森の結界
「……サ、……サン、ジュ」
老師の声に、サンジュは、はっと我に返った。
右手に構えた杖は、魔物のこめかみを、右から左へと、刺し貫いていた。
ゲル状の熱い蒸気が、ぼとり、ぼとりと落ちる。
「コングラ老師!」
サンジュは、慌てて老人の元に駆け寄った。
硬直したように、杖をにぎりしめた腕を前に突き出したままの老人を、魔物の体の下から引き出す。
間一髪だった。
老人が引き出され、支えを失った魔物の体は、ジューッという激しい音とともに、蒸気に包まれた。
「……まったく、危うくこっちが殺られるところだったぞ。見ろ、少ない髪の毛が……」
老人……この国の守護であるところの、修験者……は、不平そうに、愛弟子を見やった。
「言っておくがな、わしは、お前に助けられたわけではないぞ。お前の詰めの甘さのせいで、危うく、死ぬところだったのじゃ。これは、貸し借りでいうと、貸しだ」
「はいはい、わかりました」
老師の負けず嫌いは、今に始まったことではない。
「はい、は、ひとつ!」
「はい、老師」
負けるが勝ち、は、コングラとサンジュの師弟関係において、重要なキーワードだった。
「あわれな……」
サンジュはつぶやき、最後に魔物が倒れた場所に向かい、両手を合わせた。
しばし、魔物の死を弔う。
そこには、黒く焼け焦げた草があるばかりで、魔物の姿は、どこにもない。
魔物の死を悼むサンジュの後ろで、コングラ老人は、まだ、不満げだ。
「まったく、お前の、その、詰めの甘さ、どうにかならんかのう」
「わたくしは、命を、奪いたくはないのです」
「それは、魔物だぞ」
「魔物であっても、殺せば死にます。血に似た体液も持っている。われわれ人間と、どう、違うのでしょう」
「これらを生かしておくと、この国の民が、迷惑する。国人を守ることが、我ら守護の使命なのじゃ」
厳しく非難されて、サンジュは、うつむいた。
コングラは、なおも厳しい調子で続ける。
「魔物を殺せというのは、お前の修行の、最後の課題だったな。今、魔物を前に、ためらいや迷いが、最後の一撃を遅らせたのは、これは、厳然たる事実……」
サンジュは、体がねじくれる思いだった。
今までの苦しい修行が、無駄になるのか。
「じゃが、わしのこの、大切な髪を守るのに間に合ったのは、大きなポイントじゃ。少し焦げたが。よろしい。お前を、わしのあとを継ぐ守護に任じよう」
「……?」
言葉の意味がわからず、サンジュは、きょとんとした。
そんなサンジュを、コングラは、打って変った、慈愛に満ちた目で見つめた。
「免許皆伝じゃ。サンジュ、今日からお前は、ラウルス皇国守護として、この国を守るために、全力を尽くさねばならぬ」
コングラは、にっこり笑った。
初めて見る、老師の笑顔だった。
「お前は、身体能力が、異常に高い。あの魔物の攻撃を逃れるのは、わしにも、ちょっと、骨が折れたろう。ま、できなかったとは言わないが。もっと早く、この日を迎えるべきだった」
少し、ためらった。
「だが、お前は、力が弱い。腕力だけで敵を倒そうとしても、限界がある。武器が必要だ。……樹の上からは、クラーク山脈が見えるか?」
サンジュはうなずいた。
クラーク山脈は東の方角にあり、このアンタクティカ大陸を横断する。全長は3500キロ、幅は、おおむね、100キロから300キロという、長大な山脈である。
「クラーク山脈を超えて、少し行くと、ルート・ゼロ・ポールに到達する。そこに、エレメノンという剣がある。軽くて、しかも、何でも切れるという、勇者の剣じゃ。それを、わがものとするがよい」
「ちょっとお待ち下さい」
サンジュは、あわてて、遮った。
「クラーク山脈を超えるって……国境を超えるのですか?」
クラーク山脈のこちら側は、ラウルス皇国。そして、山脈を越えた向こうは、モエニア・レス・ブーブリカ共和国である。
クラーク山脈を隔てて、両国は、常に、緊張状態にある。
「そうじゃ。じゃが、安心しろ。ルート・ゼロ・ポールと、山脈からそこへ至るまでの道は、中立地帯じゃ。隣国の兵も、手出しはできない」
サンジュは、呆然と立ち尽くした。
静かに、免許皆伝の喜びが、こみあげてきた。
「老師……」
尊敬すべき存在ではあったが、それを補ってあまりあるほどの変人さ。
その二つを併せ持つのが、サンジュの師匠であった。
だが、ついに、この日を迎えることができたのだ。
ついに、この偏屈老人ともお別れ……。
「ありがとうございます、老師」
「礼なぞ言うでない」
コングラ老人は、ぷいと、視線をそらせた。
「それより、エレメノンの剣が、何を意味するか、わかるか?」
「はい。老師の弟子として、恥ずかしくないよう。また、皇帝によく仕え、その民草人を、安寧に導くこと。そして、自分を犠牲にして戦いつくすこと……」
「まだるっこしい!」
弟子の理想に燃える顔を、まぶしそうに眺めつつも、老人は一喝した。
「その剣でもって、敵に、必ずとどめを刺せ、ということじゃ。殺せ。魔に属するものを、生かして帰しては、ならぬ」
「……」
「さあ、行け。汝の使命を、全うするのじゃ。ここの森は、わしに任せて、お前は、お前の道を行くがよい」
ついに、師匠の元を離れる日が来たのだ。
震える思いで、サンジュは、うなずいた。
「それからな、この森は、わしが守るから、無理に帰ってこんでいいぞ」
コングラは、力強く頷いた。
「お前は、お前のなりたい守護になれ」
いつの間にか、朝日が山の上に顔を出し、暖かい光が祝福するが如く、サンジュの顔を照らしていた。