愛の守護、ジュスティビエーヌ
結界が、揺れている……。
そう感じた直後のことだった。
目の前には、巨大な、グレーベージュに薄汚れた、羽毛の塊が、屹立していた。
羽毛には、顔がついていて、固く丈夫そうなくちばしが、かたかたと、不気味に鳴っている。
何より恐ろしかったのは、その目だった。
何の感情も宿さず、冷たい冷気を宿っている、その、目。
それは、襲われた者にとって、確実に、死を表していた。
しかし、そう簡単に死ぬわけにはいかなかった。
……老婆を守らなければ。
サンジュがまず、思ったのは、それだった。
老婆を背負ったまま、右に左に、サンジュは飛ぶ。
ほんのわずかな差で、そこだけ羽毛のない、裸の足が、たった今まで二人がいた場所の土を、深くえぐった。
……だめだ。このままでは、戦えない……。
自分ひとりなら、どうとでもなる。
しかし、もし万が一、老婆の身に、何かあったら……。
サンジュは、大きく横にひと飛びし、目についた大岩の陰に隠れた。
「おばあちゃんは、ここにいてくれ」
「いやだがや」
「え?」
思いがけない展開に、頭が、真っ白になる。
「な、なんで……」
「まだ、名前を言っておらんからに」
「何言ってんだ。危険だよ、俺といたら」
「どんな時でも、二人は一緒。あちきを置いて行ったら、いやずら」
「時間がない。婆、ゴメン」
サンジュは、老婆を振り落そうとした。
「いやだに、いやだに……。こりゃ、年寄りに何をする。暴力だにゃ! DVだにゃ!」
「誤解を招くようなことは、言わないでくれ……」
サンジュは、激しく混乱した。
コングラ師が粗暴だったとしても、少なくとも、理屈は通じた。
この婆には、しかし、道理が通じない。
うわあ、困ったな。
初めて、そう感じた。
「おばあちゃん、頼むから」
「いや」
老婆は、両足の内股で、サンジュの腰の辺りを、ぎゅっとしめつけた。
婆のくせに、すごい力だ。
息が止まりそうになった。
「とにかく、おみゃーさんに、名前を告げないことには。あちきの名前は……」
「わっ、来た!」
二本足で走りつつ、なおかつ、両羽をばたばたやりながら、すごい勢いで、魔物が近づいてきた。
魔物化した、巨大にわとり……。
岩陰から、サンジュは、跳躍した。
もちろん、ばあさんを背負ったまま……。
入れ違いで、魔物の頑丈な足が、岩を打ち砕いた。
青味のかったオレンジ色の巨大な足の、網目模様が、はっきり見えた。
「あちきの名は……」
老婆を背負ったサンジュの背後で、粉々になった岩のかけらが、激しく飛び散る。
一際大きな破片を、サンジュは、危うく避けた。
「……あちきの名は、ジュスティビエーヌ!」
中高く跳ね飛んだサンジュの背中で、ばあさんが、高らかに名乗った。
目の前には、巨大な魔物の、無表情な目……。
急に、サンジュの背中が軽くなった。
……しまった。落したか……。
青くなって振り返ったサンジュは、実に意外な光景を、目の当たりにした。
なんと、あの、歩行もあやしかったばあさんが、腰をぴんと伸ばし、空高く、跳梁しているのだ。
その手には、杖……なんてかわいいものではなく、握りのところがぐっと大きくなった槌が、握られていた。
「こりゃ。お前に名乗って、どうする!」
そして、ばあさんは、振り上げた槌で魔物の首の辺りを、ごおん、と打ち据えた。
黒緑にねばっこい液体が、放射状に吹き出す。
二本足で立っていた魔物は、横ざまに、どう、と倒れた。
優雅ともいえる軽い身のこなしで、ばあさんは、着地した。
「おばあさん……」
「いや、ジュスティビエーヌと呼んで」
「ジュス、ジュステェ…」
「ジュスティビエーヌ。殿方に名を告げることは、あちきにとっては、プロポーズを承諾すること。おみゃーさんこそ、運命のひと……」
「な、なんでそうなるんだよ。ってか、俺、プロポーズなんかしてねーし」
サンジュはあせった。
「あちきの名前を聞いたろ? ふたりはすでに、他人ではない」
「他人ですっ!」
「と・に・か・く~」
サンジュの抗議を軽く無視して、ばあさんは続けた。
「あちきの一族では、そういう決まりになっている」
「そんなローカル・ルール、知らないよ。第一、おばあさんが名乗ったのは、この魔物に対してだろ」
サンジュは、地面に倒れた魔物を指さした。
もとは白だったと思われるグレーベージュの羽毛は、今、己の流す体液によって、気持ちの悪い黒緑色に染まっている。
「ああ、そうだった!」
老婆……ジュスティビエーヌは、がっくりとうなだれた。
「今度こそ、オトコをゲットしたと思ったのに。おのれ、魔物め~」
地団太踏んで、怒っている。
もしかして自分は、とんでもない窮地にいたのではないかと、初めて、サンジュは、ぞっとした。
名乗っただけのことで、結婚? 冗談じゃない。
女はしつこいと、常々、コングラ師は言っていたし。
もし、生涯……それがたとえ、サンジュ自身のではなく、この婆様の生涯であっても……、つきまとわれては、婚期を逃す。
じゃなくて、守護としての役割に、支障を来すところだった。
すると自分は、この魔物に、救われたのか……。
サンジュは、複雑な思いで、死んだ魔物を見つめた。
いつもにも増して、ひどく、哀れな気がした。
「それにしても、あんた、いったい、何者だ……?」
魔物の死骸を、結界の向こうに放り出し、一段落してから、改めて、サンジュは尋ねた。
老人らしからぬ身の軽さ、そして何より、一撃の元で、魔物を仕留めた腕前……。
並みの人間とも思われなかった。
「あんたも、守護か?」
「そうだに。あっちも守護。愛の守護、ジュスティビエーヌ」
「あ、愛の守護……」
「うにゃ。よろしくだにゃ」
この件について、これ以上、コメントはすまいと、サンジュは思った。
「それにしても、じゅすてぃ、び、えーぬさん、強いな。さっき見た魔物の首、千切れそうだったよ」
「さんづけは、いや。ジュスティビエーヌ、と呼んで」
「ジュスティ……」
言いかけて、あきらめた。ちょっと練習してからにしよう。
「武器には、刃はついてないもんね。ん? ……もしや、その槌は……?」
「これか? たった今、妖獣パンミアのところからもらってきたやつだにゃ。ミョルニル。ちょっと重いけど、さすがにエレメント製、威力がある」
「ということは、パンミアの言っていた、力ずくでミョルニルを奪っていったやつって……」
「力ずくとは、心外だにゃ。パンミアが、小難しいことを言うから、めんどうになっただけだにゃ」
「おばあさんも、守護になったばかりなの?」
「だから、ジュスティビエーヌ。いんや、守護になったのは、も少し前だにゃ」
「も少し」とは、きっとすごく前のことなのだな、と、サンジュは思った。
「まあ、いい女を前にすれば、いろいろ知りたくなりのは、世の男の常だろうが、あちきのことは、もういいだがや。おみゃあさんが、新しい守護だにゃ。コングラの弟子の」
「ああ、そうだよ」
「つまり、新しい守護二人のうち、ハンサムでない方じゃの」
新しい守護二人とは、ジークと自分のことだ。
ジークが「ハンサムな方」で、間違いない。
それにしても余計なお世話だと、サンジュは思った。
老婆は、ため息をついた。
「残念。どうせなら、ハンサムな方に会いたかったの」
ばあさんの失望なぞ、サンジュには、関係のないことだったが、あまりにしょげた様子を見ると、つい、余計なことを口にしていた。
「もう一人は、まだ、ルート・ゼロ・ポールにいるよ」
突然、いい考えが浮かんだ。
「そいつ、すんごい、いい男なんだ」
「え?」
「金髪に青い目のイケメン。すらっとしてて、しかも優しい」
「なにっ! そんなにいい男を、パンミアのところに置いてきたのか? あの、色気獣。危険だにゃ。サンジュ、すぐに、ルート・ポール・ゼロへ引き返すにゃ」
ジュスティビエーヌは、ひらりと、サンジュの背中に飛び乗った。
目にもとまらぬ早業だった。
だが、意外なことに、さっきとは比べ物にならないくらい、軽い。
「そこのミョルニルを取ってちょ」
エレメント製のその武器は、ひどく重たかった。
さっきの、あの重さは、これのせいだったのか……。
だが、同じエレメント製でも、サンジュの剣は、軽い。
ジークの言っていたように、エレメントは、用途によって、どのようにも変質できる元素であるらしかった。
いずれにせよ、婆と重い武器を担いでの山越えは、御免こうむりたい気分だった。
「パンミアのことなら、心配いらないよ。ジークには、ユージンという、部下がいるから」
「そのイケメンは、ジークというのだにゃ。覚えておこう。部下のユージンとかいうのも、イケメンか?」
この際だから、ジュスティビエーヌを、完全に、ジークのサイドへ追いやろうと思い、サンジュは答えた。
「うん、ユージンもハンサム。ジークとはまた、違ったタイプの」
「うきーっ! 二人に会える日が、楽しみだにゃあ」
もはや、サンジュのことなど、完全に、眼中にないようだった。
サンジュは、密かに、胸をなでおろした。