毒を吐く魔物
それが、なんであるにしろ、今まで、サンジュが出会ったことのない魔物だった。
黄色っぽい臭気が部屋に吹き込んできた。
まず、入り口付近のご婦人がやられた。
声も上げずに、いきなり、ばたりと倒れた。
駆け寄ろうとした侍女が、前のめりに倒れる。
続いて、諸侯たちも倒れて行った。
苦しそうに喉を掻きむしるもの、目をひんむいて口から涎を垂らす者、きりきりまいの果てに倒れ込む者……。
なすすべもなかった。
「サンジュさん、これを」
声をかけられ振り返ると、マリアンヌが、透明なカップが連なったようなものを、差し出している。
「謁見室常備の防毒マスクです。鼻と目に……。毒は、そこから入り込むようです」
「俺は大丈夫。君がつけろ」
「いえ、わたくしは大丈夫。それに、いくら山猿といえど……あら、これ、わたくしの言葉ではございませんことよ。クロエさまの音言葉です……肺のつくりは常人と同じ筈」
「俺は大丈夫。君が、マスクをつけるんだ」
きつく言って、マリアンヌにマスクをつけさせた。
はっとした。
大事な、ひと……。
デジレは、ぐったりと床に倒れ伏していた。
さきほどジークを認めた時に、エネルギーを使い果たしてしまったのだろう。
そのそばに、ジークが立っていた。
他に、帝やユージンの姿も見える。
ジークが、閉じた両手を前に突き出した。
低い声で呪文を唱えながら、ゆっくりと手のひらを開いていく。
目に見えない、何かの「気配」が、立ち昇り始めた。
「エレメノンです。ジーク様は、エレメノンによるバリアを張っておられます」
ユージンが叫んでよこした。
「こっちは大丈夫」
「サンジュ、気をつけろ!」
呪文を途切らせて、ジークが叫んだ。
一瞬早く、サンジュは、マリアンヌをしっかり抱いて、宙を飛んだ。
中空から、大鎌が降ってきた。
振り下ろされた凶器が、今まで二人が立っていた床に振り下ろされる。
入り口付近の重臣たちはことごとく倒れ、もはや立っている者はいなかった。
ジークの繰り出すエレメノンのバリアが、徐々に、残された人々の上を覆っていく。
サンジュたちを逃した大鎌が、八つ当たりのように、バリアに叩きつけられた。
激しい金属製の音がして、火花が散った。
エレメノンのバリアは無事だった。
傷一つない。
甲高い叫びが聞こえた。
魔物は、エレメノンの加護を外れたサンジュとマリアンヌに、照準を変えたようだ。
二人をめがけ、次々と大鎌が振り下ろされてくる。
マリアンヌを抱えたまま、サンジュは飛翔し続けた。
「このままでは、きりがない」
「わたくしをかばっていらっしゃるのなら、無用でございます」
サンジュの腕の中で、きっとして、マリアンヌが言った。
「侍女風情の命……。主上と皇女の為なら、喜んで犠牲にする覚悟はできております」
「ばかだな。命に、重い軽いなんて、あるもんか」
しかし、このままでは、戦えない。
大鎌が振り下ろされ、天井近くまで跳躍したサンジュの体が、くるりと半回転した。
天井に描かれたフレスコ画を蹴って、飛び降りようとした。
「あれ……?」
天井が、ない?
「うわあ!」
ぱらぱらと崩れ落ちる漆喰を食らう。
中でも大きな破片の一つを蹴り、床に向けて、方向転換した。
「サァアン、ジューーーーー」
どおん、と、何かが着地した。
「この、魔物がぁー」
デリカシーのかけらもない声。
ジュスティビエーヌだ。
どすーん、どすーんと、大理石の床を砕く、ミョルニルの音。
つまり、何度も、外しているらしい。
「毒だったら、負けないよーっ」
喜びに満ちた声が、上から降ってきた。
そして、すっかりなじみの、生温かい、竜の息が……。
「カイト。おみゃーは、馬鹿か。プリイガの息を吹きつけられたら、ここにいるみんなが、死んじまうだがや」
「ああ、そうだった」
カイトを乗せた竜が、大きく空を、旋回する。
この騒ぎのおかげで、サンジュは、マリアンヌを、無事、ジークに託すことができた。
「エレメノンのバリアか? 船に装着する前のお試しだにゃ」
魔毒の中にあっても、ジュスティビエーヌには、苦しそうな様子もない。
「丈夫な婆様だと思っていたが、そもそも肺臓の仕様が常人とは違うのだな」
ジークがつぶやくのが聞こえた。
めりめり、という音をたて、空気が揺らいだ。
結界の裂け目が広がり、そこに現れたのは……。
どぎつい蛍光緑の、大鎌を振り上げた……。
黄色い複眼をもつ、そいつは……。
「かまきりだにゃ」
落ち着きはらってジュスティビエーヌがつぶやいた。
ミョルニルを振り上げて、その足に振り下ろした。
一瞬の差で、魔物は、さっと飛び退った。
勢い余って、ミョルニルは床に食い込み、持ちあがらない。
「くそぉ」
魔物が、にたりとわらったようだった。
「魔物は、一人食べればお腹がいっぱいになって、撤退するわよ」
クロエだった。
こちらは、ちゃんと入り口から入ってきたものらしい。やはりマスクはしていなかった。
プリンセス・イガミが天井に穴を開けてくれたせいで、空気はだいぶ、浄化されたらしい。
ミョルニルを引き抜こうと、必死でふんばりながら、ジュスティビエーヌが叫んだ。
「その一人が、あちきである必要は、なーい! ミョルニルは抜けないし、こら、クロエ、ぼっ立ってないで、助けるにゃ」
「あたしは、知の守護。肉弾戦は、どうもねえ」
「くそ、抜けない! だから、贅沢な床は、嫌いにゃー!」
ジュスティビエーヌが叫んだのと、サンジュが跳ねたのが、ほぼ同時だった。
空中で剣を抜き、魔物に飛びかかりざま、さっと横に払う。
地上でジュスティビエーヌがあがいている以上、空中でかたをつけるしかなかった。
苦しそうな雄叫びが、部屋を揺るがした。
羽に、深い切込みが入っていた。
剣を払った勢いを利用して落下し、床に一瞬だけ、つま先を着いた。
すぐに、空中に舞い上がる。
サンジュは、魔物の前を、真一文字に横切る。
網目模様の入った複眼が、不気味に、サンジュの軌跡を追ってきた。
大鎌が一閃した。
しかし、あまりに近接しすぎていた。
そして、鎌が、大きすぎた。
このままでは、魔物自らの喉を切り裂いてしまう。
「馬鹿」
サンジュは、とっさに、魔物の鎌の上に、ひらりと飛び乗った。
喉に突き刺さろうとしていた鎌が、サンジュの重みで下に傾いた。
空振りした鎌は、胸の羽毛を飛び散らせただけだった。
「もう、この国の人に手出しをするな。結界の向こうへ帰るがいい」
何が起きたか理解できないのか、きょとんとしている魔物の尻を、サンジュは思い切り蹴上げた。
薄緑色の塊が、空高く、飛ばされていく。
見る間に、雲一つなかった空が、掻き曇っていった。
ごろごろと雷が不穏に轟き、魔物の姿は、鈍色の雲の合間に見えなくなった。
「いただきー!」
甲高い子どもの声が、不気味に響き渡った。
「しまった。空にはカイトが……」
思わずサンジュは、空を仰いだ。
次の瞬間、薄茶色のねばねばした汁が、大量に降り注いできた。
「血だ、血だ、血だー!」
歓喜の雄叫びが響き渡る。
ぼたんと、重い音を立てて、逆三角形の頭が、空から落ちてきた。
視力を失った複眼が、濁っている。
けたけたという激しい笑い声。
稲妻が大きく空を鉤裂き、それを合図に、雲は次第に晴れ渡っていった。
地上を覆っていた黄色い霧が、みるみる晴れ渡っていく。




