優しさなんか、気味が悪い
グスタフの家は、湖の反対側にあった。
木切れを寄せ合わせたような粗末な造りで、働かないから貧しいと言われていたフョードルの家より、一層、みすぼらしかった。
城壁の内側のフョードルの家は、隙間風がこんなに冷たくはなかったし、天井には灯が取り付けられていて、もう少し、明るかった。
集合住宅の一室だったフョードルの家と違って、グスタフの家は、平屋だった。
「あれで、手を洗って」
グスタフは、強い匂いのする液剤を、サンジュに示した。
抵抗はあったが、人の命に係わることだと言われている。
サンジュは言われた通りに手を洗った。
「こっちだ」
みすぼらしく寒い家であったにもかかわらず、その部屋だけは、むっとするほど暖められていた。
しゅーしゅーと静かな音を立てて、ストーブの上の薬缶が湯気を立てている。
窓に寄せてベッドが置いてあり、そこに、女の子が眠っていた。
痩せて、血色の悪い子だった。
フリルのついた、かわいらしい寝巻着が、いたましい。
「妹の、ペネロペだ」
グスタフは言った。
「ペネロペ。お客さんだよ」
このうえもなく優しい声でそういうと、グスタフは、ぱさついて見える少女の髪を撫でた。
少女は目を覚まさない。
苦しそうに眉を寄せた顔で、眠り続けている。
「いい子だ」
太い指で、グスタフは、顰められた眉をそっとなぞった。
心なしか、顔つきが穏やかになったように感じられた。
サンジュは、どうしていいかわからず、立ち尽くしていた。
「その子は……病気か?」
「しっ。眠っていても、耳は聞こえてる。きっと聞こえていると、俺は、信じている。だから、お願いだから、ペネロペがここにいないかのように話すのはよしてくれ」
強い口調で、グスタフが言った。
「……すまない」
「ペネロペ。兄さん、ちょっと、お客さんと話してくるから。大丈夫、すぐ戻る」
ほぼ独り言のようにそう話しかけると、サンジュに向けて顎をしゃくった。
部屋の外に出ると、あまりの気温差に、サンジュは思わず身震いした。
グスタフは、たった一つの椅子……座面は破れて、詰め物が飛び出してた……をサンジュに勧め、自分は、窓枠に腰を下ろした。
「生まれた時から、ペネロペは、体が弱かった。俺の見立てでは、恐らく、腎臓が悪いのだと思う」
「腎臓?」
人間の体に関する知識は、サンジュにはない。
「そんな驚いた顔をするな。俺は、これでも医者だ。サンジュ。この頃、城壁の外では、魔毒にやられる者が、増えている。はっきりとはわからないが、妹もそうだと思う。これは、魔毒のせいだ」
「魔毒?」
「城壁の内側は、そんなことはないと聞く。けれども、奇妙な病気が、ここ、城壁の外では流行っている」
「伝染病か?」
「違う。人から人へとうつる病気ではない。内臓がやられるのだ。貧血を起こしたり、体の内側に瘤ができたり、死体を解剖すると……」
「解剖? そんなことをしていいのか?」
医術を初め、人体のしくみを知ることは、帝の許可を得た人たちのみの特権だったはずだ。
なぜなら、プレ・ワールドの知識が必要だから。
「サンジュ。なぜ、俺たちが城壁の外側に住んでると思う?」
グスタフは、ふっと笑った。
「お前はいいな。悪い考えを刷り込まれていない。ものごとを、まっすぐに見つめることができる」
「俺は、森の奥で、コングラ師に育てられたんだ」
随分不便な暮らしだったけど、と、サンジュは心の中で付け加えた。
でも、それを少しも恨んでいない自分に気がついて、意外に思った。
グスタフは頷いた。
「知ってる。守護サンジュ。黄色い肌の守り人。城壁の内側の人間からは石を投げられ、人殺しの罪まで被せられた」
「その罪は、晴れたはずだ」
「だが、人々の違和感は失せてはいない。違和感……恐怖心といってもいいだろう。黄色い肌のお前は、ラウルスの民に受け入れられてはいない」
サンジュは息を呑んだ。
「なぜ?」
「それは、ラウルスの民が、蒙を啓かないからだ。新しい知識を受け容れることを、いやがるからだよ」
「それら知識は、王家のものではないのか? 王家が管理し、適正に配分することが、国民の幸せになるのでは?」
現に、城壁の内側では、人々は、働かなくても、衣食住が保証されている。
古いアパートに、錠剤の食事。
最低限の、衣食住だが。
サンジュは頭を振って言った。
「知識や技術が、プレ・ワールドを滅ぼしたと、俺は、聞いた」
グスタフは、ふっと笑った。
「知識の独占に、何の意味がある? 国民の幸せ? 自分の頭も使わず、唯々諾々と、言われたままに生きていることが、幸せだと思うのか?」
サンジュには、答えられなかった。
グスタフは、遠い目をした。
「我らは、独力で、そうした知識の獲得に力を尽くしてきた。……馬鹿げたことだよ。すでに確立された知識・技術があるというのに、その継承発展が許されず、一から発明し、開発を繰り返すというのは。だが、何もしないよりはましだ」
「だが、それは、王家への反逆になるのでは?」
思わずサンジュは疑問を口にした。
プレ・ワールドの知恵。
それは、塔での受信のみが許可される。
それなのに自分たちで造りだしてしまってよいものか。
グスタフは、ゆっくり頷いた。
「だから、俺たちは、ここにいる。ここ……城壁の外に」
冷たい隙間風が入る室内を、サンジュは見渡した。
ろくな照明設備もなく、椅子以外の家具らしい家具もなく、がらんとしている。
サンジュの目線を追って部屋を見回したグスタフが、ふっと笑った。
「もちろん、ここには、城壁の内側のような扶助はない。寒さに凍え、飢饉が来れば飢えるだけだ。だが、栄養剤を飲まされて生きているより、よっぽど、充実している」
「俺は……俺には、わからない」
正直にサンジュは言った。
「ラウルス皇国の人は、優しいと聞いた。俺は、優しい人々を、守りたいと思った。あんたは……城壁の外の人は、優しいのか?」
「優しくなんかないね」
きっぱりとグスタフは言い切った。
「俺らは、優しくなんかない。優しさなんか、気味が悪い」




