噂を聞いていたシュレインは、嫌悪すら抱いていたのだ。それが、蓋を開けてみたらこれである。
「という訳で、私に勉強を教えてください! ライバルに勝つためには、私は才色兼備な傾国の美女クラスの女にならなければいけないのです!」
「おい、俺の婚約者としてふさわしく、とかじゃないのか。あとなんだ、その目標。そしてそこまでしないと勝てないライバルってなんだ」
「ライバルはライバルです。別名ヒロインとも言います。私が己の生涯を賭けてでも、倒さねばならない宿敵です」
「頭痛くなってきた…」
メラメラと熱血主人公のごとく燃えあがるベルフレイア(9歳の令嬢)と、婚約に頭を抱えていたのに、その婚約者にさらに頭を抱えることになったシュレイン(10歳の苦労人)は、こうしてちゃんと面識を持ったのであった。
そして「勉強をぉぉぉーー!」と令嬢としてはあり得ないほどのガッツで、連日迫ってきたベルフレイアに、彼が折れる3日前の出来事である。
******
ベルフレイア(10歳)、シュレイン(11歳)
「おい、なんで俺の家の前で倒れていたんだ」
「い、いえ、ちょっと運動のために、私の家からエトワード様の家まで往復20周ぐらい…」
「馬鹿だろッ!? お前本当に馬鹿だろ! 勉強だけじゃ満足しないのかっ!」
「ヒロインのスペックを嘗めちゃだめです。彼女はあらゆるスポーツに精通する、運動神経の持ち主のはずです。だから私は、彼女を超えるためには己の限界をさらに突き破って、壁を越えなければ……!」
「どれだけ、そのライバルに執念を燃やしているんだよ。恨みでもあるのか?」
「ふふふ、恨みなどありませんよ。私は彼女の、そして彼女は私の生涯のライバルです。己の全てをぶつけ合える存在なのですよ。この胸の高鳴りを、昂揚感を、受け止めてくれるのは彼女のみなのです!」
「……俺、こいつの婚約者だよな。他人に夢中のこいつを止めるべきなのか? いや、別に望んで婚約した訳じゃ…。しかも相手は女で、けど、なんか違う気が……」
ベルフレイア(11歳)、シュレイン(12歳)
「……おい、お前今度は何をしているんだ」
「あっ、エトワード様。ごきげんよう、よろしければ買っていかれますか?」
「買って、ってお前。だから何で貴族の令嬢が、下町でパンを売っているんだ」
「ふふふ、そんなの見識を広めるために決まっているじゃないですか。ヒロインは平民にも分け隔てない、平等を大切にする慈愛の精神の持ち主です。庶民性というギャップが、彼女の武器の一つと言っても過言ではありません。そんな武器を、私も持たない道理はないと――」
「は・な・し・を・き・け!」
「きゃー! 傾国の美女を目指す私の顔に、指をめり込ませないでー!」
「お前はあほかっ! いや、あほだったっ! 誘拐でもされたらどうする気だ!?」
「だ、大丈夫です。両親に土下座して働く許可をもらって、私兵をちゃんとひっそりとつけてもらっていますから。私自身も、痴漢撃退法の免許皆伝をいただいた身。ヒロインは純潔の処女という天使属性です。だから私も、彼女と真っ向から戦うためには天使属性でいなければなりません。私の処女は、何人たりとも触れさせはしないので――」
「天誅ゥーー!!」
「あいたぁッーー!!」
ベルフレイア(12歳)、シュレイン(13歳)
「わぁ、わぁぁ…。エトワード様、見てください! 綺麗な湖です」
「あぁ、そうだな。なんでもここの水は、『水の女神様がいる』とまで呼ばれるぐらい澄んだ場所で……、おい、なんでいきなり祈り出した」
「――私も女神様に、私も女神様に。……あ、いえ、女神様がいるのなら、色々あやかろうかと思いまして。ついでにここの水も汲んで、お肌の手入れを」
「……なぁ、雰囲気って言葉を知っているか? お前、今日は俺と二人っきりで遠出しているんだぞ。手入れを優先するなよ」
「あっ、お魚です! 新鮮ピチピチのお肌に良さそうなお魚さんですっ! 待っていてください、今日のお昼ご飯よ。どんな環境でも逞しく生きるヒロインのど根性と対抗するために、鍛えあげてきたこのサバイバル技術でっ!」
「…………」
ベルフレイア(13歳)、シュレイン(14歳)
「おい、ここの計算が間違っているぞ」
「えっ、本当ですか? ……ここはこの公式を使えばよろしいのでしょうか」
「そうだ。次にこの問題だが、これはちょっとひっかけがある。違いはここの一文を見分けられるかどうかによるが…」
「えーと、違い、違いですか……」
「どうした、才色兼備を目指すんじゃなかったのか。ベルフレイアの頭じゃ、ここが限界か?」
「なっ、言いましたね! ヒロインとは常に諦めない執念という魂を持つ存在です。たとえどんなことがあっても、そのライバルである私だって諦めはしません!」
「……そうか」
「へ? どうしました、エトワード様。なんだか嬉しそうですが」
「別に」
ベルフレイア(14歳)、シュレイン(15歳)
「ふふふ、私もついに社交界デビューです。さぁ、私の修行の成果を見せてあげますわ!」
「ベル、お前な。婚約者がいる身で、男に現を抜かす気か」
「大間違いです、エトワード様。私の狙いは、ピッチピチの同性です!」
「なおのこと性質が悪いっ!?」
「ヒロインとはたくさんの友人に囲まれ、時に助け合う美しき花園の持ち主です。昨今の女子の流行は全て網羅しましたし、人気のお菓子店の招待券も用意しました。きっと彼女たちのハートを、私はキャッチしてみせる。……9歳の時までに酷いことをしちゃったみんなに、もう一回ちゃんと謝らなくちゃ。だから、5年間築き上げてきたステータスよ、今こそその神髄をちょっと解き放つのです!」
「ちょっとかよ」
「全力は、ヒロインというラスボスのために残しておかなくては…」
「はいはい。まぁ、頑張ってこい。スペックは確かに高くなったし、性格はアレだけど……ちゃんとそいつらに、今のベルフレイア・アルンストをみせてきてやれよ」
「えへへへ、……はいっ!」
――こうして、月日はゆるやかに流れていった。
******
「どうすればいいのかしら…」
ベルフレイア・アルンストは、この世界の舞台となる学園のパンフレットを眺めながら、唸っていた。15歳になった彼女は、艶めく金の髪の手入れを毎日忘れずに行い、前世の知識で知ったオレンジパックもしていた。睡眠不足はお肌の天敵であるため、本来ならすぐにでも眠りにつくベルフレイアにしては、珍しく夜更かしをしていた。
「……もう、1年後なのよね。ヒロインとの対決は」
オレンジパックを机の上に置き、ベルフレイアは一人天井を見つめた。ずっと目指してきた永遠のライバル。果たして自分は、彼女に真正面から挑むほどの魅力を手に入れられたのだろうか。ベルフレイアは、暗くなりそうな自分を慌てて叱咤する。これまでの6年間を、彼女は決して怠けることなく、本気を出して取り組んできたのだから。
6年前の彼女とは、周りの反応は何もかも変わっていた。使用人たちとの交流を欠かさずに行い、今まで辞めさせた者たちには、己が働いて稼いだお金を持ってせめてもの謝罪を行った。お金は将来に向けて貯めるもの、と気を配って使ってきた。楽しくおしゃべりができる友達だってできた。
前世で知っている、ベルフレイア・アルンストとは似ても似つかない。間違いなくこれは、彼女の努力によるものだ。自信だってある。自負だってある。それなのに、不安がある。どうしてだろう、と考えると頭に浮かんだのは――彼の顔だった。
「エトワード様…」
今年から、彼はこの世界の舞台となる『フランヴェルグ学園』に入学する。彼との関係も、前世の知識にいるベルフレイアとは考えられないものだろう。6年前から続く修行にずっと付き合ってくれた協力者であり、今でも自分の隣にいてくれて、笑いかけてくれる存在。
彼女の知る、学園での彼らの関係は冷めきったものだった。一方的にシュレインを慕っていたベルフレイアと、その彼女に無関心を貫いた彼。ベルフレイアが学園を追放される時も、彼の心が動くことはなかった。怒りも悲しみも、清々したという気持ちすらもなく、ただ「さよなら」とたった一言だけ言い捨てて行くのだ。
その隣に、ヒロインを連れて――
カチリッ、と不意に耳に入った音に、ベルフレイアは意識を引き戻す。なんの音だろう、と耳を澄ますと、その音の発信源に気づく。カチカチと上下に合わさった自身の歯が、震えによって鳴らしたものだった。
「――ッ!」
ベルフレイアはグッと歯を噛みしめ、己の身体を抱きしめる。ずっと考えないようにしていた結末。目尻から少しずつ溢れた涙が、震える彼女の手の甲に落ちる。止まらない思いに、何度も頭を振った。
最初は彼女も、ステータスアップなど3、4年ぐらいで済まそうと思っていた。もちろん日々の努力は続けていくつもりだったが、次の段階に進まなければと思うと、すぐに恐怖心が芽生えた。次の――シュレイン・エトワードの好感度を上げること。だが、それを考えるとまだまだ自分の魅力では……、と誤魔化してきた。
今の彼とゲームの彼が違うのはわかる。それでも、ヒロインではなくベルフレイアを見てくれるのか、怖くなってしまった。あの冷めきった目をもし向けられるようになったら、と考えれば彼女は耐えきれなかった。
彼を好きになったのは、ゲームの自分と同じで一目惚れであった。初めて会った彼が、本当にカッコよくて、今まで見てきた人たちとは比べ物にならないぐらい輝いていたのだ。明るい茶色の髪と冷めた翡翠の瞳を持った彼が、まるで絵画から飛び出した天使のようだと思った。
そんな彼と一緒に6年間を過ごして、さらに彼に惚れ直してしまった。勉強が難しく、なかなか理解できない私に、難しい顔で噛み砕いて教えようとしてくれた姿に。誰よりも努力をして、常にトップをキープする彼の凄さに。時々見せてくれるはにかんだ笑顔のかわいさに。修行でボロボロになった私を、呆れながらも手を差し伸べてくれた温かい手の感触に。社交界に出るときに、そっと背中を押してくれた優しい言葉たちに。
彼女の胸は、ギュッと締め付けられた。
「嫌、いや…、エトワード様は……シュレイン様はっ!」
学園でのベルフレイアは、彼を名前で呼ぶことはなかった。呼ばなかったのではなく、呼べなかったのだ。他ならない、ベルフレイアに名を呼ばれることを彼が嫌ったから。無関心だった彼が、唯一嫌悪を滲ませた瞬間。だから、ゲームのベルフレイアは彼を名前で呼ばなかった。
もし、自分が名前を呼ぶことを嫌がられてしまったら――、きっと壊れてしまう。だから、ベルフレイアは彼の名前を呼べなかった。情けない限りだ、と冷めた自分がどこかにいるのもわかる。こんな自分が、本当にヒロインに勝てるのか。恐怖に立ち向かってこそヒロインではないか、そのライバルではないのか、と何度も考えた。それでも、あと一歩が踏み出せない。
「あと、1年……」
無意識に呟いた言葉が、チクリッ、と彼女の胸に痛みを作った。
「……ぶっさいくな顔だなぁ」
「……ふぁ?」
誰だ、この傾国の美女に向かって失礼なことを言うのは。言われた言葉に意識が徐々に覚醒し出したベルフレイアは、胡乱げにその人物を睨んだ。彼女に睨まれた人物は、おかしそうに笑うと、彼女の頭を軽く小突いた。
「目が真っ赤だぞ。傾国の美女が頭もぼさぼさで、涎を垂らしていたら、いくらなんでも台無しだ」
「…………エトワード様?」
「おう、そのエトワード様だ」
「……すみません、本物でしたらものすごく叫びたいのですが」
「じゃあ、今から耳を塞ぐから、それからよろしく」
「いえいえいえ」
完璧に目が覚めたベルフレイアは、羞恥心で顔を真っ赤にしてベッドの中に慌てて潜り込んだ。とにかくこの顔をなんとかしたくて、急いで髪を手櫛で整え、口元を腕でこすった。そして、何でこの人が自分の家のそれも部屋の中にいるのか、と混乱した。
叫ぶタイミングを無くしてしまった彼女は、いそいそと毛布から顔を出し、耳を塞ぐ真似をずっとしているシュレイン・エトワードに頬を膨らませた。にやにやしている彼に胸が高鳴りながらも、顔には出さないようにベルフレイアは沈黙した。
「どうした、叫ばないのか」
「……お生憎様です。できる令嬢は、常に冷静沈着なのですよ。ヒロインとは常に鋼の心を持つ存在なのです。そして私は、そのライバルなのですから」
「相変わらず、ヒロインの超人っぷりがすごいな。そんな人間が本当にいたら大変だ」
「……いるんですよ」
「ん?」
ベルフレイアの呟いた声は、シュレインには聞こえなかった。それにしても、と彼は疑問に思う。目元を見ても思ったが、今日の彼女はいつもの元気がない。謎のライバル『ヒロイン』に勝つために、彼女が努力を続けてきたことを彼は知っている。そんな彼女が、己の入学と同時にどこか揺らぎ出したことも。
「……泣いていたのは、そのヒロインが原因か?」
「ち、違います! これは、私の弱さが原因です! ただヒロインという強大なライバルに、ちょっと、本当にちょっとだけ挫けそうになっただけなんです。……だけど、もうへっちゃらですよ。私の闘志に揺らぎはありません!」
「そうかよ、たくっ…。なぁ、ベルはなんでそこまでヒロインに勝とうとするんだ。ライバルって言ったって、一体何のライバルなんだよ」
「それは…」
口を噤むベルフレイアに、彼は肩を竦める。最初の頃は何をふざけているのか、と思っていたライバル打倒宣言。だが、6年間も必死に頑張ってきた彼女が、何かを守ろうとしていることには気づいていた。そしてその守っているものが、彼女にとって大切なものなのだということにも。
彼女の大切なもの――そんな言葉に、胸を騒がせてしまう己に、シュレインは笑った。この感情の答えを、彼は知っていたのだから。
「なぁ、俺が手伝ってやろうか? そのヒロイン打倒に」
「えっ…? だ、駄目です! これは私とヒロインとの決闘ですよっ! 美貌とか人望とか地位とか色々ひっくるめた、ぜーんぶを賭けての戦いなんです!」
「全部って、全部か?」
「はい、全部ですっ」
「俺もか?」
ヒュッ、と息を呑んだベルフレイアに、シュレインの脳裏に苛立ちが浮かんだ。この反応からつまり彼女は、そのライバルとの戦いに負けたら、シュレイン・エトワードもそのヒロインのものになる……と思っていたということだ。それに、彼はうっすらと笑みを浮かべた。
そしてベルフレイアは、何故か背中に冷や汗が流れた。目の前には、とても珍しい大好きな人のにっこりと効果音が付きそうなほどの天使スマイル。……思わず、悪寒がした。
シナリオ通りの結果を一番認められなかったのは、果たしてどちらだったのだろうか。
「……俺がここに来たわけは、学園に入ればなかなか会うことができなくなる修行馬鹿に、ちゃんと挨拶をしにきたんだよ」
「修行馬鹿って、しかも朝に女の子の部屋に無断で入ってくる理由が、挨拶ですか」
「ベルの両親から許可はもらっているし、何より婚約者の部屋へ入るのに理由がいるのか」
婚約者。そう、ベルフレイア・アルンストとシュレイン・エトワードは、婚約者である。だけどベルフレイアにとっては、そんな繋がりは脆くすぐに割れてしまいそうな氷の上を錯覚してしまった。言い知れぬ不安が、彼女の身体を強張らせる。
「……ベルは嫌か、俺との婚約は」
「そ、そんなことはありません! 私はエトワード様との婚約を嫌だなんて思ったことは…」
そこまで言ってしまって、ベルフレイアは慌てて自分の口を防ぐ。これでは、婚約者でいたいと言っているようなものだ。だけど、それは紛れもない本心。口走ってしまったことに、恐る恐る目の前の彼を見据えたベルフレイアは、息を呑んだ。
「……そうか」
いつか見たことがある、彼の温かい表情。大好きな笑み。顔が赤くなる自分自身に、やっぱりこの人が好きなのだと感じる。たとえヒロインに負けてしまったのだとしても、この人だけは取られたくない、と強く心に思った。
だから、彼女は勇気を振り絞った。ヒロインに立ち向かうと決めた、あの時の気持ちのままに。ちゃんと本気を出して頑張ってみせると決めたのだから。
ベルフレイアのプライドが、溢れんばかりの負けん気が、再び闘志を燃え上がらせてみせた。
「あの、エトワード様。お、お願いがあります」
「あぁ、なんだ」
「あの、その、わ、私にエトワード様の……」
バッ、と顔をあげ、力強い相貌を持って、ベルフレイアは声を張り上げた。
「お名前を呼ぶ権利を下さいッ!!」
「……え、まだその段階だったのか。俺たち」
「え、えぇぇぇーー…。やっぱり駄目ですか…。名前を呼んだら、絶対零度ですかっ……」
「しねぇよ。というかなんだ、その絶対零度って。俺の名前って、どれだけハードルが高いんだよ」
「ヒロインの次に!」
「そりゃ、高いなァ!」
彼女の答えに、思わず彼も叫んでしまった。そして、呆れたように、おかしそうに噴きだした。飽きないやつだ、そう小さく呟きながら。
「そ、それでは早速、シュ、シュ、シュ、シュゥッ――」
「レイでいいぞ。あと、どこに発車する気だ」
「えっ! いいのですかっ!?」
「あのな、俺もベルって昔から呼んでいるだろうが。俺の名前が難易度高いって言うのなら、それで勘弁しろ」
「あ、うっ、はいっ!」
耳まで真っ赤になりながら、ベルフレイアはなんとか平常通りに頑張った。名前を受け取ったことが心から嬉しくて、気を抜くと上擦ってしまいそうになる声を抑える。それでも、達成感が彼女の胸に広がった。
これは、好感度が上がっている。つまり、私はかなり魅力的なステータスになっているということである。このまま修行をして、好感度を上げ続ければ、レイ様もいずれ私にメロメロに…。と、ベルフレイアの心がわかったら、シュレインから即叩かれそうなことを考えながら、今は幸せを噛み締めていた。
「ふふふっ。よーし、待っていなさいよヒロイン! この空前絶後の才色兼備にして傾国の美女クラスの最強ライバル、このベルフレイア・アルンストが必ず勝ってみせるんだからっ!!」
「おぉー、がんばれよー」
ふふふふっ、と不敵に笑うその姿はまさに悪役令嬢そのものなのだが、その中身の残念さを知っているシュレインは棒読みで応援をした。少なくともこの婚約者は、人を飽きさせない天才である。1年後、そんな彼女が同じ学園に入ることを彼は楽しみにしていた。
――こうして打倒ヒロインを胸に、彼女の修行はまだまだ続くのであった。