祝宴
ジーヴスが、白いワイシャツの袖をめくりあげ、大きなバケツを運んでくる。
足には黒いゴムの長靴、手にも、ゴム手袋をはめている。
額の髪の乱れは、前より一層、激しくなっていた。
重そうに両手でバケツを下げつつ、階段を上りきる。
回廊をぐるりと回って、食堂を見下ろせる吹き抜けの上までやってきた。
バケツを足元に下ろし、そっと下を見下ろす。
すぐに顔を引っ込めた。
なにやらひどく禍々しいものをみてしまったようだ。
その顔色は優れない。
両手を合わせて、ゴム手袋をしっかり肌に密着させると、やにわに、バケツの中に両手を突っ込んだ。
なにやら赤黒い物体を掴みだすと……どろりと、赤い筋がバケツに落ちた……やにわにそれを、回廊の手すりから下へ投げ落とした。
下の食堂から雄叫びが聞こえた。
また、一掴み。
「卑怯だぞ、ジュスティビエーヌ! それ、ボクのだ」
「あっちのを取ろうなんざ、百年早ぇーわっ!」
カイトとジュスティビエーヌの雄叫びが重なる。
「次、早く、次!」
ジーヴスは、再びバケツの中に手を突っ込み、次の塊を取り出すと、えいやっとばかりに、下に投げ落とす。
獣の声としか思えない喜びの声がたちのぼってきた。
ジーヴスは、次々と、バケツの中身を掴みだし、下に放り投げていく。
クロエが通りかかった。
「メインディッシュは、お肉にしたのね。何のお肉かしら」
「鹿肉のジビエでございます」
残り少なくなったバケツを、手すり越しに逆さに傾けて中身を空けていたジーヴスは、一瞬、油断した。
さっと下から黒い影が舞い上がり、一瞬にして、バケツをかすめ取っていった。
「ああ……これで、5つめだ……」
絶望的な声が、ジーヴスの口から滑り出た。
「食欲が旺盛なんですね……」
クロエの陰から、優しい声がした。
「これは……デジレさま」
「こんにちは、ジーヴスさん」
デジレは、サンジュの無実が証明された祝いの食事会に招待されてきたのだった。
「今、ジュスティビエーヌさまとカイトさまに、食前の軽いオードブルをさしあげているところです」
「どちらかというと、メインディッシュに見えるが……」
クロエが口を出す。
「日に日にエスカレートしてまいりまして、ついにこのような仕儀に……」
ジーヴスは目を伏せた。
前髪がまた一房、ぱらりと落ちる。
「クロエさまとデジレさまの分は、もちろん、きちんと調理致してございます。ソースは、腕によりをかけ、三日三晩、煮込みました」
「サンジュさんは?」
「食堂の隅にいらっしゃいます。野生の生肉は、火を通さないといけないとおっしゃって、七輪を……あっ、手すりから身を乗り出してはいけません!」
手すりから下を覗きかけたデジレを、ジーヴスが慌てて引き戻した。
しゃっ!
何か黒い物が一閃した。
誰のものとも分からぬ不気味な叫び声が、吹き抜けを揺るがせる。
「お・か・わ・りーーーっ!」
「とっ、とにかく、下へ。喫茶室に、火を起こしてございます」
そう言い残すと、空のバケツを下げ、ジーヴスは、あたふたと、その場を走り去って行った。
「クロエさま……」
ゆっくり歩き出したクロエの後ろ姿に、デジレが語りかける。
「あの……会ってはいけないでしょうか。あのひとに……」
「帝の許しは得られましたか?」
「いいえ。でも……」
「なら、いけませんよ。私にそこまでの権限はありません」
「今日のお食事会には……」
「もちろん、招待していません。あなたがいらっしゃることも、お伝えしていません」
「……」
がっくりと、デジレはうな垂れた。
クロエは、そんなデジレをちらと見やった。
「お薬は飲まれましたか?」
「いえ……」
「ピルケースは、持っていらっしゃいましたね?」
「あ、はい」
「大切な薬です。忘れてはいけませんよ」
そう言うと、クロエは、ゆっくりと階段を下りていく。
デジレが小走りに後を追った。
食堂の前を通りかかると、中から、ジュスティビエーヌとカイトが出てきた。
ジュスティビエーヌは満足そうに突き出た腹を撫でている。
対するカイトは、不満げだった。
「ひもじい」
カイトは叫んだ。
「みんな、ジュスティビエーヌにとられたからねっ!」
「みんなとられたとは、人聞きが悪いにゃ。少しは恵んでやっただに」
「スジのとこばかりじゃないか! ボクが食べたいのは、固いスジじゃない。柔らかいお肉だよっ!」
「ざぁーんねんでしたーっ。全部あっちがいただきーっ」
「きぃーーーーっ! ジーヴスはどこ? おかわりは、まだ?」
カイトの金切り声にも全く動じず、クロエが答える。
「きっと、野生の鹿を解体してるのよ。もしかしたら、狩りに出かけたのかもしれない」
「ええーっ!」
「カイト、それに、ジュスティビエーヌも。ちょっと話があるの。喫茶室にいらっしゃい」
「えー、いやだよ。もっと肉を食べるの」
「あちきは、満腹だがや」
「カイト、お菓子があるわよ。ケーキやおまんじゅう……口直しに、ジュスティビエーヌもどう?」
「行く!」
「行くにゃ」
「ジュスティビエーヌは、満腹じゃないの? 来なくていいよ。お菓子は全部ボクが頂くよ」
「お菓子は、別腹にゃ」
「ジュスティビエーヌは、腹がいくつあるんだよっ!」
「いいえ、ジュスティビエーヌにも来てほしいの。心配しなくても大丈夫よ、カイト。お菓子は充分あるから」
「デジレも来るの?」
カイトがちらっと、デジレを見る。
「わたくし、あの、ちょっと、サンジュさんのところへ……」
「ああ。サンジュなら、隅で肉を焼いてるにゃ」
「一人焼肉?」
と、眉を上げ、クロエが尋ねる。
「そ。あいつ、この頃、暗いにゃ」
「そうなんだよね。ゲオルグが罪を犯したのは自分のせいだ、なんて、思いつめてさ」
がやがやと、三人は、喫茶室へ入っていた。
一人残されたデジレは、足音を潜ませ、そっと、食堂に踏み入る。
部屋の隅で、火を起こした七輪に覆いかぶさるように、サンジュが肉を焼いていた。
肉の焼ける匂い……ではなく、焦げ臭いにおいが、充満していた。
部屋中に煙がたちこめている。
「サンジュさん。まあ、大変」
「デジレさん……。あっ!」
すっかり炭化してしまった肉に、やっとサンジュは気がついた。
「ご、ごめん。煙が……それに、凄い匂いだ」
あわてて近くの窓を開ける。
ついで、高く跳梁し、明り取りの小窓まで、食堂中の全ての窓を開け放った。
たん、と、デジレのそばに着地する。
「あ……。寒いですね」
急に吹き込んできた外気に、デジレの頬は、赤く上気していた。
「すみません。俺……」
「外に出ません?」
微笑んで、デジレは言った。
「寒いけど、歩いていると、わりと気持ちいいんですよ」




