ノブレス・オブリージュ
クロエは、話し続ける。
アンタクティカ大陸に移住した人々にとって、プレ・ワールドとの遮断は、急務でした。地上に最後に残された、清浄な大地に、毒を入れるわけにはいかないからです。
中でも、特に優秀な科学者が、結界を張りました。
時の流れや時空のゆがみで、結界の位置は、時々に変わり、一般の人にはわかりません。
私達守護にしか感じ取れないのは、サンジュも、知っていますね。
結界の内側は、完璧に、清浄な世界です。
しかし結界の外に出た生き物は、たちまち、プレ・ワールドの毒に感染してしまいます。
もし、こちらに戻ってきたなら、こちら側にも、毒をもたらすことになります。
魔物……結界の外の生き物のことを、結界の外に出てしまった生物をも含め、私たちは、こう、呼びます。
結界を張ることのできた科学者……その一族が、ラウルス皇国の帝です。
ですから、この国の帝、あるいはその血を引く者にしか、民衆を守ることはできないのです。
同時に、民を守ることは、皇族にとってのノブレス・オブリージュ……聖なる義務でもあるのです。
その後、アンタクティカの国々は分裂しましたが、結界の技術を伝承しているのは、ラウルス皇国の皇族だけです。
ここにやってきた当時、人々は、科学技術の恐ろしさを骨身に沁みて、思い知っていました。
新しい大陸で、人々は、科学の便利さを捨て、人間本来の生活を追求しました。
その一方で、新しい環境につきものの恐怖が、人々を襲いました。
風土病です。
氷が解けた大陸では、氷とともに、さまざまな細菌が、病となって、人々に広がってゆきました。
また、飢え、寒暖の差、水不足、洪水、ありとあらゆる災厄が、人々に牙をむきました。
一時、人口は、恐ろしく減りました。
失われた全世界の科学を取り戻したいと、人々は、切実に希いました。
ここで、私の一族の話をしましょう。
一度捨てた、前世界の科学技術を再び取り戻すのは、殆ど不可能と思われました。
科学技術だけではありません。
人類の知の伝承は、プレ・ワールドとアンタクティカの間で途絶えてしまいました。
しかし、先に述べた自然災害や疫病で、この時、人口は、数十人規模にまで、激減してしまいました。彼らが生き残る為には、なんとしても、プレ・ワールドの叡智が必要だったのです。
生き残った僅かな人々の中に、一人の、黒い肌の少女がいました。
ある日、彼女が、左手を空高く上げると、静かに、語りかけてくるものがありました。
それは、心楽しい物語でした。
少女はその話を記憶し、人々に、語ってきかせました。
病気や飢えで苦しんでいた人々の顔に、本当に久しぶりで、笑みが広がりました。
少女は、次々と新しい物語を受信し、人々に広げました。
少女の話を聞き、人々は、楽しい気持ちになりました。生活の役には立たないけれど、でも、きっと、免疫があがったのでしょう。
人々は、丈夫になりました。
ある日、少女は、ふと、左手の代わりに右手を上げました。
そして、雷に打たれたように、その場に倒れてしまったのです。
わけもわからぬまま受信したそれは、プレ・ワールドの叡智でした。
プレ・ワールドの人間は、それまでに獲得した人類の叡智全てを、電子化していました。たとえば、彼らは、図書館という、知識を集めた施設を持っていましたが、その図書館の中身も、まるごと、電子化していたようです。
プレ・ワールドは滅びましたが、文学・芸術を含む電子化された叡智は、未だに、地球上を飛び回っていたのです。
少女は、その、電波の残滓を、受信したのでしょう。
その話を聞いた、例の、結界を張った科学者の子孫は、すぐに、その有用性に思い至りました。
彼は、少女が受信した知識が、即座に自分の元へ転送される装置を開発しました。
少女には難しすぎる科学技術でしたが、彼女は、受信するだけでよかったのです。
彼にとって、その方が、都合がよかった。
民衆に広めずとも、知識を独占できるからです。
少女が受信したプレ・ワールドの科学技術は、技術者の一族の者たちの手によって、次々と実用化されていきました。
しかし、彼は、賢人でした。彼に連なる一族の者たちも、また。
彼は帝となり、代々、賢帝が続きました。
放っておけば、人々は、科学を極限にまで追求し、ついには、世界を滅ぼしてしまう。
また、プレ・ワールドと同じことを繰り返してしまう。
その思いから、不用意に、こうした知識を広げることのないよう、彼らは、心を砕きました。
たとえるなら、民が病気に罹れば、その治療はします。しかし、そのために必要な、薬や医療の知識は、絶対に、国民に、教えられることはないのです。
国民はただ、言われたとおりに薬を飲み、また、手術を受け、病気を治します。
それでいいのです。
薬の知識、医学の技術は、帝や、その腹心のみが管理し、一般の民は、決して、知ることがありません。
今も、プレ・ワールドの知恵、科学技術は、次々と受信されています。
そしてそれは、帝とその配下の者たちによって、占有され、厳密に管理されているのです。
どういうわけか、私の一族の少女のみが、こうした受信能力を備えているようです。
あるいは、母から娘へと伝わる、ミトコンドリアに、その原因があるのかもしれません。
同じ年齢の少女の中でも、特にその才能の強い者が、塔の守り人の職を受け継ぎます。その他の少女たちは、守り人の子孫であることを隠し、決して右手を上げることのないよう、心して、生きていきます。
ただ……。
物語……有名無名にかかわらず、プレ・ワールドの作家が紡いだ物語だけは、受信が許されています。
それは、聞かされた人全員の、生きる喜びにもつながるのですから。
ですから、私は、右手は帝の為に、左手は、民の楽しみのために、空へ向けて上げるのです。




