海洋の守護、ジーク
木々の梢を渡って森を抜け、東へ走り、サンジュは、クラーク山脈のふもとへついた。
この山脈を超えれば、目指すルート・ゼロ・ポールは、すぐそこだ。
クラーク山脈には、修行でよく籠った、なじみの山々がある。山越えをするとしたら、ふつうは、こちらのルートを、選ぶであろう。
だが、サンジュは、それでは物足りないと思った。
あえて、サンジュは、クラーク山脈の最高峰、モードカーク山山頂を踏破するルートを選んだ。
モードカーク山は、海抜4500メートルを超え、温暖なアンタクティカ大陸にありながら、山頂に常に根雪を頂く高山である。
決して、半端な思いでは、超えることはできない。
だが、ふもとに立つサンジュの、黒い目はきらきらと輝き、きゅっと上がった口の端には、微笑が浮かんでいる。
山登りが、楽しくて仕方がない、というふうに。
サンジュがまさに、最初の一歩を踏み出そうとしたその時……。
空から、ばらばらという爆音が聞こえた。
音はだんだんと近づき、青く光る空に、その姿を現した。
くるくる回る羽を、後方に取り付けたそれは、あいかわらずの爆音を轟かせながら、サンジュの後方に、舞い降りてきた。
トンボを巨大化させたような形をしている。
サンジュは、あきれて、それを眺めた。
生まれた時からずっと森や山にこもり、偏屈老人のコングラのみを相手に生きてきたサンジュにとって、このような大きな音を出す、鉄の塊とおぼしきものを見たのは、初めてのことであった。
こんなに大きな音を出すものにも、初めて出会った。
驚いたことに、滑らかだった巨大トンボの横腹が開き、中から、人が出てきた。
……人、だとサンジュは思った。
少なくとも、魔物ではない。
その人物は、頭に帽子を被り、耳の周りに、ふかふかした茶色い毛を生やしていた。目は異様に大きく、陽の光を反射して、きらきら輝いている。
「やあ」
そいつは口を開いた。
トンボの羽が、止まった。
驚くほどの静寂が、戻った。そいつは、帽子を取り……すると、耳の周りの毛も取れた……、目を外した。きらきら光る平たい目の下には、普通の人間の目がついていたので、サンジュは、ほっとした。
「僕は、ジーク。守護ジークだ」
「おれは……」
相手が名乗ったのだから、自分も名乗るが当然の礼儀だと思い、サンジュは、慌てて口を開いた。
「サンジュだろ。守護コングラの弟子」
「俺も、守護を許された」
「その肌の色……君は、東洋人か」
サンジュの言うことなど、ろくに聞かず、ジークは、目を丸くした。
サンジュも、しげしげと、この見慣れない人物を眺めた。
青い目、金色の髪、よく通った鼻筋。年のころは、サンジュより、ひとつかふたつ、上だろうか。薄い唇が、酷薄そうに見せているが、全体的に、いかにも血筋が良さそうな印象を与える。
なぜだろう。
サンジュは考えた。
そして、彼の肌の色が、とても白く、寒さで、頬が、きれいなピンク色に上気しているのに気がついた。
「いにしえの始めから、このアンタクティカ大陸に、東洋人は、上陸を許されなかったはず……そうか」
青く澄んだ瞳で、ジークは、じっとサンジュを見つめた。
「君は、結界の向こうから、来たのだね」
「俺は、魔物ではないぞ」
むっとして、サンジュは応えた。
アンタクティカ大陸は、結界によって、清浄を保たれている。
結界の向こうは、恐ろしく、汚れた世界が広がっている。
そこに住む者は、魔物と決まっていた。
魔物は、隙あらば、結界のこちら側に、移り住もうとしている。
それほどまでに、結界の向こうは、汚れているのだ。
魔物でさえ、息苦しくなるほど。
森の結界を守る為、サンジュは、どれだけの魔物と戦ってきたことか。
魔物は、どれも、病的なほど、醜かった。
魔物と間違えるなんて。あんな、醜悪な、人間に害をなすものと。
失礼なことを言うやつだと、サンジュは、小さく腹を立てた。
「気にするな。一定の処置を施せば、魔はなくなり、人の役に立つ場合もあると聞く。現に、守護には、そうした還聖魔族もいると聞く」
「俺は、魔物などではない」
ちょっと見栄えのいい男だと思ったことが、余計、サンジュの心を苛つかせた。
なぜかはわからない。
老師と二人で暮らしてきた今まで、こんな不安定な気持ちになったことはなかった。
自分の気持ちをもてあまし、サンジュは、ジークにくるりと背を向け、さっさと山道を歩き出した。
「あ、待て。ルート・ゼロ・ポールに行くんだろ? 僕も行くんだ。このヘリに、乗せてってあげる」
……誰が。お前になんか。
サンジュは思ったが、口には出さなかった。
口げんかなぞ、あまりに子どもっぽいと思ったからだ。
「待てよ。待てったら」
ジークはしつこかったが、サンジュは、無視した。
自分のことを悪く言うやつに、つきあう必要は、ない。
魔物なぞと。
しばらく、飛ぶように、山道を歩いた。
ジークの声は、すぐに聞こえなくなった。
間もなく、ぱらぱらという音が小さく聞こえ、鉄の乗り物が、峰にそって戻っていくのが見えた。
標高の高いモードカーク山を避け、なだらかな山頂を超えていくのだろう。
ふん。軟弱者。
サンジュは、ちょっと、勝った気がした。
何に勝ったのかは、不明だったけれども。
……それにしても、あいつ、守護だと名乗ったな。ルート・ゼロ・ポールに行くとも言っていた。あいつも、エレメノンの剣を……?
だが、エレメノンの剣を、ジークに渡すわけにはいかない。
剣の入手は、師から与えられた使命だったからだ。