天空の守護、カイト
石ころだらけの急な山道を登り、さらに、切り立った崖を、両手両足を使って登攀するころには、ジークのことも、ヘリと呼ばれた巨大な鉄の乗り物のことも、きれいに、サンジュの頭から消え去っていた。
再び、思い出したのは、氷に覆われたモードカーク山の山頂に立った時のことだった。
燦々と輝く日の光を浴びて、周囲の氷が、きらきらと輝いている。遥か彼方に、サンジュの育った森が、こんもりと、小さくまとまって見えた。
静かだった。
ここでは、生きてあるのは、自分ひとりきりなのではないかと、サンジュは思った。
山の上の、澄みきった空気を胸いっぱい吸い込んだとき……。
例のあの、ぱらぱらという音が、山壁にこだまして聞こえてきた。
同時に、それまで一片の曇りもなかった空が、にわかに、おどろおどろしい灰色に染め上げられていく。
あぜんとして、なすすべもなく立ちつくす間に、足元は、黒みを増した重い雲で敷き詰められ、みるみるうちに、下界の景色が閉ざされていった。
同時に、頭上もまた、鈍い光を放つ雲で、埋め尽くされていく。
太陽が最後の光を弱々しく投げかけ、雲間に消え果た。
生臭いにおいをはらんだ風が、どうとばかりに吹きつける。
頭上の黒い雲が、ごろごろと不穏な音を立て、黄色い光が漏れた。
つるつる滑る氷の上で、身の危険を感じたサンジュは、とっさに、身を低くした。
ばらばらという音が近づいてくる。
山頂の低い峰を超えたのではなかったか……。
不意に、ぴかっと、閃光が走り、ヘリの姿が、ぼうと、浮かび上がった。
浮かび上がったのは、ヘリだけではなかった。
あれは……。
ヘリを追いかけ、ぐんぐんと迫りくるあれは……。
竜!
細かく輝く鱗に覆われた長い体、、大きく裂けた恐ろしい口、妖しい閃光を放つ目……。
短い二本の角の間に……。
稲妻が一瞬瞬いただけの短い間だったが、サンジュの鍛えられた目は、確かに、その恐ろしい姿を捉えた。
竜の角の間には、少年が座っていた。
不敵に笑い、あれを捉えよとばかりに、前方を飛ぶヘリを指さしている。
どーんという、すさまじい音が、大変な振動とともに、辺りの闇を切り裂いた。
氷の上で、サンジュは激しく滑り、大きな岩に叩きつけられた。
気が付くと、四つの目が、サンジュを覗き込んでいた。
一組は、ブルー、もう一組は、黄色みを帯びた緑……。
どちらも、澄んだ輝きを放っている。
「あ、目、開いた」
緑目の方が言った。
「背中が冷たっ」
サンジュは飛び起きた。
厚く張った氷の上に、直に、寝かされていたのだ。
「そんな薄着で、当り前だろう。まるで、ズタ袋を被っただけみたいじゃないか。だいたい、4000メートル級の山を登るのに、軽装すぎる。ザイルも命綱もなしに、しかもたった一人で、よくここまで登ってこれたものだ」
あきれたようにつぶやいたのは、ジークだった。
「ズタ袋はないだろう……」
これでも、コングラ師が夜なべして作ってくれた、一張羅なのである。
ジークは、サンジュの小さな抗議の声を無視した。
「……やっぱり、君は……」
「言うな!」
サンジュは飛び起きた。
「俺は、魔物ではないぞ」
そのサンジュに、なにか大きな恐ろしいものが、ぐうんと、近づいてきた。
光る鱗に覆われた、ごつい顎の、大きな口と、光る牙……。
地上に降りた竜が、口を半開きにしたまま、首を寄せてきたのだ。
「おお、プリンセス・イガミが心配しておられる」
ジークとは違う、子どもの声が叫んだ。
「り、竜!」
叫ぶと、サンジュは、即座に後ろに飛びのいた。
腰をかがめ、臨戦態勢に入る。
とはいえ、武器はない。杖も、森に置いてきてしまった。素手でどこまで戦えるか。
多くの魔物を退治してきたサンジュは、はじめて、不安を感じた。
「それは失礼だよ。せっかく人が……この場合は、竜が、心配してあげているのに」
ジークと一緒に、サンジュを覗き込んでいた少年が、あきれたように、首を横に振った。
いっぱしの口をきくが、まだ、小さい子どもだ。
前髪を切りそろえた、ライトブラウンの短髪、利発そうなグリーンの瞳、そして、やはり、ジークと同じ色の肌をしていた。
「何者っ!」
「自分から名乗るのが礼儀でしょ。でもまあ、許してあげる。君のことは、知ってるから。コングラの弟子、サンジュでしょ? ボクは、カイト。天空の守護、カイト」
「お前も、守護?」
「そう。もう、千年くらい前からのね。君らの大先輩さ。しっかりと敬ってよ」
千年? ほんの7つか8つくらいの子どもにしか見えないのに?
ジークとサンジュは、思わず、顔を見合わせた。
カイトと名乗った少年は、構わず、続ける。
「新しく守護になった二人が、ルート・ゼロ・ポールへ向かうと聞いて、出迎えてやろうと思ったんだ」
カイトは、さも愛しそうに、傍らに控えた竜の頬をなでた。
「さっきも言ったけど、こちらは、プリンセス・イガミ。この上もなく高貴なお方だよ。礼を尽くしてつきあってね」
「プリンセス……メスだったのか」
ぽつんと、ジークがつぶやいた。
がーっ、と、すごい音が響いた。
「うへえ」
大量のしぶきが、上から降ってきた。
竜……プリンセス・イガミが、吠えたのだ。
「女性、と申し上げるように」
頭に浴びたしぶき……竜の唾?……をふき取りながら、カイトが言った。
澄まして続ける。
「プリンセス・イガミと一緒に、朝から、クラーク山脈の上を旋回していたら、とんでもなくどでかいハエが……」
顎で、ヘリを指し示す。
「あんまりうるさいから、追いかけていたら、ここに不時着しちゃった。これ、なに?」
「ヘリコプター。乗り物だ」
「動力は?」
「ガソリン。化石燃料だよ」
「わかった! 塔のクロエの、入れ知恵だね。ジークは、あのお姉ちゃんと、知り合いなの?」
カイトに問い詰められ、ジークは、あいまいにうなずいた。
カイトは、にっこりと笑い、内緒話のように、ひそひそとささやいた。
「クロエって、腐女子だよね」
「そ、そんなこと……。僕は、そんなこと、言っていないから!」
クールなジークが、動揺したような、上ずった声をあげた。
サンジュには、ジークとカイトの会話は、さっぱりわからない。
ただ、こう聞かずには、いられなかった。
「カイト。君は、魔物なのか?」
「そりゃ、失礼ってもんでしょ。ボクは、結界の向こうへなんか、一度たりとも出たことはないよ」
守護たちの守る結界の向こうは、汚れた世界。
一歩たりとも外へ出れば、たとえ聖なるラウルス皇国の国人たりとも、魔物への変身を余儀なくされると言われる。
カイトは、きっぱりと宣言した。
「ボクは、人間だよ」
「だって……千年も生きていたり、第一、普通の子どもが、竜の頭に乗って、空を飛んだりするものか」
「まず第一に、ボクは、子どもではない。小さくてかわいいから、子どものように見えるかもしれないが、全ては、この、プリンセス・イガミのお力なんだ。聖なる竜の霊力をもって、ボクは、年を取ることもなく、永遠に若いままでいられるんだ」
「自分でかわいいとか、ありえないだろ、フツー。それにしても、若すぎないか? もう少し、老けてから、竜と出会えばよかったのに」
また、ぽつんと、ジークがつぶやいた。
「あんまり体が大きいと、プリンセス・イガミのご負担が重くなるでしょ。なにしろ、高貴なお方だからね。ボク以外は、スプーンより重いものは、お持ちになったことがないの」
「……」
不意に、カイトが、にたりと笑った。
「それで、ふたりとも、なんでまた、守護になんか、なったのさ?」
「なんでって……」
サンジュは、目をむいた。
物心ついたときから、守護になるべく、コングラの厳しい修行に耐えてきた。
守護になる以外、サンジュには、道はなかった。
「いい、いい。わかってるさ」
訳知り顔に、カイトが、うなずいた。
「ふたりとも、ボクと同じなんだよね? 血を見るのが、大好きなんだ。それも、真っ赤な血が、勢いよくしぶくのを、見るのが好きなんだよね。わかるよ、その気持ち」
「違う!」
サンジュは叫んだ。
赤い血。
それは、聖なる血だ、
この、アンタクティカ大陸に暮らす者にしか、流れてない。
結界の外から来る魔物たちは、みな、汚い緑や、どす黒い紫色をしたゲル状の体液を有していた。
赤い、さらさらとした血。
それは、汚れのない民としての、証なのだ。
赤い血がしぶくのを見るのが好きだと? カイトは、人を殺すのが好きだと、言っているようなものだ。
「俺は、たとえ魔物といえども、殺すを潔しとしない。赤い血を持つものなら、なおさらだ」
「おやまあ」
意外そうに、カイトは言った。
「この国で、人を殺してもいいのは、守護だけなのに。その特権を楽しまないとは。サンジュ、君は、馬鹿?」
馬鹿と言われて、サンジュは、かっとした。
「守護を、おとしめるようなことを言うな。俺は、その、赤い血をもつ人々を守る為に、守護になったのだ」
当然、お前もそうだろう、という気持ちをこめて、サンジュは、ジークを振り返った。
驚いたことに、ジークは、じっと下をむいていた。
まるで、地面に何か、とても興味のあるものが落ちているとでもいうように、つま先で、氷を掻いている。
「まあいいよ」
けたけたと、カイトは笑った。
「ふたりとも、ルート・ゼロ・ポールへ行くんだろ? へりこぷたも、壊れてしまったようだし、ここは、仲間になった、よしみで、プリンセス・イガミに乗せて行ってあげる」
竜が低く頭を下げ、カイトは、ひょいと乗った。
手を差し出し、ジークを引き上げる。
「さあ、君も……」
声をかけられ、サンジュは、迷った。
この二人は、人を殺すことを楽しむ為に、守護になったのか?
竜に乗っても、ジークは、うつむいたままだ。まともに、サンジュの顔を見ようともしない。
少なくとも、こいつは、殺人が趣味ではないな、と、サンジュは思った。
しかし、幼い顔と体をして、竜の角の間に座ったカイトの方は、殺人鬼そのものだ。
「早く。あまり遅くなると、パンミアの怒りを買うよ。エレメノンの剣を、渡してもらえなくなる」
「パンミア……?」
「エレメノンの守り番。えらく気が短い」
選択の余地は、なかった。
差し出された手を無視して、サンジュは、竜に飛び乗った。