コングラとセイタカ
サンジュは、梢を渡っていくルートを選んだ。
ただまっすぐに伸びる、下枝もないセコイアの大樹に、少年は、するするとのぼっていった。
その両手両足には、まるで吸盤がついているようだ。
梢に茂る葉に、小柄な体が隠れてしまう前に、ちょっとだけ、下を見下ろした。
コングラは、杖を握る右手を上にあげた。
口は、への字に結んだままである。
だが、まなざしは、深い慈愛に満ちていた。
サンジュはうなずき、あっという間に、姿を消した。
てっぺんの枝が、大きく揺れた。
小鳥たちが、けたたましく鳴いて飛び立つ。
森に再び静寂が戻った時、サンジュの気配は消えていた。
「まったく、猿のようなやつよの」
後ろから声をかけられ、コングラは、ゆっくりと振り返った。
つい先日、胴枯れしたからといって、サンジュが切り倒した木の切り株に、痩せた老人が腰かけていた。
「偵察か、セイタカ」
振り返ったコングラを見て、セイタカと呼ばれた老人は、吹き出した。
「なんじゃ、その髪は。縮れる魔法でもかけたのか。お前が、若いものの好みに迎合するやつだとは、知らなかったぞ」
「うるさい。ちょっとした事故だ。それより、何しに来た、と聞いておる」
「うむ。それじゃ」
セイタカは、切り株の隣を、とんとんと、叩く。ここに座れと言っているのだ。
「わしは、それほどの年ではない」
そう言いつつも、コングラは、深い疲労感を覚えずにはいられなかった。
なんにしても、大切な愛弟子を、世の荒波に送り出した後だからだ。
仏頂面をしたまま、コングラは、セイタカに背を向けて、切り株に腰を下ろした。
お互いに反対方向を向いて、二人は、話し始めた。
「おぬし、あの子ザルに、守護を譲ったのか」
「見ての通りだ」
「エレメノンの剣を取りに、ルート・ゼロ・ポールへ送り込んだのだな」
「邪魔だてすまいぞ」
「誰が邪魔なぞ。じゃが、よかったのか? あれは、魔族ではないのか?」
「それは、わからぬ」
「赤子だったやつを、この森で、拾ったのであろう。結界をすりぬけてきたと考えるのが、自然ではないか?」
それは、事実だった。
16年前のある夜、森の結界を見回りに来たコングラは、セコイアの大樹の根元で、生まれたばかりの赤子を、発見した。
しっかりと両目をつぶったまま、大声で真っ赤になって泣きわめいている赤子は、裸だった。へその緒が長く垂れ下がっている。
それは、この大陸……アンタクティカには、あるはずのない、肌の色をしていた。
ペール・オレンジ……。
青ざめた、血の色。
かつて地上に栄え、今は滅びたはずの民族の、肌の色……。
おまけに、裸のその尻には、呪われた人種の証、青黒い痣のようなものが、しっかりと刻印されていた。
コングラは、すっと、懐から手を出した。
そこには、鋭く研ぎ澄まされた、短剣が握られていた。
肌の色を見るまでもなく、この森……異界との結界……に、平然と生きてある赤子もまた、魔物に決まっていた。
ましろい切っ先が、木々の梢を通して差し込む星灯の下、ぎらりと光る。
大きく振りかざし、コングラは、赤子の心の臓を狙った。
その時、赤子が目を開き、黒く輝く瞳で、コングラを、じっと見据えた。
その眼には、何の感情も含まれてはいなかった。
ただ、じっと、コングラを見据えただけだ。
そしてコングラは、これを殺すことはできない、と、悟った。
それからの年月、サンジュ(子ザル)と名付けたこの赤子の、育ての親となり、また、山岳修行の厳しい師ともなって、育ててきた。
「あやつは、黄色い肌をしている。あの肌を見れば、この大陸の人間でないことは、すぐにわかる。ということは、異界から来たとしか、考えられぬ。帝はどう思われるかな? 民たちの反応は?」
セイタカが畳み掛ける。
この男もまた、コングラと同じく、ラウルス皇国の守護であった。
若き頃より、互いに切磋琢磨しあってきた、よきライバルでもある。
ともいえる。
「そんなことは、知らん。それは、あやつの問題じゃ」
もう何十度となく自問を繰り返してきたコングラは、平然と答えた。
考えても考えても、答は出ない。
それなら、本人に任せるしかないではないか。
セイタカは、目を細めた。
「ほう、冷たい師匠だな」
「あいつは、わしより、長く生きる。はように手放してやったが、幸せというもの。大きな樹の下では、若木は育たぬものよ。大樹の下には、陽の光が届かぬからな。だから樹は、おのが種を風に飛ばし、鳥に食わせ、遠くへ運ばせる」
「サンジュは、お前の種か。いつの間に、どこの女に仕込んだ」
「馬鹿言え。血はつながっておらずとも、いや、血のつながりが、なんぼのもんじゃ。わしら守護とは、そういうものぞ」
「まあのう……。それにしても、割り切った男よのう。わしは、悩んだぞ」
「なに? お前も、弟子を送り出したか」
「同じ年齢なのを、忘れたか。お互い、とうに、隠居の年齢じゃ」
「すると、あのお方……」
「わしの最後の弟子といったら、一人しかおるまい」
「なんとまあ。それは、いくらなんでも……」
「魔物の係累より、ましであろう。いや、そんなことを言ったら、罰があたる。この上もない、血統正しいお方よ」
「師匠のお前が、かしずいていたものなあ」
「かしずくなぞ。有能な上に、折り目正しい、立派な弟子であった」
「しかし、まずくないか? それこそ、帝がどう思われるか」
「なに、弟子入りは、向こうからの志願。こちらに累は及ぶまいよ」
「気楽な奴じゃ。ん? ということは、まさか……?」
「そう。ルート・ゼロ・ポールへ向かっておる。クラーク山脈のどこかで、お前の弟子と出会うであろう。あの、山ザルとな」
「では、あいつらも、いずれ、わしらのように互いに補い合い、この国を守っていくのか。しかし、なんとも似つかわしくないふたりよのう」
「一緒にすな。わしとお前では、品格が、全然違う」
「うむ。お前ほど下品なやつは、この世にはおらぬからのう」
「こら。逆であろう」
「そうか。サンジュとあのお方が……」
「下品なのは、お前の方じゃ……」
なおも続く守護セイタカの抗議を聞きもせず、守護コングラは、遥か彼方を眺め続けた。