朝の出来事
翌朝、身支度をして、食堂に降りてみると、カイトが大泣きしていた。
前の席には、クロエが座って、にやにやしている。
ジュスティビエーヌとジークたちの姿は見えなかった。
足音を聞いて顔をあげたクロエが、にっこり笑った。
「あら、おはよう、サンジュ。よく眠れた?」
「ああ、布団があんまりふかふかなんで、びっくりした」
「まさか、コングラの藁布団が恋しい、なんて、言わないわよね」
「そんなこと、いわない。柔らかい布団は、いいものだね」
でも、軟弱者になりそうだ、と、サンジュは、心の中で付け足した。
実は、あまりの高級感に、寝付くまでに、時間がかかったのだ。
「で、なんで、カイトは泣いているの?」
「私がいけないのでございます」
影が口をきいて、サンジュは、びっくりした。
壁際に、ひっそりと立っていた、ジーヴスだった。
「私が、つまり、その……」
「カイトが集めてきたダンゴ虫を、捨てちゃったのよね」
「玄関ホールに、きれいな瓶がありましたので、その、覗いてみましたところ……。まさか、カイト様ご所有の虫たちとは……」
そういえば、ここへ来る途中、カイトは、ちょろちょろと走り回っては、地面に穴を掘っていた。
あれは、ダンゴ虫を集めていたのか。
「ボクのかわいいダンゴ虫! たくさん集めて、プリンセス・イガミに見せてやろうと思ったのに……」
「違うでしょ」
きっちりと、クロエがねじこむ。
「正直に言わないと、舌を抜くわよ」
「……スープの浮き身にしようと思ったんだ。ボク以外の」
「前回と同じネタを使おうとした、あんたの負け」
情け容赦なく、クロエが断じた。
サンジュは、思わず、目の前に置かれたスープの器を覗き込んだ。
「大丈夫でございます、ダンゴ虫は、きちんと処分いたしましたから」
訳知り顔に、ジーヴスが言った。
カイトが、一段と大きな声で泣きだした。
朝食も、素晴らしいものだった。
パンと透き通ったスープ(これに、丸くて黒いダンゴ虫が浮いていたら、ちょっと食べたくない)、塩辛い薄い肉(ベーコン、というそうだ)、卵焼き、それに、ホウレンソウを油で炒めたもの。牛乳とリンゴ、信じられないくらい滑らかなヨーグルトもあった。コーヒーはどうかと勧められたが、丁寧に辞退した。
ぐずぐずと哀れな声で泣き続けるカイトの声を聞きながら、サンジュは、きれいにそれらを平らげた。
「薄情なやつ……」
健啖ぶりを見せつけるサンジュの横で、カイトは、恨めし気だ。
「それで、今日は、どうするの?」
味覚がおかしいのだろう、あの苦いコーヒーを、目を細めて味わいつつ、クロエが尋ねた。
「ゆうべ聞いた話では、ジークとユージンは、この城の隣に、作業所を建てて、エレメントの細かい加工を済ませるんですって。ジュスティビエーヌは、周辺の見回り。カイトは……」
「プリンセス・イガミに会ってくる。空の結界が気がかりだし。でも、三度の食事は、ここで済ませるから」
泣き声の間に、カイトが宣言した。
サンジュは言った。
「俺は、都へ行ってみようと思う」
「都へ?」
「優しい人々に、会ってみたい。ゆうべは止められたけど、やっぱり俺、優しさの守護を、あきらめたくない」
「そう? 別に止めないわよ。首都アルスは、城郭都市。この塔は、その城郭の、すぐ外側に建っているの。その方が、電波の受信状態がいいからね」
クロエは不意に、目をきらめかせた。
「さっそく、化粧を……」
「それだけど。俺、このままの肌の色で行こうと思うんだ。俺の先祖は、とても悪いことをしたのかもしれない。だったら、それを、詫びないと」
「会ったこともない遠い先祖のことで、あなたが詫びる必要はないんじゃない?」
「ただ……気が済まないから。なんにしても、隠し事は、よくないよ」
「あなたがそう言うなら。でも、そのままで行くと、やっかいなことになるわよ」
脅しつけるように、クロエが言う。
「あたしに任せなさいよ。きれいにしてあげるから。あんたの目、真っ黒で、澄んでいるから、まぶたにちょっとだけ、シャドウを入れてあげる。それから、ハイライトで獅子っ鼻をカバーして、チークで華やかさを演出すれば、完璧。どんな女子も、足元にも及ばないわよ」
「女に負けるなんて、思ったこともない。俺の運動能力は、普通の人間以上だ」
「……。あのね。ちょっと手を入れれば、立派に美女になれるって。あなた、小柄でかわいいもの。あ、私のワンピ、貸してあげるからね。少し丈をツメた方がいいかしら?」
「まさか……。この俺に、女装しろ、と?」
「言葉で言い表すとそうなるわね」
「け、けっこうです。っつーか、女装する必然性を感じないし」
「女装は、必要があってするもんじゃないの。内なる心の声に答えてするものなのよ」
「楽しそうな話をしておるのう」
ジュスティビエーヌだった。
Tシャツに、紺ジャージ姿だ。
……ややこしいのが起きてきた。
サンジュは、早くも逃げ腰だ。
氷よりも冷たい声で、クロエが答えた。
「あら、ジュスティビエーヌ。起きてたの?」
「とっくに起きてたわい」
「ふん。年寄りは、朝が早いものね」
「ああん? ジムで腹筋を鍛えておったにゃ。おみゃーさんらにも、見せてやろうか? 見事に割れた、あちきの6パック」
もぞもぞと、シャツをめくり上げようとする。
全員が、いっせいに目をそらせた。
「けっこうよ。早くおなかをしまってよ」
皆を代表して、びしりとクロエが言った。
しぶしぶと、ジュスティビエーヌは、シャツをズボンにたくしこんだ。
いまやカイトも泣き止み、女性二人を、興味津々と眺めている。
けろっとして、ジュスティビエーヌが言う。
「さっきしていた化粧の話、あちきも一枚、かませてはくれんかのう」
「駄目よ。メークには、絵心が必要なのよ。アートのない人に、任せられるもんですか」
「いいもん。ジークに頼むから。あやつの方が、断然、男前だし。サンジュよりずっと、化粧のしがいがある」
「わっ、悪うございましたねっ」
思わず言ってしまったが、サンジュの声は、クロエの悲鳴のような叫び声にかき消されてしまった。
「駄目。だめったら、絶対、ダメ!」
憤慨を通り越して、涙声だ。
ジュスティビエーヌは、余裕ありげに着席し、運ばれてきたスープをすすった。
そして、叫ぶ。
「汁しかない!」
「ジークもユージンも、まだ、寝てるよ。二人とも、お寝坊さんだねえ」
すっかり機嫌が直ったらしく、カイトが新たな目論見を述べた。
「庭からアブラムシを取ってくるひま、あるかな?」
「あの二人は、同室かにゃ?」
ジュスティビエーヌの問いに、影のように歩み寄り、スープ皿を下げたジーヴスが答える。
「続きの間でございます。従者は、常に、主人を間近に守らねばなりませぬから」
「主従そろって、同じ部屋で朝寝坊か。若者は、夜更かしが好きだにゃ」
からん。
クロエが、スプーンを落とした。




