空の上から
「気流の乱れに入る。しっかりつかまってて」
竜の頭に座るカイトの声が、首の辺りにしがみついているジークとサンジュのところまで、切れ切れに聞こえた。
ごうごうと耳元でうなる風の音が、つんざくように大きくなった。
耳たぶが、千切れるように冷たい。
「大丈夫か? 僕のマフラーを貸してあげる」
ジークが言い、サンジュの頭に、暖かい布をかけてくれた。
「要らない」
とっさに断ったが、ジークは、手を振って、取り合わなかった。
「だって、君、あんまり薄着だから」
「俺は、お前と、体の鍛え方が違う」
「耳、真っ赤だよ? 僕はいいんだ。帽子に耳当てがついてるから」
たしかに、この布は、暖かかった。
サンジュが着ているような麻布とは違い、ふわふわとした長い毛足をしていた。
それに、なんだかいい匂いがする。
ジークの匂い?
……なんだ、こいつ。男なのに、いい匂いさせやがって。
サンジュは、不快に思った。
不快、とはちょっと違うが、サンジュ自身にもどういう気持ちか、よくわからない。
竜の背が、ぐうんと、揺れた。
「わっ、落ちる」
大きく傾いだジークの体を、サンジュは、ぐいと引き戻した。
「ああ、驚いた。ありがとう」
「マフラーの礼だ」
ぶっきらぼうに、サンジュは答えた。
ときおり、雷鳴がぎらぎらと輝く雲の間を、竜は、ぐんぐんと昇っていく。細かな雨の粒が、しっとりと髪を濡らす。
不意に、雲が途切れ、眩しい太陽が現れた。
雷雲の上に出たのだ。
「やれやれ。巡航空路にはいった」
カイトが叫んでよこした。
ふわふわした白い雲の上を、竜は、長くなって飛んでいく。
「あの上で、飛び跳ねてみたいなあ」
サンジュが言うと、ジークは、呆れた顔をした。
「雲は、水蒸気の塊だ。そんなことしたら、まっさかさまに地上に落ちるぞ」
「そうなのか? まるで真綿のように白くて、柔らかそうだぞ」
「そもそも、こんな高度で、僕らが生きていられるのは、竜の加護だ。竜から離れたら、気圧の関係でぺしゃんこだ」
「うへえ」
太陽の光は暖かく、次第に、サンジュの服は乾いてきた。
「これ、返す」
サンジュは、マフラーを、ジークに押し付けた。
「また、下降するときに必要になる」
涼しい顔で、ジークが答える。
サンジュは、しげしげと、ジークを眺めた。
ジークは、つるつるした素材の服を着ており、どうやらそれは、水を通さなかったらしい。
「世の中には、便利なものがあるのさ」
サンジュの視線を感じて、ジークが言った。
不思議な男だと、サンジュは思った。
便利な機能を持つ物を身に着けているし、竜がいなくても、空を飛ぶ技術もある。
それとも、森にこもっていた自分が、ものを知らないだけだろうか。
サンジュの視線を感じたのか、まっすぐに前を向いたまま、ジークが言った。
「技術や叡智は、都の賢者により、厳格に管理されている。それを使える者は、ごく僅かだ」
「お前は、その一人なのか?」
「そう、とも言える。違う、とも言える」
「わかんないな。お前、守護だろう」
「ああ。セイタカ老師に師事し、守護を許された」
「セイタカの師……」
時折、サンジュの師、コングラを訪ねてきていた、喰えない老人だ。
「そうした技術や叡智は、セイタカの師に習ったのか」
「賢者が管理している、と言ったぞ。セイタカの師は、賢者か?」
「……違うな」
しばらく、言葉が途切れた。
「お前は、人を殺したくて、守護になったのか?」
サンジュの問いかけには答えず、ジークは聞き返した。
「君は、ラウルス皇国のおきてを、知っているか?」
あいまいに、サンジュはうなずいた。
ラウルス皇国の、戒律は、次の五つに集約される。
一、人を殺してはいけない。
一、優しさこそ、至上なり
一、攻められたら、無抵抗を貫け
一、知はこれを、帝が管理する
一、帝を父となし、決して逆らうなかれ
このうえもなく、優しい国、ラウルス皇国。
その国の民は、優しく、思いやりに満ち溢れ、およそ、争うということができない。
当然、過去においては、隣国から、何度も、侵略の憂き目にあってきた。
しかし、いかに凶暴な国であろうとも、無抵抗で武力を持たない国とは、戦にならなかった。
おまけに、野営を営んでいれば、暖かい宿舎として民家を提供してくれ、食糧難に陥れば、食料を差し出してくる。疫病が流行ったときは、自らが感染する危険をも顧みず、医者が、派遣されてきた。
そんなラウルス皇国と戦うことは、この大陸のどこの国にも、できなかった。
そこまでは、サンジュも、コングラから聞いて、知っていた。
サンジュは、ラウルス皇国が、「優しさ」を、何より大切することを、誇りに思っていた。
そして、その国の守護になれたことを、この上もない栄誉だと、思っていた。
思わずサンジュはつぶやいた。
「守護が、人を殺していい、なぞと……」
「許されているんだ、守護には」
「それは、理屈の上だろう? 守護は、民を殺したりしない」
「守護は、許可されているんだ。一般国民は、殺人を禁じられているのに対して」
「だからといって……」
「ゆえに、人を殺したい人間が、守護を志すことはある」
屈折している、と、サンジュは思った。
人を殺してもいい、というのは、どうしようもない場合。
それも、仕方なく。
そう、サンジュは理解していた。
戦闘には、不測の事態がつきものだ。
ただ……。
どうかそのようなことが、自分の身には起こりませんように、と、サンジュは、祈っている。
ジークの話は、サンジュにとって、受け入れがたいものだった。
「……お前、殺したい人間がいるのか?」
きっ、と、ジークはサンジュを見つめた。
「いる、と言ったら?」
「そいつを殺す為に、守護になった、と……?」
「さあな」
ジークは、まっすぐ前を向いたまま、白い顔に、凄味のある笑みを浮かべた。
これ以上、踏み込んではいけない、と、その横顔は、語っていた。