廃太子の帰還
逃げるのは、簡単だった。
しかし、サンジュは、どうしても、帝に提言したかった。
ペネロペを、魔毒に苦しむ人々を、救ってほしい。
そして、結界が弱まっていることの対策を。
この騒ぎの間中、帝は、蠟で作った人形のように、一切、表情を変えなかった。顔の筋肉が固定されてしまっているかのように見える。
その少し後ろに控えた、デジレ姫の表情もまた、変わらない。
相変わらず、魂の抜けたような微笑を湛えいてる。
強烈な違和感を、サンジュは感じた。
「帝。お聞きください。やさしさの国、ラウルス皇国の盤石の為に……」
帝は、すっと立ち上がった。
一切の感情を排したように、デジレ姫も、立ち上がった。
父帝について、退出しようとする。
サンジュのことなど、一顧だにしなかった。
サンジュは、絶望的な気持ちで、その白い顔を見上げた。
衛兵たちが、サンジュに手をかけた。
入り口のドアが、ばん、と開いた。
「待て!」
美しく澄んだ声が、響き渡った。
光を背負って立っていたのは、
「ジーク!」
思わずサンジュが叫ぶと、仮面のような表情が崩れ、帝の顔が歪んだ。
人々がざわめく。
「ジークフリードさまだ。王子様だ」
「王子が、お帰りになった」
「よかった。これで、このラウルス皇国も安泰だ」
サンジュだけが、衛兵に腕を取られたまま、あっけにとられて、立ち尽くしていた。
ジークは、つかつかとサンジュに歩み寄ってきた。
後ろには、あいかわらず、影のように、ユージンがつき従っている。
「サンジュ。廷臣たちの無礼は許してやってくれたまえ。無知と無教養のなせる業だ。代わりに、僕が謝る。この通りだ」
デュークは、深々と頭を下げた。
廷臣たちの間に、狼狽が走った。
金色に輝く美しい髪の間に、かわいらしいつむじがあることに、サンジュは気がついた。
いや、そんなことはどうでもいい。
「君、王子だったの?」
我ながら、間の抜けた質問だと思った。
ジークは、にっこりほほ笑んだ。
「王子かと聞かれたら、廃太子だと答えるしかないな。本当は、ここへは、二度と戻るつもりはなかった。だが、塔の連中から、君が城に召喚されたと聞いて、海辺の組み立て所から、すっ飛んできた」
「君が、デジレ……姫の、お兄さんだったの?」
「黙っていて、すまなかった。デジレが皇女だとわかってしまうのは、時間の問題だった。そしたら、僕の身分もすぐに知れてしまう。僕は、君に見下げられたくなかったんだ。君にふさわしい、仲間でいたかった」
「……」
ジークの真摯さは、痛いほど伝わってきた。
ジークが皇太子であり、今は、廃嫡された廃太子であるということ……。
それよりも大きなショックに、サンジュはうちのめされていた。
ジークとデジレた兄妹であり、ということは、ジークこそがデジレの想い人であり……という事実を、サンジュは、心の深い所でしっかりと受け止めるしかなかった。
薄い灰色の瞳に苦悩の色を湛え、ユージンが進み出た。
「サンジュさん。デジレ姫を王城にお返し申し上げる為とはいえ、その節は、乱暴なことをして、本当に申し訳ございませんでした」
ああ、あの、ばちばちとした何かを押し当てて、気絶させたことだな、と、サンジュは思った。
ますますすまなそうに、ユージンは続けた。
「スタンガンでございます。クロエさまは、覚えちゃいないとおっしゃっておられましたが、一度お詫びを申し上げないことには、わたくし……」
「サンジュ、ユージンを、責めないでやってくれ。……忘れたなんて、嘘だろ?」
「もちろん、覚えている」
「デジレのことも?」
「何ひとつ、忘れてやしないさ」
「そうだ、そうでなければ、君じゃない。……そういうことですよ、ヴォルフガング・アマデウス帝。彼は、デジレのことを、忘れはしない」
急に話を振られ、帝は、芯から不快そうな顔になった。
ジークは、じっとデジレを見つめた。
「かわいそうに。薬を大量に投与されたのだな。いくら、じゃじゃ馬だからって……」
帝の御前、ということは、すっかり頭から抜け落ちていた。
サンジュは、聞かずにはいられなかった。
「ちょっと待ってくれ。そもそもなんで、あんなやり方で、城へ連れ帰らなくてはいけなかったんだ? ここは、デジレ……姫の、父王の城ではないのか?」
「そうだ。そして、アンタクティカ中で、一番安全な場所だ。なにしろ、結界の中核だからな。だから、僕は、デジレを城へ戻したんだ。今はまだ、僕には、妹を守りきれない。確かに、君にも妹にも、手荒な真似をしたよ。しかし、そうでもしなければ、この娘は、ここへ帰ろうとしなかっただろう」
ジークは、淡々と答えた。
「妹は、自由でいたかった。だから、サンジュ、君のそばにいたんだ」
「俺が、彼女を、……自由に?」
「ああ。デジレは、君ならできると思ったんだ。君は、まっすぐだから。あの娘(こ)は、弱い。だから、何を……誰を信じるべきか、すぐにわかった」
虚ろだったデジレの瞳が、徐々に焦点が合ってきたことに、サンジュは気がついた。
サンジュは、じっと、姫を見つめ返した。
「お兄様! お兄様!」
だが、デジレの目は、まるで透明であるかのようにサンジュを通り越し、脇へそれた。
細い喉から、悲鳴のようにほとばしり出たのは、兄を呼ぶ声だった。
「何をしている! 姫を、早く!」
帝が、激しく叱咤した。
ずっとデジレに就き従っていた侍女が走り寄り、ほっそりした体を、ぎゅっと抱きしめた。
すがるようなまなざしで、サンジュをじっと見つめてくる。
マリアンヌだった。
いつもデジレを気づかい、デジレもまた、友のような存在と言っていた。いなくなったデジレを探して、クロエの塔にまで来た、あの、メイド……。
その時、ぐらりと王城が揺れた。
「まずい。結界が……」
誰が叫んだのか。




